4-6
「そうね、まずは校舎にどんなものがあるのか案内してもらおうかしら」
今日は妃和のやりたいことを叶えることになっているのだが、着替えを終え、これから何をしようか話を始めた直後、彼女は教壇に立ってそう切り出した。
例えば音楽室。例えば体育館。特別教室だとか、放送室。職員室だとか、図書室。そういったところをまずは一通り案内して欲しいのだと彼女は話す。
僕も人のことは言えないけれど、彼女のやりたいことも随分と平和的なことだと僕はついそんなことを思ってしまう。
「別にいいけど、大して面白くも何ともないと思うよ」
僕の通っていた高校、つまり今僕達のいるこの高校の校舎は別段特徴もない一般的なものだ。何か物珍しい所がある訳ではない。普通の教室、普通の体育館、普通の図書室。ここには変哲の無い部屋が敷き詰められているだけだ。
「普通でいいのよ。私はね、今日一日だけでいいから、あなたと普通の高校生活というのを体験してみたいだけなの」
彼女の言う普通の高校生活、という箇所が耳に残る。とりわけ普通の、という箇所が。止まった時計の針を眺めている彼女の後ろ姿が、ふとかつて夕暮れの屋上で見た彼女の後ろ姿と被る。
切ないと言うべきか、寂しいと言うべきか。ただ、彼女の後ろ姿がとても小さく見えてしまう。
僕が妃和のお願いを聞かない道理はなかった。可能であるなら、僕は彼女のためにどんなことでもしたいと思う。
「分かった。じゃあ、行こうか」
机の椅子から立ち上がる。妃和は僕の後ろをついてくる。彼女はさながら一日限りの転校生のようで、これから僕はそんな転校生のために校内を案内する役割を担ったかのようだった。
教室を出て廊下を歩く。腕時計を見る限り、時刻はちょうど午前八時半。本来ならば一時間目の授業が始まる時間だ。
一時間目の授業をサボり、僕は彼女と廊下を歩いている。そう考えるとなんだか楽しくなってくる。だが、どの教室にも人は誰一人としておらず、授業の開始を告げるチャイムの音も鳴り響かない。
妃和が「なんだか少しだけ寂しいわね」とそう呟いた。僕も同じことを思っていた。
「普段の廊下はどんな感じなの?」
妃和が尋ねている普段のというのは、きっとまだこの高校に生徒がいた時のことを指しているのだろう。
「どんな感じ、と言われてもどこにでもあるような光景が広がっていたと思うよ」
多くの生徒がそれぞれ友達同士で雑談をしている。休み時間なら次の授業の準備のために廊下のロッカーに教科書だとか辞書だとかを取りに行ったり体操着に着替えて体育館やグラウンドへ向かったりしている生徒の姿が見られただろう。昼休みは購買のために廊下を走って行く生徒がいたり、放課後は愚痴を溢しながら作業場へと向かうバスに乗るために廊下を慌ただしく歩いたり走ったりしている生徒の姿が見られる。
一度外に出て校舎の全体像を妃和に見せた後、近くにある場所から案内した。体育館にグラウンド、中庭。校舎の中に入り、職員室だとか保健室。
それらの場所に来ると、妃和は必ず「普段はどんな様子だったの?」とまず僕に尋ねて来た。僕はその度に、かつてその場所で繰り広げられていた光景を思い出す。
目を閉じて、生徒がいた時の様子を思い浮かべる。
体育館なら全校集会の時だとか体育の授業の時のこと。
中庭には何度か峯と一緒にお昼を食べに来たことがあった。
職員室にはあまり行ったことがなかったけれど、教師や生徒が色々な表情をして話をしていたのを僕は知っている。ついこの前に鈴木先生に会いに行った時のことも思い出される。
保健室へは二、三回行ったことがあって、体育の授業で怪我をした時と、単に体調不良の時に訪れた。いずれも後から峯が保健室にやって来て「調子はどうだ?」なんて話しかけてきたものだった。
今更だけれど、こうして改めて思い返してみるに本当に色々な人がいて、色々なことがあったと、そんなことを思う。
そして、目を開ける度にそれらはもう二度と見ることの出来ない過去の光景であることをどうしようもないほど突きつけられた。同じ場所なのに、そこには誰もいない。
今はもう体育館で体育の授業は行われないし全校集会も開かれない。中庭では誰にも見られることなく花壇で花が咲いているだけで、職員室は空っぽだ。保健室だって、カーテンだとかそういったものはすべて取り外され、シーツも布団もないベッドと机と丸椅子だけが取り残されているだけだった。
ただ、最後に案内した図書室だけは、かつてと変わらない姿を保っていた。とはいえ、別に図書室に人がいたというわけではない。ただ単に本棚に隙間なく変わらずに本が敷き詰められたままだったというだけだ。それだけでも僕は嬉しかった。
本の無い図書室。空っぽの本棚が存在しているだけの空間。そんな様子を想像する。それは酷く気持ちの悪いものだった。
それから図書室で妃和と一緒に本を読み、気が付けば正午。
昼はどうしようかと悩んだが、とりあえず近くにあるコンビニに行ってみることにした。幸いなことにインスタント食品がかなりの数残っていたため、それらを買うことにした。もうお金を払う必要なんてないのだろうけれど、なんだか何も払わず食べ物を持っていくのも気が引けたため、レジの所に代金を置いていった。それがなんだか可笑しくて、僕は妃和と顔を合わせて笑ってしまった。
そうして高校に戻り、教室で昼食を済ませる。
昼間の陽気な日差しが教室中を包み、気持ちのいい眠気が毛布のように僕の体を優しく包み始めた。
「眠いの?」
「うん。ちょっと」
教室の窓際。妃和の隣に座って壁にもたれ掛かる。
「少し眠る?」
「いや……」
それはとても魅力的な提案だけれど、ここで寝てしまっては妃和がやりたいと願うことが出来なくなってしまう。
「妃和は、この後何をしたいの?」
そう尋ねると、妃和は一言「授業を受けてみたいわね」とそう話した。
「授業? ここで?」
「そう」
この教室で授業を受けたい。彼女の願いはとても細やかなものだ。おそらく彼女は、僕がこれまで受けていた普通の授業を受けたがっているのだと思うけれど、それはもうどうしたってこの教室では行われないだろう。今はもう授業をしてくれる先生もいないし、かつてのクラスメイトだっていない。
妃和もそのことを分かった上で授業を受けてみたいと話したらしく、彼女は「授業を受けているような雰囲気が楽しめればそれでいいのよ」とそう言って立ちあがった。
「この教室、以前有紀君が授業を受けていた教室でいいのよね?」
「うん」
妃和は壁を沿うようにして教室内を回り、教卓の前まで来て止まり、教室を見渡す。
「有紀君の席はどこだったの?」
僕の席は窓側の一番後ろ。僕がそう話すと、妃和は前へ進みその隣の席に座った。ちょうど峯が座っていた席だ。
彼女は席に座り「有紀君、授業が始まるわよ」なんて口にして手招きをする。僕は彼女の手招きにつられるように、数週間ぶりに自分の席に座った。
少し前までは毎日のようにこの席に座って授業を受けて、峯のどうでもいいような話を聞いて日々を過ごしていたのだ。でも、その日々がとてつもなく遠い過去のことのように感じられる。この教室はこんなにも広かっただろうか。
「こんな風に見えるのね」
隣の席に座っている妃和がそう呟く。なんだか、峯がいた席に彼女がいると少しだけ変な気がしてしまう。
そんな心情が顔に出ていたのか、妃和が「どうかしたの?」と尋ねて来た。
「いや、別に何でもないよ。ただ、その席に前座っていた奴が僕の友達だったからさ。そこに妃和がいると、なんだかおもしろいなって、そう思っただけ」
「友達? 峯、っていう人?」
「そう。とても面白くて、厚かましくて、だけど本当にいい奴だった。基本的に授業中は寝ているんだけどね、歴史の授業だけはしっかりと起きて先生の話を聞いていて、とにかく歴史が好きな奴だった」
峯は今どうしているだろうか。無事に目的地にたどり着くことが出来ただろうか。心配したところでどうしようもないし、確認する手段もない。ただ、無事にたどり着くことが出来たと、そう願わずにはいられない。
「歴史?」
「そう。なんでも、彼の父親が考古学者らしくてね。その影響もあるって前に話していたよ」
「そうなの」
ふと、この教室でそう短くない時間を一緒に過ごしてきたクラスメイトには一体どんな過去があってどんな思いを持って毎日を過ごしていたのか少しだけ気になった。
峯でさえあんな思いを持っていたのだ。他のクラスメイトならばもっと別のことを考えていた人もいただろう。
同年代の人が犇めき合っていた空間。そう考えるとなんだか教室という空間がとても不思議に思えてくる。僕は峯以外のクラスメイトとあまり仲は良くなかったし、話も全くしなかったけれど、今更になってもう少し話をしてみてもよかったのかもしれないなんてそんなことを思ってしまう。
隣に座る妃和に目を向ける。もしも彼女が本当に僕と同じクラスに所属するこの高校の女子生徒だったとして、もしそうだったとしたら僕と彼女の関係性はどうなっていただろう。
「どうかしたのかしら?」
「いや、ちょっと考えていたんだよ。もしも妃和がこの高校に入学していたらどんな高校生活を送ることになっていたのかなって」
例えば、中学生の頃に電車の中で偶然再会した後、高校の入学式で互いの姿を見かけ、クラスも同じだった。僕の苗字が秋村で彼女の苗字は白谷だから、番号順に並んだ状態で席が近いかどうかは分からないけれど、でもおそらく、僕は彼女に声をかけていたと思う。
妃和も、もしもこの高校に入学していたらという想像をしていたらしく「多分、例えクラスが同じではなくても、私は校舎内で有紀君を見かけたら絶対に話しかけていると思うわ」と、そう話す。
それは僕も同じだよ。僕はきっと、入学式早々、あのストラップを持って君に話しかけただろう。
「私、友達だとか、そういった人を作るのが苦手なのだけれど、それでも上手くクラスに馴染むことが出来るのかしら?」
「どうだろうね。ただ、もしも僕と同じクラスになっていたのなら、おそらく大丈夫だと思うよ」
変わった奴はちらほら見かけたものだけど、それも個性だと言ってしまえばそれで済む。あれだけの人数が居たのだし、一人くらい、妃和と気の合う人もいただろう。
「それに、僕もいるから」
僕がそう言うと、妃和は少しだけ頬を赤らめ、「そうね」と笑った。
それからは、僕と妃和で授業を受けているふりをして時間を過ごした。偶然、ある机の引き出しに数学の教科書が忘れられていて、僕達はその一冊の教科書を、席を近づけて一緒に眺め、時折教科書の問題を黒板に書いて解いた。
また、どうしてか妃和が教師役をし始めて、教壇に立って話をする彼女の姿を僕は眺めた。彼女の心地のいい声が教室に響いて、そんな声を僕は独り占めしていた。
きっと、もうじき死んでしまうというのにこんな呑気なことをしているのは世界中でも僕達くらいのものだろう。
ずっと眠っていた彼女だ。ずっと理不尽という風に身をさらされていた彼女だ。最後くらい幸せな気持ちでいてほしい。僕はそのために今ここでこうしている。
彼女は笑っている。少しだけ涙を流しながら。
彼女は言った。「こんな風に毎日を過ごすことが出来たら、どれほど楽しかったのでしょうね」と。
僕が「今は幸せ?」と尋ねる。
彼女は「ええ、とても」と答えてくれる。
このままあの時計のように時間が止まってしまえばいいのにと、幸せを幸せのまま大事にとっておくことが出来ればと、そう思わずにはいられなかった。
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