4-4

 世界はこれほどまでに暗闇に満ちていたのかと、僕はまずそんなことを思った。

 夜。屋上から望む街はどこまでも暗闇に包まれていて、どこにも光はなく、遥か先まで闇が走っていた。

 これまで人間がどれほど暗闇に光を灯していたのか改めて実感した。以前この屋上から見た夜の街の様子と、一切の光を失った今の様子との差がそれを教えてくれる。

 本当に真っ暗なのだ。数メートル先はもちろん、足元さえあまりよく見えなかった。



「これが本来の夜空の姿なのね」



 隣に寝ている妃和がそんなことを口にする。僕は「そうなんだろうね」と、そう返す。

 僕達は今、屋上に寝そべり視界の端から端までを夜空で埋め尽くしていた。彼女の言う通り、今目の前を覆い尽くしている夜空はこれまでのものと比べ見違えるほど美しい。息を呑むとはまさしくこのことで、僕は息をすることすら忘れ、真上に広がる世界に呑み込まれる。

 これが本来の姿なのだ。夜空のあるべき姿。大半の人間が居なくなったことで夜空は本来の姿を取り戻したのだと言っても過言ではないのだろう。

 暗闇に満ちた世界を夜空に浮かぶ星々が優しく照らしている。真上で浮かぶそんな優しい灯が心を落ち着かせてくれて、暗闇に対する不安だとか、恐怖心だとか、そういったものをそっと取り除いてくれた。

 遥か昔に生きていた人もこんな風に夜空を見上げていたのだろうか。星座というのを僕はあまり良く知らないけれど、あれは確か昔の人が生み出したのだという話は聞いたことがある。

 夜空に浮かぶ無窮の灯を線で繋ぎ物語を紡ぐ。それはなんだかとてもロマンチィックで、素敵なことだとそう思った。



「無数に散らばる小さな光一つ一つが遠くのとてつもなく大きな星々の輝きだなんて信じられないわね」



 地球はそんな数多くの星の一つでしかない。僕という人間は、さらにそんな小さな地球で生きる小さな人間でしかない。



「なんだか不思議な気持ちになるよ」

「そうね」



 魂だとか、どうして生まれて来たのかだとか、そういうことは分からない。そんなことを考えた所で答えなど出るわけがないし意味がないことも知っている。だけれど考えずにはいられない。

 奇跡、という言葉を僕はあまり使いたくないけれど、それはきっとまさしく奇跡的な出来事なのだろう。

 生まれたこと。生きていること。色々な人と出会い、言葉を交わし、こうして彼女と星を眺めていること。そのすべてが、とてつもなく奇跡的な出来事であるような気がしてくる。



「手、握ってもいいかな」



 僕がそう言うと、妃和は何も言わず僕の手を握ってくれる。僕は妃和の手を握り返す。

 言葉を交わさなくとも手の温もりが伝えてくれる。そんな気がした。



「宇宙船は今、どのあたりに居るのでしょうね」



 妃和は僕の手を握っていないもう片方の手を夜空に向けて伸ばす。



「どうだろう。ちょっと分からないかな。でも、宇宙船はこの夜空の一部になることが出来ていて、少しだけ羨ましく思えるよ」



 人が灯す光など宇宙の中では無いに等しいほど弱々しいだろう。だけれど人を乗せた宇宙船がこの夜空、宇宙のどこかで飛んでいることは事実なのだ。



「確かにそうね。なんだかとても凄いことのように思えるわ」



 ふと、こんな風に夜空を眺めている人間が果たして今の地球上にどれほどの数いるのだろうかと、そんなことを思った。

 僕と妃和が見ている夜空と同じ夜空をこうして見上げている人。世界は繋がっているなんてよく言っていたものだけれど、確かにこの時に限れば、世界は夜空を通し繋がっているのかもしれない。



「僕の高校での友人もさ、実はこの地球に残っているんだ」



 彼は今どこに居るのだろう。僕と同じようにこんな風に夜空を見上げているのだろうか。



「有紀君の友達?」

「そう。峯っていう奴でさ。面白い奴だったよ。それでいてとても良い奴だった。実はさ、妃和とこうして再開することが出来たのも、もしかしたら峯のおかげだったのかもしれないんだ」



 ストラップを取り出す。僕がこのストラップを身に付けていることを峯が鈴木先生に話さなければ、妃和の祖父である白谷源一が僕のことを見つけ出すことが出来なかったかもしれない。



「このストラップがなければ僕は君と再会することなんて出来なかっただろうね」



 淡い青色をしたガラス玉が夜空の星々をその球の内側に宿す。



「君に渡したいものがあるっていうのはこれのことだよ。とはいえ元々は君のものだし、渡すというか、返すと言った方が正しい気がするけれど」



 体を起こし妃和にストラップを差し出す。妃和も僕と同じように体を起こす。だけれど、妃和はストラップを受け取ろうとはしなかった。



「妃和?」



 彼女は一度夜空を仰いだ後、僕と目を合わせ話し出す。



「有紀君はもう察しているのかもしれないけれど、あの時そのストラップを電車の中に置いて行ったのはわざとなのよ」



 このストラップを拾ったのは僕達がもうじき高校生になろうかという頃、電車の中で彼女と再会した時だ。白谷源一の話によれば、ちょうどその時、妃和は冷凍睡眠に入る直前だった。それでも僕と話がしたいという願いを彼女は叶えるため、とても細い糸に頼るようにこのストラップを置いていった。その時の彼女の心情を思うと胸が苦しくなる。



「有紀君は、あの時のことを覚えている?」



 彼女の言うあの時というのは、きっとその電車の中で再開した時のこと。僕は「もちろん」と答える。



「私もね、心の内では無理だって思っていたわ。会えっこない、絶対に無理だって。それでも諦められなくて、何もしないで終わることだけは出来なくて。だからあの日、私は一日中電車に揺られていた」



 妃和は「あなたと会えたことは、本当に奇跡だったと今でも思うわ」と、微笑みながら呟く。



「私ね、あの時本当はとても嬉しかったの。自然と緩んでしまいそうな頬を引き締めて、油断すればすぐにでも流れ出してしまいそうになっていた涙を我慢していた」



僕が「とてもそんな風には見えなかったよ」と言うと、彼女はどこか恥ずかしそうに「だって、必死だったもの」と頬を少しだけ赤らめる。



「そのストラップ、ずっと大切に持っていてくれていたこと、私は本当に嬉しく思う」



 僕はずっとこのストラップを身に付けていた。いつかこれを彼女に返したいと思っていたのは、もう一度彼女と話がしてみたかったから。話がしてみたかったのは、彼女と一緒にいたいと思っていたから。



「でもね。私、実のところはそのストラップをあなたに返すつもりであの電車の中に置いていったのよ」

「どういうこと?」



 返すつもりでいたというのはどういう意味だろうか。このストラップは彼女の物のはずだ。このストラップをかつて僕が持っていたという記憶はない。

 困惑が顔に出ていたのか、妃和は「やっぱり覚えていないのね」と楽しさに少しだけ寂しさを混ぜたかのような笑みを作る。



「そのストラップの先についているガラス玉。それはね、あなたからもらったものなのよ」



 そして妃和は少しだけ昔話を始めた。

 ずっと昔。まだ妃和が母親と一緒にあの小さな町で暮らしていた時の話。前に聞いたように、その時の彼女は小学校にも行かず、ずっと母親と一緒に時を過ごしていた。

 そんな日々の中で、ふと母親が「友達は欲しくないの?」とそう話したのだと言う。この話も彼女から以前に聞いていて、だけれど彼女はその時「別にいらないわ」とそう答えたのだ。



「前にそう話したわよね。だけれどね、一つだけ嘘があるの」



 妃和は「もう二度と会うこともないだろうって、この話をしていた時は思っていたから」とそう話す。あの公園で妃和が話していたことを僕は思い浮かべる。

 彼女のついた嘘というのは、「友達なんて一人もいなかった」という点だった。



「友達はね、一人だけいたのよ」



 ある日のこと、彼女の母親が何度も「友達を作りなさい」と言うものだったから、彼女はその日一人であの公園に行ったのだと言う。

 午後の公園。見知らぬ子どもが数人いて皆楽しそうに遊んでいる。彼女は母親に言われて仕方がなくそんな公園に足を踏み入れたが、もちろん彼女に居場所などなかった。

 たった一人で公園の隅っこを歩き、行き着いた先は滑り台の下にある小さなトンネル。妃和はそこで体を小さくしてうずくまっていた。

 その時、ある一人の子が同じそのトンネルの中に入って来たのだという。



「それがあなた。きっと覚えていないでしょうね。当時の私の髪の毛はこんなに長くはなかった。どちらかと言えば、男の子みたいだったから」



 昔のことを思い出す。確かに僕はその昔よくあの小さなトンネルに身を隠していた。両親は仕事で、小学校から帰って来ても誰もいない。それが寂しくて僕はいつもあのトンネルの中にいた。



「あなた、初めて会った時に「どうしてこんな所にいるの? ここは僕の場所だよ」なんて私に言って来たのよ」

「そんな事、僕が言ったの?」

「ええ、よく覚えているわ。なんだかとても弱々しい声で、何かに怯えるみたいに」



 まだよく思い出せない。

 妃和は「なんだか私と似ているなと思って、ものすごく時間をかけてお話をしていたわ」と、その時のことを思い出すように遠くを見据える。

 少しだけ離れて、揃ってトンネルの中に身を隠し、外で楽しそうに遊んでいる子供たちをどこか羨ましそうに眺める。そうして僕と妃和はそんな子供たちを見ながらゆっくりと話をした。

 なんだろな。その時の様子を僕は容易に想像することが出来る。ぼんやりと、そんなことがあったような気がする。



「実を言うとね、私が自殺しようとした時、最後にあの公園に向かったのは、もしかしたらその時の子がいるかもしれないなんて思ったからなの。その男の子と話をしていた時は別に大して何とも思っていなかったけれど、思えばあの時間も大切な物だったのかもしれないってね」



 このストラップについているガラス玉は、その時に僕が彼女にあげたものだったらしい。何でも、公園で話をするようになってしばらくした後、僕が彼女に「もうここにはあまり来られないから」と言ってこのガラス玉を渡したのだそうだ。



「誰かから何かを貰うっていうのはあの時が初めてのことでね。それを家に持ち帰って、お母さんに「それはどうしたの?」って言われた時、なんだかとても恥ずかしかったのを今でも覚えているわ。友達からもらったのって私が言ったら、お母さんがこうしてストラップにしてくれたのよ」



 妃和は僕の手の内にあるストラップを見つめながら話す。

 そう言えば、昔僕はガラス玉を集めていた時期があった気がする。蝉の抜け殻を集めていた時期もあったけれど、小さい頃の僕にとっての遊びと言えばそれくらいのものだった。変哲の無い物を大事に集めて持っている。なぜかそれで安心感を得られていたのだ。

もしかしたら、今この手の中にあるガラス玉はそんな中の一つだったのかもしれない。



「でも、このストラップは妃和のお母さんが作ってくれたものなんでしょ? だったら、やっぱり君が持っているべきなんじゃないかな」



 妃和は「そう、かしら」と言葉を詰まらせる。



「ならこうしようよ。別に返すだとか返さないじゃあなくて、僕がこのストラップを君にプレゼントするんだ」



 僕は妃和にストラップを渡す。

 妃和は受け取ってくれて、ガラス玉を夜空にかざした。

 そうして彼女は「このガラス玉には思い出が沢山詰まっているわね」と、そう呟いた。僕は彼女のその呟きに「そうだね」と返した。

それから、妃和は大事そうにストラップを握りしめた後、銀色をした髪留めにストラップを括り付けるのだった。



「どう、似合っているかしら?」

「うん。とても似合っているよ」



 妃和は幸せそうな表情を浮かべる。その顔をみて僕も嬉しくなった。



「そういえば、私ずっと疑問に思っていたのよ。あの時、どうしてあなたは急に公園へ来ることが出来なくなってしまったの?」

「それは」



 公園へ行くことが出来なくなった。その時のことを思い出す。それは確か、綾さんの家に行くことになったからだったような気がする。昔僕が住んでいた家からなら子供の足でもすぐにあの公園へたどり着くことが出来たけれど、綾さんからの家からだとそう簡単には公園へ行くことが出来なかった。

 思い出した。確かに、そんなことが昔にあった気がする。



「綾さん?」

「そう。僕は一時期、その綾さんという人の家で暮らすことになったんだよ」



 そうだ。僕は一時期綾さんの家で暮らしていた。確か両親が「仕事が忙しくなりそうだから、しばらく綾ちゃんの家でお世話になるかもしれないわ」と、そう話していたのだ。

 妃和は「そうだったのね」と言って再び夜空を見上げる。僕も彼女につられるように顔を上げた。

 そこには依然として無数の光が灯っている。



「…………」



 あの時、両親はどうしてかとても悲しそうな顔をしていたような気がする。それは一体どうしてだったのだろうか。今更だけれど、それがとても気になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る