第四章
4-1
「面白いものね」
足取りがまだしっかりしていない彼女は、両手でバランスを取りながら線路の上を歩く。僕達が今歩いている線路は地面よりも高い位置に敷かれているので、時折吹く強い風が彼女の長く美しい黒髪を靡かせていた。
「まだ目を覚まして間もないんだし、あまり無理はしないでよ」
「大丈夫よ。心配ないわ」
彼女は僕の方を振り返り楽しそうに笑う。その笑顔を見て、僕はため息を漏らしつつもつられて笑ってしまった。
誰もいない街。
ほとんどの人がいなくなった街はこれ以上にないほど静寂に包まれていた。
僕等は今、そんな世界の中で本来ならば電車が走る線路の上を呑気に歩いている。
下から見上げていたビルが近くに見える。高速道路とは同じくらいの背丈で、街路樹や信号機、店なんかはとても小さく見える。
思いのほか街を一望できるらしく、僕が通っていた高校が見えるし、彼女が長年眠っていた研究所も、廃れた歴史博物館も、かつて宇宙船があった作業場も見ることが出来た。
こんな風にこれまでとても速く過ぎ去っていた街の風景をゆっくりと眺めながら僕達はある場所を目指す。
「有紀君、やっぱりあなたは眼鏡をかけていない方がいいわよ」
「急にどうしたの?」
「別に特別な意味はないわ。私が今そう思ったことを言っただけよ」
などと、彼女の言う通り一見して意味のないような会話を交わしながら僕達は足を進める。
宇宙船が旅立った翌日、つまり今日からして昨日だが、その日は一日中研究所の中で時間を過ごした。数年間眠っていた彼女の身体は当然のことながらそれなりに衰退しており、そのため一日は外に出ることなく彼女の回復を待っていた。
そして今日、僕達はこうして外に出て線路の上を歩いている。
これから限りある日数をどのようにして過ごすか。昨日の内に彼女と話し合った結果がこれだった。
まず僕がやってみたいと思った事をやるということになった。線路の上を歩き、彼女と再会した作業場のすぐ近くにある池に訪れ、高校の屋上で夜空を眺める。
我ながら随分とくだらないなと思うけれど、彼女は「素敵だと思うわ」と言ってくれて、初日はそれらをして過ごすことにした。
ちなみに明日は彼女のやりたいことを叶えることになっている。具体的に何をしたいのかは聞いていないけれど、何でも高校の様子を見てみたいという話だった。
「疲れてない? そろそろ休む?」
「いいえ、もう少し歩けるわ」
研究所から今目指している作業場近くの池まではそう距離がある訳ではないけれど、しかし彼女のことが心配だ。まだ目を覚ましてそう時間が経ったわけではないのだし、彼女が患っている病気が治った訳でもない。極論、僕は彼女と一緒に時間を過ごすことが出来ればそれだけで十分なのだ。だから、もしも彼女が無理をしているのなら今すぐ引き返して残りの日数をあの研究所の一室で過ごすことになっても構わない。
僕が彼女のために料理をして、他愛のない話をして、夜になれば「おやすみ」と言葉を交わし、朝になれば「おはよう」と言葉を交わす。僕にしてみれば、それだけで十分に満ち足りる。
前を行く彼女のことを眺めていると自然と笑みがこぼれる。僕は今とても幸せなのだと、本当にそう思う。
それから十分ほど歩いたところで休憩を挟んだ。妃和は線路の上に座る。僕も彼女にならって隣に腰を下ろした。
持ってきていた水筒を取り出し彼女に手渡す。彼女は「ありがとう」と言って水筒を受け取る。
このペースならば、おそらく昼前には目的地に到達することが出来るだろう。弁当も持ってきているから池の近くでレジャーシートを広げて昼食を取るのも良い。なんだか小学生の頃に行った遠足の時のことを思い出す。
「有紀君、料理が出来たなんて驚いたわ。昨日作ってくれた料理も美味しかった」
不意に、妃和はそんな事を口にした。そんな風に言われたのは初めてだったから、なんだか気恥ずかしくなってしまう。
「そんな大したものじゃあないよ。作れる物をそれほど多くはないし。僕の場合、仕方がなかったから」
両親がいなくなった後、大抵のことは一人でしなければいけなかった。料理をするようになったのもそのことがきっかけだ。
ただ、誰かのために料理をするというのは昨日が初めてのことで、それが妙に嬉しかった。
「私、有紀君が料理をすることが出来るなんて知らなかった。よく考えてみれば有紀君のことをあまりよく知らない」
「それは僕も同じだよ。僕も妃和のことをあまりよく知らない」
好きな食べ物だとか嫌いな食べ物。何をすることが好きで、何をされるのが嫌なのか。そういう事を僕はまだよく知らない。
「だからこれから話していこう。時間は限りあるけれど、それなりにあるから」と僕が続けると、彼女は「そうね」と答えてくれた。
「じゃあ一つ、有紀君に教えてあげようと思う」
「何?」
彼女は恥ずかしそうに身を縮めた後、顔を上げて僕の目を見る。
「私、こう見えて結構甘えたがりなのよ」
妃和は「だからその、少しの間だけでいいからおんぶをしてくれないかしら」と、そう続けた。
その様子がなんだか新鮮で、笑ってはいけないのだろうけれどこらえることが出来なかった。
妃和は「どうして笑うのかしら」なんてとても小さな声でそう言う。不安なのか、恥ずかしいのか、怒っているのか。たぶんそのすべてが小さな声に込められていたのだろう。
甘えたがりだと言うけれど、彼女はそれでいてあまり素直になれないのかもしれない。おんぶをしてほしいというお願いには、単に疲れたからだという理由だってあるのかもしれない。でも素直に疲れてしまったと言えなくて、その結果おんぶをしてほしいなんて口にしたのかもしれない。
いずれにしても、僕に断る理由はなかった。彼女に頼ってもらえることが純粋に嬉しく思えた。
僕は「いいよ」と答えて彼女の前に出てしゃがむ。
「ただ、荷物は妃和に持ってほしいな。手がふさがっちゃうから」
妃和は弁当の入った手提げのバッグに水筒を仕舞い、バッグを手に持つ。そうして少しの間逡巡した後、静かに僕の背中にその身を預けた。
妃和の温もりが背中に伝わる。
「じゃあ、立つね」
「わ、わかったわ」
誰かをおんぶするのはこれが初めてだ。妃和の微かな重みがとても心地いい。
「だ、大丈夫かしら」
「大丈夫だよ」
そうして僕は再び歩き出す。限りある時間を、彼女と一緒に。
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