3-9

 誰もいない街を自転車にまたがって走る。明かりを無くした信号機、建っているだけのアパートやビル、電車の走らない線路に車が走っていない高速道路。僕以外に人の姿は見当たらない。

 世界は静寂に包まれていた。街を行き交う人々の喧騒も、自動車がまき散らすエンジン音も、世界を包んでいた人々の営みはもう無い。

 かつて意味を持っていたものの多くがその意味を失い、まるで魂を抜き取られたかのように存在しているだけになっている。

 静寂に包まれた街の中、どこか遠くから蝉の鳴き声が物寂しく聞こえて来る。ふと、今のこの街は蝉の抜け殻と同じようなものなのだろうと、そんなことを思った。



 僕も小学生だった頃、公園で蝉の抜け殻を集めていた時期があった。今にして思えばどうしてあんなものを集めていたのか分からないけれど、当時の僕にしてみればセミの抜け殻は不思議なほど魅力的に見えたのだろう。

 今僕が見えている街がまさしくそれだった。街は死んだ。しかしどこか儚く魅力的で美しい。今僕の視界に広がっている街は、さながらとても美しい死体のようだ。

 きっと世界中で同じ光景が広がっているのだろう。



 白谷さんと話していたことを思い出す。世界にはきっと雨が降っているのだという話。おそらく今その雨は止んだ。今広がっている光景は雨上がりの朝方のような雰囲気に包まれている。

 雨上がりの朝、蝉は殻を捨てて空を飛ぶ。そして一週間という短い命を燃やすのだ。

 太陽が頭上で輝いている。目指すは高校の屋上。あそこからならこの魅力的に儚く死んでしまった街を一望できるだろう。

 死んだ街を走り抜け数日ぶりの高校にたどり着く。当たり前であるが人の気配など全くしない。鈴木先生がもしかしたら居るかもしれないとも思ったが、校舎内にその姿はなかった。

 屋上へと足を向ける。階段を上がり、扉を開ける。

 フェンス越しに広がる街はやはり美しかった。まるで巨大なジオラマか何かのようで、誰かが大切に残していったもののようだった。



 時刻は正午ちょうど。街の中心からゆっくりと巨大な宇宙船が浮かび上がる。静かに街を離れて行く。

 多くの命を載せた箱舟が、終わりの見えない途方もなく長い旅を始めようとしている。その旅は間違いなく過酷なものになるだろう。地球を捨ててまで生き延びるという選択は、どうしようもなく過酷で光さえ射さないほど暗い道を歩くことと同義だろう。



 僕はずっと、本当は未来を信じていたかった。両親が信じていたものを僕も信じていたかった。こんな世界だ。終わることが決定づけられた世界だ。それでも僕は信じていたかった。

 だとすれば、僕は宇宙船に乗るべきだったのかもしれない。未来という不確かで不透明なものを信じるために、追い求めるために。

 だけれど、未来を信じる、追い求める理由は何なのだと僕はそう考えてしまう。そして、その答えを考えることが白谷さんが僕に問うた質問の答えを考えることに結び付く。



「…………」



 五分ほどかけて大きく空に浮かび上がりゆっくりと進み始めた宇宙船を見届けた後、僕は宇宙船に背を向けて彼女に会いに行く。

 屋上を後にし、階段を降り、一度校舎を振り返った後、再び自転車にまたがってペダルを漕ぐ。

 空を見上げれば巨大な宇宙船が宇宙を目指して飛んでいた。僕はちょうど宇宙船が飛ぶ方向とは真逆の方向へ自転車を向けた。

 白谷源一の話によれば、彼女はとある研究所の一室で眠っているという話だ。その研究所は高校からそう遠くない所にある。

 宇宙船の姿が見えなくなった頃、僕はその研究所にたどり着いた。真っ白い外壁、五階建てほどの建物。正門に鍵はかかっておらず、難なく研究所の内部に入ることが出来た。

 彼女が眠っているのはこの研究所の最上階。

自分の足音が廊下に響く。



「…………」



 彼女は一体どのような顔をするのだろう。どのような反応を示すのだろう。やはりそれだけが怖い。「どうしてあなたがいるの?」と問われるかもしれない。だって、彼女は僕が宇宙船に乗ることを願っていたのだから。彼女はきっと、これらか一週間という日々を一人で過ごすつもりで冷凍睡眠に入ったのだろう。

 一歩一歩、階段を上る。

 こんな世界でそれでも生きる意味は何か。彼女は以前、生きる意味、その理由自体が存在しないとそう話していた。私たちは望んで生まれて来た訳ではないと、どこか悲しそうに呟いていた。

 その通りだと僕は思う。元より僕はこんな世界に生まれることを望んだ訳ではない。生きたいと願って生まれた訳ではない。

 だから、そもそも生きる意味もその理由もありはしない。仮にそんな物があるのだと語る人がいたのなら、それはきっと元から存在していたものではなく、その人が見出したものなのだろう。

 最上階にたどり着く。

扉の前にたどり着く。

そこで立ち止まり、目を閉じた。



「…………」



 未来を信じ歩き続けるのはきっと見出すためだ。僕達はずっと何かを探し求めている。生きる為に、探し求めている。

 その何かを探し出せたのなら、あとはそれを大切に自分の手の内に収めていればいい。無くさないよう、大切に。

 きっと、この世界は本質的に美しい。複雑そうに見えてその実とても単純だ。



 扉を開ける。



 扉の先に待っていたのは無機質なただ広いだけの真っ白な空間。中央に置かれた、様々な機器に繋がれている銀色のカプセルのようなもの以外、その部屋には何もない。

 一面が巨大なガラスの壁で、その壁の先には静まり返った街と終わりの見えない青空が広がっている。

 そのガラスの壁に寄り添うように、白い病衣のようなものを着て立っている一人の女の子がいた。

 長い黒髪。

強くとても脆そうな青色の目。

 困ったものだ。なんて言葉を投げかければいいのか分からない。ここに来る前、彼女と再会したらまず何を話そうかと考えて来たけれど、そのすべてが頭の中から消えてしまった。



 一歩一歩、彼女に近づく。



 彼女の目が僕のことを捉える。驚いた表情を浮かべたかと思えば、すぐさま泣き出してしまいそうな表情を見せる。

 彼女は泣かないよう、必死になって眉を顰めているけれど、どうしたって涙は流れ出てしまう。

 どうかそんな表情を浮かべないでほしい。僕だって我慢できなくなってしまうではないか。

 彼女は僕の方に歩み寄って来る。彼女の歩みは拙くて、今にでも倒れてしまいそうなほど弱々しい。

 僕は駆け寄って倒れそうになった彼女を受け止めた。そのまま床に座り込みながら抱き合った。

 涙が、止まらなかった。どうしたって止まらなくて、止まらない。

 僕の小さな泣き声と彼女の小さな泣き声だけがこの真っ白な部屋に響く。

 僕は君に会うために生まれて来ただなんてそんなことを言うつもりはない。だけれど、僕は君とこんな世界で出会うことが出来た。僕は君という存在を見出した。

 これまで生きて来たその先で、僕は君と出会った。

 生きる意味はここにあって、だから僕は生きる為に死を選んだ。

 それが、僕の答えだ。

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