3-2
二日ぶりの外。空は分厚い灰で覆われ、シトシトと雨が降っている。
街は以前と比べ随分と活気が失われている様に見えた。そう少なくない店がシャッターを下ろしている。ついこの間まではうんざりするほど街は人で溢れ返っていたが、今ではその影もない。街は閑散とし、ただただ雨が降っていた。
これまで街を闊歩していた大勢の人間はどこに消えてしまったのだろうか。
変化、というものは存外気分屋で、ゆったりと変わって行くこともあれば瞬く間に変わってしまうこともある。この街の様子の変わり具合は間違いなく後者だ。唐突に訪れた急激な変化に縋りつくことが出来ず振り落とされてしまった人間はどうすればいいのだろう。
電車が走る。道路を数台の車が走る。数人の人とすれ違う。皆、どこへ向かおうとしているのだろうか。
あと七日だ。七日で宇宙船に乗るのか乗らないのかを各々決断しなければならない。その決断は生きるか死ぬかの決断に直結している。
皆はどのように選択するのだろう。
峯は、どちらを選択するのだろうか。
「…………」
すっかり陰鬱な様相に成り果てた街を歩き、峯に指定された喫茶店を目指す。
峯からメールが届くことはこれまでに何度かあったが、こうして実際に呼び出されて話をしようと誘われたのは初めてのことだ。
彼と最後に会ったのは二日前。その時のことを思い出す。
その日、僕はてっきりこれでこの高校に通うことは最後になるかと思っていたのだが、実際の所はしばらくの間休校という形となるらしく、再開の連絡は今後時期を見て行うとそう説明された。
その時は世界が終わってしまうのにどうやって再開するのだと思ったものだが、今なら分かる。つまり次またあの高校に通う時が来るのだとしたらそれは仮想世界で、ということだろう。
その日の高校は午前中の内に終わり、僕は峯と一緒に帰った。その際は一言も言葉は交わさなかった。僕の場合、消えてしまった白谷さんのことでそれどころではなかったというのがあったが、今にして思えば峯が黙り切ったままだったというのは珍しかった。
思い返してみると僕は峯のことをあまり知らない。歴史好きで厚かましい、だが時折羨ましくなるような奴。
今更思うが、何だかんだ言って彼と話をするのもそう悪いものではなかったように思う。
峯に指定された喫茶店は駅の中ある。数日ぶりの駅は酷く物寂しく見えた。その喫茶店がまだやっているのか少し不安ではあったが、それは杞憂だったらしい。だが流石にお客さんの数は少ない。普段なら常に開いている席がないほど盛況していたが、今はそれと全く逆の状況で、むしろ埋まっている席の方が少なかった。
店内を見渡すと、すでに窓際の二人席に座っている峯がいた。峯も僕のことに気が付いたらしくあまり見たことのない中途半端な笑みを浮かべて手を上げた。
峯の向かい側の席に座る。すると彼は「ごめんな。いきなり呼び出しちまって」とまず謝って来た。
「別にいいよ」
特にやることもなく、ずっと部屋に籠っていただけだから。と心の中で僕は続ける。
とりあえず店員さんにコーヒーを一杯注文する。峯は既に注文を終えているようで、彼の目の前には半分くらいにまで減ったホットコーヒーがあった。
「どれくらいここにいたの?」
「ん? そうだな~、今日は午前中からずっとここにいた」
「そうなんだ」
峯が「秋村は?」と尋ねてくる。その問いかけに「部屋でずっと寝ていたよ」と僕が答えると、彼は息を溢すように笑い、「まあ、そんな感じになるよな」と言うのだった。
それからは僕の注文したコーヒーが来るまで特に会話をすることなく、揃って窓ガラス越しに駅前の様子を眺めていた。七、八分くらい経ったところで僕が注文したコーヒーが湯気を立てながら運ばれてきた。
そのコーヒーを一口飲む。この喫茶店には数か月前にもこうして峯と一緒に来たことがある。あれは確か中間考査直前くらいの時のことで、峯が勉強を教えてくれと泣きついてきたためこの喫茶店で勉強を教えてやることになったのだ。
「秋村は、これからどうするんだ?」
「さあ、どうだろう」
どうするも何も僕等は選ぶしかない。死ぬのか、生きるのか。
「仮想世界なんて、正直な所上手く想像できないよね」
峯は「俺もだよ」と言った。
「あの話をニュースで聞いた時、もしも仮想世界で死んだらどうなるんだろうって、ちょっと疑問に思ったんだ」
白谷相馬の話によれば、仮想世界でも時間という概念はあり、その時間に沿って仮想世界の体も成長するということらしい。仮想世界の体、というものに劣化だとか、そういったものがあるのかは分からないが、仮に仮想世界でも死ぬことがあるとしよう。そうしたら死んだ後どうなるのだろうか。
「現実の方で目が覚める、じゃないのか?」
「うん。僕もそう思ったよ。じゃあさ、僕達が今居る現実が仮想世界だったとしようよ。その場合、死んだら同じようにどこかで目を覚ますだけなのかな」
死んだ後のことなんて分からない。分からないのだからそういうこともあるのかもしれない。神様、なんて信じてはいないけれど、そういう絶対的な何かがこの世界を作り出し、僕等はそこで生きているのだとしよう。仮想世界、というのがいまいちどんなものか想像しにくいけれど、それは大きく見れば現実と何ら変わらないのではないのだろうか。大昔の人が言った神という存在が人間に変わっただけではないのだろうか。
峯は「ちょっと俺には難しい。なんか、それ終わりが見えない」と、顔を歪める。確かに峯の言う通り終わりが見えない。
「というか、秋村今日はめちゃくちゃおしゃべりじゃない?」
「そうかな……」
でも、峯の言う通りそうなのかもしれない。こんなことを峯に話したのは初めてであるような気がする。
「な、なに?」
どうしてか峯は嬉しそうな顔をしている。
「いいや別に。というか、今日話があるって呼び出したのは俺なんだよ。だからまずは俺の話を聞いてくれ」
峯は「お前の話は後で聞いてやるから」と付け加える。本当に峯は偉そうな奴だ。呼び出されたのは僕の方なのに、いつの間にか僕が峯に話を聞いてもらうような空気になっている。彼のそんな様子がなんだか可笑しくて、つい表情が緩みそうになるのを、コーヒーを飲むことでごまかした。
「で? 話って何なの?」
「もちろん宇宙船のことさ」
峯の口調は高校の教室で話をする時と同じだ。なんだか懐かしい気持ちになる。
「色々と考えた。でな、俺は宇宙船に乗らないことに決めた」
無駄に自信満々と溌剌とした声でそう宣言する。峯は変わらない。
「どうしてそうすることに決めたのか、参考までに聞いてもいいかな?」
「おう、いいぜ。というか、俺は今日その話をするために秋村を呼んだんだ」
喫茶店に流れる曲が変わる。変わると共に、峯が話し始める。
彼は「俺さ、いつか自分の目で世界中を見て回りたいってそう思っていたんだよ」と、そう言った。
「俺の親父はさ、今時珍しい考古学者でさ。俺が生まれた時から世界中を旅していて、一年に二、三回くらいの頻度で手紙が送られてきて。俺はそれを読むのがすげぇ楽しみだったんだ」
「世界は広くて、その上、何千、何万っていう歴史の上に成り立っている。親父の手紙と一緒に送られて来る遺跡の写真を見てさ、俺すげぇなって思って、いつか俺も見てぇってそう思った」
峯の歴史好きの裏にはそう言う理由があったかと、初めて知った。
「始めて聞いたよ」と僕が言うと、峯は「おう、始めて言ったからな」と少しだけ照れたように鼻を擦る。
「遥か昔の人はこんな風にして暮らしていたのかだとか、そういうのを知ると本当に長い年月を経て今があるんだって思えるんだ。いろんなことがあって今がある。すげぇなって思った」
「でな、きっと今この時だってそういう流れの一つなんだと思った。とはいえ、今はその流れがめちゃくちゃ変わる転機ではあるんだろうけどさ。で、悩んだ。宇宙船に乗ってこれから先のことを自分自身で体験するのもいいと思った。だって、今この時は間違いなく歴史においてめちゃくちゃでかい変化だろう? その場に立ち会えたってすげぇじゃん」
「でもさ、これまでのニュースを見て何か違う、というか、俺がしたいことはこうじゃないような気がした。ちょっと困ったよな。俺、どうしたいんだろうって」
「考えまとめようとして昨日は外を散歩して一日過ごした。それでな、一度だけ親父と一緒に歴史博物館に行ったことがあったんだけど、その時のことを思い出してさ。気が付いた」
峯はどこか遠くを見るように窓ガラスの外、灰色に染まった空を見上げる。
「さっきも話した通り、すげぇなって思った理由はいくつでも上げられる。でもさ、そういうのって多分後付みたいなもんで、俺の始まりはずっと親父から初めて送られた手紙を読んだ時からなんだ。多分この地球上で、っていうのが重要なのかもなってな。あと、親父が見て来たものを俺も見たいって。始めて手紙を読んだ時もそう思ったんだ」
そうして峯は「だから俺、宇宙船には乗らない。八月七日までそう時間はないけど、実際にこの目で見ようと思うんだ」と、そう言った。
やはり峯らしいなと僕は素直に思った。思わず笑ってしまう。笑うと峯が「なんだよ、おかしいか?」と尋ねて来たものだから「むしろいいなと思ったよ」と答える。
「実際に見てくるって、何か計画とか立てているの?」
「そう! 問題はそこなんだよ! でな、その相談をしたいんだ。秋村、俺はどうすればいいと思う?」
本当、憎めない奴だと思う。自分に素直というのは彼のことを言うのだろう。宇宙船に乗らないということはつまり死ぬことを選ぶことなのに。峯は死んでもいいのかと、そう聞きたくなる。だけれど、きっと彼の答えは「別に関係ねぇよ」みたいなもので、きっとそういう感じでバッサリと切り捨ててしまうだろう。こう思っては失礼かもしれないけれど、馬鹿だからこそ複雑なことを考えることなく、素直になることが出来るのかもしれない。
「峯、君は本当馬鹿だと思うよ」
「は? なんだよそれ」
峯の顔がおかしくて笑い声がこみあげてくる。彼も彼で、僕の笑い声につられて笑い出す。こんなにも世界は暗いというのに、随分と陽気なものだなと、さらに笑えてきた。
「峯はさ、どこか行きたいところがあるの?」
「やっぱり親父に初めてもらった手紙に入っていた写真の遺跡を実際に見てみたいと思う」
「場所は?」
「一応分かる」
「どこ?」
「日本。だけどさ、ここからだとめちゃくちゃ遠いんだぜ。五十年前の『世界の終末』で海の底に沈んじまった地域があるだろ? 遺跡があるのはその辺りなんだ。海を渡る必要だってある」
確かに、これからそこを目指すとなるといささか難しいかもしれない。おそらくこれから電車だとかバスだとか、そういった公共交通機関は働かなくなっていくはずだ。現に八月七日に世界が滅びると知らされた翌日から電車の本数は半分以上減ったし、飛行機に至っては既に飛んですらいない。
「他に見てみたい場所は?」
「あるにはあるけど、どこも海外になるな」
なら決まったようなものではないのだろうか。そう日数がある訳ではないのだし、そもそも複数の場所を見て回るのは絶対に無理だ。
「じゃあ峯はそこに行けばいいんじゃない? もとより日数も限られているし、複数の場所を見回るのは無理だと思う。なら国内にあるって言うその場所にどうやって行くかを考えた方がまだ現実的だよ」
峯は顎に手を当てる。何やら考えているようだ。僕はコーヒーを飲みながら彼の答えを待つ。程なくして峯は「決めたぞ」と口にした。
「俺、そこに行くことにする」
「うん」
「宇宙船が飛び立つ時、俺も旅に出ることにしよう。それまではどうやってそこまで行くか調べてみる」
峯は満足そうな表情をして僕の手を掴み「ありがとな」とそう告げてきた。別に僕は何もしていない。決めたのは峯だ。だからこそ峯のことが羨ましい。僕は彼ほど決めたことを信じることが出来ない。
「さて、じゃあ俺の話も終わったし、約束通り秋村の話を聞こうか」
峯は「何か話したいことがあるんだろ?」と憎めない表情を浮かべた。
「まあ、たぶん」
僕の問題は表面的に見れば宇宙船に乗るか乗らないかという二択問題だ。僕はどちらを選べばいいのか。選ぶ過程で絡みついてくる要素が僕を悩ませている。
悩んでいるのはきっと分からないから。彼女、白谷妃和のことが分からないからだ。
「峯、僕は分からないんだよ」
「何が?」
峯の問いかけに答えることが出来ない。言葉が詰まる。
僕は白谷妃和のことが分からない。彼女がどういう思いであの屋上にいたのか。最後にみた彼女の表情の裏に、どんな思いが隠れているのか。
「順番に話してみろよ」
順番に、峯に話す。
僕はある子に出会った。数年前に一度出会ったことのある子と再会した。それから二人で出会って話をするようになった。僕はその子と話をすることが楽しかったし、話していて心地が良かった。そんな風に思えたのは生まれて初めてだったのだ。会話の内容は重要ではなくて、その子と一緒に同じ時を共有していたということが重要だったのだと思う。
その子と一緒に居る時は未来に対する不安だとか、そういう普段考え込んでしまうことを忘れることが出来ていて、純粋にその時を生きることが出来ていた様に思う。
「その時を?」
峯は不思議そうな顔をする。確かに、常に今を生きているような峯には分からないだろうな。僕と峯との大きな違いはそこなのかもしれない。
思えば僕はずっと未来と過去に縛られていた。未来に怖じ気づいてその場に立ちつくし、過去に足を掴まれて動けない。動かず、漠然とした未来に臆病になり、ずっと過去ばかりを見続けて来た。見ていたのは今いる場所ではなく、真っ暗な後方と途方もなく続く前方。白谷さんはそんな僕のすぐ傍にいてくれて、だからこそ彼女と一緒にいる時だけは前でも後ろでもない場所に目を向けることが出来ていたのだ。
「峯は、確かに今を生きているって感じがするよ」
多分、僕が彼に憧れていたのはそこだ。僕も今という奴に生きてみたかった。過去も未来も気にすることなく、今だけに没入したかった。それはきっと、彼女の質問に対する一つの答えになるのかもしれない。
「よく分かんねぇな」
「峯はそれでいいんだよ」
僕は彼のそういった所に憧れていたのだから。
僕が両親に対し複雑な思いを抱いていた理由が分かった気がする。僕は確かに幸せだった。それは思う。だけど本当に求めていたのは一緒に隣に居てくれる人だったのだろう。両親は常に未来を見ていた。未来について語っていた。僕はそれに嫌悪感を抱いていた。なぜなら僕は、未来ではなく今隣にいて欲しいと思っていたから。
両親が自殺をした日、雨が降る公園で彼女は確かに僕の隣に居てくれた。あの電車の中で彼女は確かにその時僕の傍にいてくれた。この数日間、彼女は僕の隣で話をしてくれた。
「峯、多分僕にとって宇宙船に乗るか乗らないかは結果でしかないんだ。重要なのはそこではなくて、もっと別の、深い所にある」
「僕は最後まで彼女の傍に居たいと思っているのだと思う」僕はそう呟いていた。
「彼女、ねえ。最近付き合い悪いなって思ってたけど、秋村は女の子と一緒にいたわけだ」
峯がニタニタと気持ちの悪い表情で僕を見て来る。
「そうだけど、なに?」
「何でもねぇよ。でもそうか、ようは女ってわけだ」
峯は「つまり、お前は女の子のことが好きで、どうしていいのか分からないんだな」と勝手に理解したかのような口ぶりで大きく頷く。
「別にそういうわけじゃあ……」
「いやいや、そういうことだろ。全く、珍しく秋村が相談してくるからなんだと思えば恋愛の相談かよ、羨ましいじゃねぇか」
峯は「恋愛の話なんて高校生がする話みたいだよな」と、ニヤニヤとしながらそう続ける。「僕達は一応高校生だよ」なんてよく分からないことを僕は声に出さずに呟く。なんだか背筋がゾワゾワして酷く落ち着かない。
好きだとか、そういう一言で済ましてしまうことに抵抗がある。だって僕が今感じていて思っていることはそんな単純ではないから。もっと色々なものが入り混じって複雑になっている。複雑で、考えれば考えるほど深みにはまる。この三日間はそうして穴の奥底にまで潜り込んでしまっていた。
不意に、白谷さんの言っていた言葉が思い浮かぶ。「人は存外単純なものなのよ」
「どうした? 急に笑い出して?」
「いいや、何でもないよ」
これまで悩んでいたことが馬鹿々々しく思えてくる。彼女もこういう気持ちだったのだろうか。
複雑だ。とても複雑で悩ましい。だけれど、それを大きく捉えて単純にしてみればこうもあっさりとしてしまう。
多分、峯の言うことは間違っていない。的を射ている。そうかと、つまりはそういうことだったのだ。
「別に悩む要素なんてないんじゃないのか? 好きなら会いに行けばいい。会って話をすればいい。秋村はそうしたいんだろ? そうすればいいだけじゃん」
その通り。峯の言う通りだ。僕がそうしたいと思ったから。だとすればそうすればいい。僕がそうすることで白谷さんは何を思うのかは分からない。でもそれを考えるのは無意味だ。考えた所で正しい答えなど分かるはずがない。人それぞれが何を考えているかなど第三者には決して分からない。だからこそ話をする。話をして出来る限り理解しようとする。だから考えるのではなく話すしかない。やっぱり、会うしかない。
「そうだね。峯の言う通りだよ。僕は会いに行けばいい。たったそれだけだ。きっと彼女に会えば、宇宙船に乗るか乗らないか勝手に答えが出てくる」
だけど僕はどうやって彼女に会いに行けばいい。次の問題はそこだ。
「峯、僕はこれから到底信じられないような話をしようと思う」
僕がそう言うと「今更どんな話を聞いても驚かねぇよ」と自嘲気味に笑った。確かに世界が滅びるだとか、冷凍睡眠だとか、仮想世界なんて話が出ている世の中だ。むしろそちらの方が驚きに満ちている。
僕は峯に彼女が唐突に目の前から消えたことを話した。僕が今まで見ていた彼女は拡張された現実に投影されていたもので、冷凍睡眠や仮想世界、それらに関連する運用テストのようなものではなかったのかと、そういう予想も話した。
僕がその話をした途端、峯は難しそうな表情を浮かべ唸る。しばらくして「そういうのは、俺には分かんねぇな」と口にする。
「頼りになるのかならないのか、本当に峯は分からないよね」
「うるさいな……」
とにかく、僕がこの数日間話をしてきた白谷さんは現実の、生身のものではなかったというのは確かだ。何らかの方法で見せられていた、拡張された現実に彼女はいた。
しかし必ず彼女はどこかに居るはずだ。数年前に電車で見た彼女が同じような存在だったのかは分からない。しかし、公園で出会った時の彼女は現実に生きる彼女だったはずだ。なぜなら、その時にはまだ僕はこのウェアラブル端末を身に付けていなかったから。だから白谷さんはきっとどこかに居るはずだろう。
ただ一つ気になることがある。白谷さんが最後の別れ際に言っていた言葉。「私はもう死んでいるようなものなの」あれは一体どういう意味なのだろうか。どうして「宇宙船に乗らない」ではなくて「乗ることが出来ない」なのだろうか。
何か手がかりが欲しい。今の僕には何もない。手っ取り早いのは彼女の父親である所の白谷相馬に直接会って話を聞くことだろうが、それは現実的ではない。今世間は宇宙船に乗るか乗らないかで混乱している。白谷相馬が僕と個別に話をしてくれる可能性は低いだろうし、直接僕が白谷相馬の居る場所を突き止めて乗り込むのも無理だろう。そんなことをしても最悪捕まって終わり。そもそもこの混乱している中で白谷相馬が今どこで何をしているのか知る手段もない。
「何かないのかな」
自然とそんなことを呟いてしまう。
「秋村。俺には難しいことは分かんねぇけど、その女の子はお前のその端末を通して見ることが出来ていたっていうのは確実なのか?」
「多分ね」
どういう原理でそんなことが出来ていたのかは僕にも分からない。
「ふ~ん。それっていつからなんだ?」
白谷さんと再会した時、僕はまだ放課後宇宙船の部品を組み立てる作業をしていた。あの日僕は一人で作業場に居残って作業をし、誰もいなくなった作業場を後にした。その時僕は寄り道をして、そうして僕は彼女と再会した。その時、僕は端末をつけていた。確証はないけれど、おそらくあの時にはすでに僕の見ていた彼女は現実に生きていない彼女だろう。
あの日を皮切りに僕は白谷さんと再び会うようになった。逆にそれ以前に白谷さんと会ったことはあの電車で出会ったことを除いて一度もない。
「秋村が居残って作業する羽目になった日か。それじゃあ、あの時のメールの返信内容嘘だったってことだな」
「ごめん」
「まあいいよ。で、あの日はどうして居残る羽目になったんだよ」
「それ、今話していることと関係ある?」
「いいだろ別に。気になるじゃん」
こんな風に問い詰められたくなかったから嘘をついたのだと言いたくなる。結局話さなければいけないのかと、ため息が自然とこぼれてしまう。
「別に大したことはないよ。あの日は白谷源一が視察に来ていたよね。それでくだらないことがあったってだけ。僕の方こそ怒られた理由を教えて欲しい位だ」
白谷源一とすれ違う際、何となく彼に目を向けたらどうしてか彼も僕の方に目を向けていてなぜか立ち止まった。その様子を見た担当者が、僕が白谷源一に何かしたのではないのかと勝手に決めつけ、無意味に殴られて怒鳴られた。
峯は「あ~、それは災難だったなぁ」なんて随分と他人事のように感想を漏らす。
「あの担当者、気に入らなければ殴るような奴だったもんな。俺も殴られたことあるから分かる」
殴られた。その時のことを思い出す。何か引っかかった。殴られた後、あることがあったではないか。
担当者に殴られて、僕がかけていた眼鏡型のウェアラブル端末が床に落ちた。それを拾ったのは白谷源一だ。彼はその時、僕の端末に何かをしていたような気がする。
「どうした?」
可能性はある。タイミングも合う。僕の端末はあの時白谷源一に何か細工をされたのではないのか。
白谷源一と会って話をするのも一つの手だ。仮にその時、彼が僕の端末に何も細工を施していなかったとしても、彼が白谷の関係者であることに変わらない。彼女について少しくらいは何か知っているだろう。
でもどうやって会えばいいのだろうか。白谷相馬と同様、手段が浮かばない。
「白谷源一が何か関わっているのか?」
「可能性は、無くはないと思う」
峯は「そうか」と言ってコーヒーカップを持ち、残りのコーヒーを飲み干す。そして「話は変わるんだけどな」と切り出す。
「なに?」
「鈴木先生、白谷源一と古い友人らしい。俺はあの日、白谷源一が視察に来るらしいっていう情報を鈴木先生から教えてもらったって話しただろ。あれは鈴木先生が直接白谷源一から聞いたから知っていた情報で、他の教師はそんなこと何も知らなかったんだぜ。これも鈴木先生から聞いた話なんだけど、そもそも宇宙船に関連する情報は学校側に一切伝わることはないんだと」
「それ、本当?」
峯の仕入れてくる情報はすべて鈴木先生経由だ。その鈴木先生が白谷源一と繋がっているのだとしたら、峯がこれまで教えてくれた情報が胡散臭くも信用できたことに頷くことが出来る。
「ああ。だから鈴木先生に頼めば、もしかしたら白谷源一と話が出来るかもしれない」
意外な所で人の繋がりがあるものだと、正直言葉を失う。出来すぎているような気もするけれど、もしも峯の言うことが本当ならまずは鈴木先生に会って話をするべきだ。どのみち今の僕に出来る事はそうない。このまま残りの七日間何もしないで過ごすよりも、出来る限りのことをする方が良いに決まっている。
「峯、僕は初めて君と知り合えてよかったって思っているよ」
「おい、なんだよそれ」
お互いの顔を見て何故だか笑いがこみあげてくる。本当、こんな時だというのにどうしてこんな気持ちになっているのだろうか。今、僕は本当に峯と出会ってよかったと思っている。
僕と峯は傍から見ればどうしようもなく能天気で馬鹿な奴らに見えるだろう。だって、世間は死を目前に足掻いている最中であるのに、僕等はこんな風に喫茶店で高校生らしく色恋沙汰の話をして笑い合っているのだから。
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