2-11

「少しだけ、ある女の子の昔話をしましょうか」



 ブランコに座った白谷さんは顔を俯かせたまま語り始めた。



「その女の子は本当の意味で望まれてこの世に生まれて来た訳ではなかったわ。その女の子の父親はとても偉い人だった。世界が滅んだ後も、宇宙と言う新しい世界で権力を握り続けるために、単に跡取りが欲しかっただけなのでしょう。適当な相手を見つけ、一つの手段として結婚し、そうしてその女の子が生まれたの。父親からしてみれば、女の子よりも男の子の方が欲しかったのでしょうね。でも、実際に生まれて来たのは女の子。今の世の中では、子供は一人しか産めないから、父親はあまりその女の子がこの世に生れ落ちたことを歓迎しなかった」



「だけれど母親だけは唯一その女の子の誕生を喜んだ。こんなにも可愛らしい子が生まれて来てくれたのだと、母親は毎日のように話していたらしいわ。その女の子は小さな祝福の中でこの世に生まれたの」



「だけれどね、父親は新しい跡取りを作るために母親と離婚し、新しい妻を迎えたの。つまり、その女の子と母親は捨てられたわけね」



「だけれど、その女の子は悲しくなかったらしいわ。もとより父親のことがとても嫌いだったらしいし、むしろ嬉しかったとさえ思っていたのかもしれないわね」



「その女の子と母親は存在自体を消されるかのように街から追い出され、死んだ町に流れ着くの。そこで二人は暮らし始めた。後にも先にも、その女の子にとって母親と二人きりで毎日を過ごすことが出来た日々が一番幸せだった時期だった。幸いなことに、お金だけは離婚した父親が負担してくれていたから、生きて行くことが難しくなったわけではなかったのよ」



「その女の子は学校にも行かず、ずっと母親と一緒に居たわ。母親はとても頭が良かったから、女の子は母親から勉強を教えてもらっていた。そうして毎日を過ごしていたの」



「母親は口々に「友達はいらないの?」とその女の子に尋ねていた。でも、女の子は決まって「いらないわ」と答えていた。その女の子にしてみれば、母親がいればそれでよかったのよ。友達なんて一人もいなかった」



「でも、その女の子の母親は大病を患い死んだ。女の子は一人きりになった。一人きりになった女の子はかつて母親とその子を捨てた父親に引き取られた。その女の子からしてみれば、何をいまさらという感じで、気分はこの上ないほど最悪だったことでしょうね」



「父親とは親子らしい会話なんてしない。無理やり学校に通わされるようにもなった。だけれど素直に学校に行くわけがないじゃない。母親以外の人と話をしたことなんてほとんど無かった女の子だもの、友達なんていらないと言った女の子だもの、そんな子が学校に馴染むことが出来るわけがないわ」



「その女の子は、学校にも行かずに部屋に閉じこもった。部屋に閉じこもっているだけでも、嫌と言うほど聞きたくもない事実が聞こえて来た。世界は何月何日に滅びる。宇宙船はいつ頃完成する予定だ。これくらいの人数は救うことが出来るかもしれない」



「死にたいと思うだけの条件はこの上ないほど揃っていた。母親が死んでしまった時点で十分すぎるほどだった。むしろ、よくもそんな状態で二年も生きていられたものだと思ったそうね」



「ある時、死ぬには丁度いい機会が訪れたのよ。今から三年前、世の中は空前の自殺ブーム。その女の子はそれが当然であるかのように部屋を抜け出し、死に場所を探しに向かったわ」



「死に場所は他でもない、かつて一番幸せな時を過ごすことの出来た場所。女の子はそこを目指した。そうね、五日間位歩き回ったらしいわ。数日ぶりに部屋から出て、数年ぶりに外に出て、二年ぶりに街から出た」



「五日間何も食べずに歩き回った。ただ母親と幸せに暮らしていた小さくて見窄らしい家に帰りたかったのでしょうね。せめて死ぬ場所は、最後を迎える場所は幸せな思い出が染みついた場所で、そう考えたのでしょう」



「その女の子はかつて幸せな日々を過ごした場所に帰ることが出来た。だけれど、もうそこに家は無かった。二年という時間は、家一つを壊してしまうのに充分過ぎたのよ」



「死に場所すら奪われた女の子は到頭どうしていいのか分からなかった。かつて母親と共に過ごした家が最後の希望のようなものであったのよ。それさえ見失ってしまった。これからどうしようかと、そう思ったことでしょうね。帰ろうにも、帰る場所がない。死にたくても、死ぬことの出来る場所がない。何も無いことに気が付いた途端、空腹感に苛まれ、自身がとてつもなく惨めに思えて仕方がなくなった。おまけに雨も降り始めた。その女の子は雨に打たれながら涙を流して死んだ町を彷徨った」



 そこまで語ったところで、白谷さんは僕のことを見つめ「その後、その女の子はどうなったと思う?」と尋ねてくる。



 僕は、その後のことを知っているかもしれない。今日からちょうど三年前。薄々感じてはいたのだ。電車の中で出会った時、数日前、池の畔で出会った時。彼女の声を聞いた時、どうしてか懐かしい気持ちになった。



「ある男の子の昔話をしてもいいかな」



 僕がそう言うと、白谷さんは黙ったまま頷いてくれた。



「この町で生まれた男の子がいたんだ。その男の子の両親はとても仲が良くて、その子のことを大事にしてくれていた」



「その両親はこの町で生まれ、この町で出会い、この町で結ばれたんだ。そうしてその男の子が生まれた」



「男の子の両親はあきれるほど未来を夢見ている人達だった。「未来はとても明るい」「将来は輝かしい」よくそう言っていたそうだよ。母親は「あなたはどんな日々をこれから過ごすことになるのか、お母さんはとても楽しみだわ」という言葉を何度もその男の子に聞かせていたらしい」



「だけれどね、男の子はその反動というのかな、人並みに未来を描くことが難しいと感じていたんだ。世界はいずれ無くなってしまう。いつかは死んでしまう。であるのに、どうしてそんなにも未来は輝かしいのだと言い切ることが出来るのか不思議で仕方がなかったのだろうね。その上とても泣き虫だったんだ。些細なことで酷く落ち込み、悲しみ、狭い場所で縮こまっているような子だった。臆病だったとも言えるだろうね」



「そんな男の子の手を母親は優しく引いてくれていたし、父親は時に厳しく、でも温かく接してくれていた」



「男の子はきっと幸せだったんだと思う。怖いことは多いし、未来なんて不安定で不確かなものなど信じることが出来ないし、どうしたって世の中に馴染むことが出来なかったけれど、でも幸せだったんだ」



「小学校に通うようになった。でも、その男の子は臆病者だから、友達を上手く作ることが出来なかった。馴染めなかった。ある年の授業で将来の夢について考えようという授業があったらしいんだけれど、その時もやはりその男の子は何も言うことが出来なかったようだね」



「生きている意味、とでも言うのだろうか。それがきっと分からなかったんだと思う。両親を見ているとなおそらそれが際立った。どうして両親はあれほど幸せそうに日々を過ごすことが出来ているのか。どうしてあんなにも笑っていられるのか。何もかもが不思議で仕方がなかった」



「不思議で仕方がなかったけれど、だとしてもどうしようもないよ。きっと、その男の子が抱えていた疑問は誰しもが考えるようなことだったんだと思う。こんな世の中さ、皆表には出さないだけで心の底ではこういったことを考えているのだろうね。でも、両親からはどうしたってそういう負の面を感じることが出来なかった」



「でもね、その両親も人間だったんだ。男の子は中学生になってそのことに気が付いた。目が覚めたと言ってもいいだろうね」



「三年前の今日、男の子の両親は自殺した。何の前触れもなく、日々幸せそうに生きていた両親は、これまで男の子に教えて来たことすべてを否定するかのように自ら命を捨てたのさ」



「男の子は酷く混乱した。それと同時に気が付いた。きっと、自分は両親に生かされていたのだなってね」



「おそらく、その男の子は両親の姿を通して生きる意味を知りたかったんだと思う。こんな世界でそれでも生きる理由を知りたかったんだ」



「あるいは、本当に両親から愛されていたことをその時自覚したんだろう。自分は幸せものであった。だから生きることが出来ていた。両親が自殺して人並みに悲しかったんだろうね」



「どうして、という思いが頭の中を埋め尽くした。これからも生きていかなければいけない、という漠然とした気味の悪い義務感のようなものが襲って来た」



「それがとてつもなく怖くて、その男の子は公園の小さなトンネルに籠った。でも、昔のように手を差し伸べてくれる人なんていない。そのことに気が付いて意味も分からず泣いて、いつの間にか雨も降り始めて、どこにも行けなくなった」



 僕は白谷さんに目を向ける。



「白谷さんの話していた女の子がどうなったのか。多分、それは僕の話した男の子の話と繋がると思うんだけど、合っているかな?」



 白谷さんは僕の目を見て「きっとその男の子は、自殺したいと思っていた女の子と今の私たちのように話をしたのでしょう」と、そう言った。



「そうだね。いきなりだったから驚いた。急に物音がしたかと思ったら、背中にとても冷たい感触がしたんだ。あの時の子は、白谷さんだったんだね」



 不思議な縁もあるものだと、僕はそう思った。



「秋村君は、あの時どのような話をしたか覚えている?」

「どうだろう。正直なところ、あまりよく覚えていないかな。ただ、初めに声をかけたのは僕だったような気がするよ」



 僕が「こんな世界で生きている意味があると思う?」と尋ねた。だけれど、背後に座り込んだ子は何も答えてはくれなかった。



「僕が一方的に、それこそ独り言のように話をしていたような気がする。それを、その子は黙って聞いてくれていたような気がする。それは合っているかな?」

「合っているわ」



 白谷さんはブランコを少しだけ揺らし、前に出る勢いのまま飛び降りた。



「秋村君。私はね、さっきも話した通り死に場所を求めてこの公園に辿り着いたの。でもね、私はあなたの所為で結局死ぬことが出来なかったわ。感謝している、というのとは違うわね。私はあの時の気持ちを上手く言葉にすることが出来ない。今もそう。今私が感じているこの気持ちが何なのか、よく分からないの」



 白谷さんは「極論、私たちは生きたいと思って生まれて来た訳ではないのよ」と、どこか悲しそうにつぶやく。



「だから、もしかしたら私たちは無理をして生きている必要もないのかもしれない。だって、私はこの世界に生まれたいと思って生まれたわけではないから。そう考えると、そもそも生きる意味を考えることが酷く馬鹿らしく思えない? もとよりそんな理由なんて存在しないのよ。きっと」



 白谷さんの言うことは良く分かる。僕だってこの世界に生まれたいと願ったわけではない。例えば、もしも死後の世界だとか、魂だけの世界だとか、そういったものが存在していたとしよう。僕達はそういった世界で生まれる場所を選ぶことが出来たとしよう。だとしたら、どうして滅ぶことが決定づけられたこの時代に生まれることを望んだのか全く理解できない。そうではなくて、仮に生まれてくる時代を選ぶことが出来なかったとして、だとすれば、望んで生まれたどころか、僕は嫌々生まれて来たとまで言い切れてしまう。



「白谷さんは、宇宙船を造ってまで生きようとする人間をどう思う?」

「そうね。私には理解できないわ。どうしてそこまで生きようとするのか、本当に私には分からなかった」



 白谷さんは僕の目の前まで近寄って来る。近寄って、屈む。



「私は、そう考えていたわ。だけれど、あなたの所為で少しだけ違う見方が出来るようにもなったの」

「僕の?」

「三年前の今日、この場所で、あなたはこう言ったのよ」



 僕はきっと、幸せだったのだ、と。



「私は、あなたのその言葉で気が付いたわ。いいえ、気が付いたというよりは、思い出したと言った方が正しいのかもしれない。私はね、あなたのその一言で、母親と過ごした日々を思い出したの」



 白谷さんは「私も、きっと幸せだったのよ」とそう言った。



「人間というか、私はつくづく間抜けなものだと思うわ。きっと、幸福というのは幸福の中で気が付くことが限りなく難しいものなのでしょうね。だけれど、その過ぎ去った幸福は気が付いた途端に色付き始め、人を形容しがたい気持ちにさせる。自殺するなんて馬鹿々々しい。どうしようもなく涙が止まらなかった」



 僕も、その時のことを思い出す。そうだ。確かに白谷さんの言う通り、僕はそのようなことを口にした。僕もあの時に自身が幸福であったことに気が付いた。

 そうして一緒に泣いたのだ。大声で泣いた。狭いトンネルの中で、白谷さんと一緒に大声で泣いた。

 泣いて、泣き疲れて、僕はいつの間にか寝ていた。目を覚ますと雨は止んでいて、一緒にいたはずの白谷さんもいなくなっていた。



「秋村君、どうして私が死ねなかったか分かる?」



 どうだろう。分からない。



「単純な話よ。あなたと会って、あなたの話を聞いて、泣いて、寝て。目を覚ました時にあなたの寝顔を見て、ふと死にたくないなと思ってしまったからよ。数日前、私があなたにお願いしたことを覚えている?」



 それは覚えている。白谷さんは、「私と話をしてほしい」と、そう願った。



「そう。私は、あなたともう一度話がしたいと思った。たったそれだけよ。私、というか人というのは存外単純なものなのかもしれないわね。本当、可笑しいほど単純なのよ。数時間前は本気で死にたいと思っていたのに、泣いて寝て起きてみたら、もう少し生きていたいなんて思ってしまうのだもの。本当に間抜けね」



 白谷さんは立ちあがる。立ちあがって、公園の外の方へと体を向ける。そして振り返る。



「秋村君。こんな私の願いを叶えてくれてありがとう」



 そう言って、白谷さんは頭を下げた。



「三日後、またいつもの屋上で会いましょう。待っているわ」



 白谷さんは前を向く。その際、「きっと、次で最後だと思うから」と彼女が呟くのが聞こえた。

 その一言を聞き、僕は立ちあがった。それは一体どういうことかと、そう聞きたかったからだ。

 白谷さんは公園を出て行く。それを走って追いかける。

 公園を出て、彼女の名前を呼ぶ。



 ひび割れ、夕日に照らされたアスファルトの道路。



 だが、不思議なことに、そこには誰もいなかった。誰一人として歩いている人のいない道が永遠と続いているだけだった。



 白谷さんの姿はどこにもなかった。

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