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 休日の土曜日に高校へ来たのは初めてだ。いつもならば制服に身を包んだ生徒がそこら中にいるのだが、今日はほとんどいない。自転車置き場に置かれている自転車は三、四台。屋上に上がる前、一階一階、廊下の端から端まで歩き教室を眺めてみると、時々制服姿の生徒を見つけることが出来た。

 教室にいる生徒はいずれも三年生だった。どうやら受験勉強をしているらしく、カリカリという音が廊下に物寂しく響いている。



 こうしてゆっくりと校舎の隅々まで歩いて見て回るのは初めてかもしれない。ほとんど人のいない校舎。いつもとは違う光景。僕しかいない、少しばかり薄暗くなった廊下。人が誰もいない図書室、音楽室、体育館。人がいないだけなのに、いつも見ているものと同じものだとは思えないほど不思議な魅力があった。

 もしもこの地球から同じように人がいなくなったら、すべてが魅力的に見えるようになるのだろうか。誰もいない街、誰もいない店、ただ建っているビル、電車は止まり、信号機はその役割を捨てる。それらすべては一体僕の目にどう映るのだろう。



 一通り校舎を見回ったところで、ゆっくりと足を進めて階段を上る。ふと、ここまで来て今更屋上へと続く扉が果たして開いているのか不安になった。

 そんな不安を抱えつつも屋上へと続く扉の前にたどり着く。僕はドアノブに手を沿え、手に力を加えてドアノブを回す。すると、ドアノブはあっけなく回り扉が開いた。どうやら休日でも屋上の扉は開いているらしい。



 扉の外。屋上。この校舎はそれなりに背が高い。その所為か風が強く、ゴウゴウという音が屋上で鳴いている。

 屋上は僕の身長の約二倍あるフェンスで周囲を覆われ、非常用電源として活用される太陽光パネルと巨大なパラボラアンテナが設置されている以外何もない。

 扉を潜ったその正面、大きなフェンスに手をかけ、昨夜と同じように長い黒髪とセーラー服、紺色のスカートを風に靡かせている女の子の姿があった。

 僕は扉を閉める。その音で彼女は僕の方を振り向いた。

 僕は人一人分あけて彼女の横に並ぶ。



「来てくれてありがとう」

「いや、僕も君に渡さないといけないものがあったからちょうど良かったよ」



 僕がそう言うと彼女は短く「そう」と返事をする。



「その渡さなければいけないものというのは、もしかしたらガラス玉のついたストラップの事でいいのかしら」

「そう、だけど」



 渡さなければいけないものがあると言っただけで何なのか当てられたことに驚く。やはりこのストラップは彼女のものらしい。それと、すぐに言い当ててきた辺り、もしかしたらこれは彼女にとって大切な物なのもので、ずっと探していたのかもしれない。

 そう思い、僕は早速渡そうと胸ポケットからストラップを取り出そうとする。だが、どういう訳か彼女は「受け取れないわ」と言った。



「どうして?」

「昨夜のことを覚えている? 私は、あなたにお願いがあるの」



 彼女はフェンスを背にしてその場に座る。僕はひとまず彼女の話を聞こうと思い、出しかけたストラップをもう一度胸ポケットに仕舞って彼女に倣いその場に腰を下ろす。



「あなたは、この世界が終わるという事実を知っているわよね」

「知っているよ。というか、その事実は皆知っているよ」

「そうね。それが常識だものね。私は回りくどく話すことが出来ないから、直接言わせてもらうわ。世界は今からちょうど一か月後に滅ぶの」



 彼女は淡々とした声で世界の終わりを青空の元で宣言する。

 宣言し、彼女は僕に言葉を発する間も与えることなく話を続けた。



 今からちょうど一か月後、世界は滅びる。五十年前に起こった『世界の終末』などとは比べ物にならないほどの規模で、世界中すべての陸は割れ落ち、人間はもれなく死に絶える。

 八月七日。それが人間にとって最後の日。今日という日から、八月七日にかけて小さな地震が頻繁に起こるようになるらしい。その地震は八月七日に近づくにつれて巨大なものになり、そうして最後には地が割れるのだと彼女は語る。

 まるで世界の末路が書かれた本でも読んでいるかのような口調だ。一体どんな話を聞かされるのかと思っていたが、まさかこんな話を聞くことになるとは思いもしなかった。

 その動揺、あるいは困惑が表情に出ていたらしく、彼女は「あなたは、私が可笑しな子だと思う?」と尋ねてくる。



「いや、そうじゃなくて、ちょっと唐突すぎる話だったから」



 僕は空を見上げ、息を吐く。彼女の視線を感じる。

 高校の校舎の屋上。居るのは僕と彼女だけ。フェンスに背を預け、世界が滅ぶと彼女に告げられる。世界が終わるのは世界の常識。だからこその宇宙船だ。しかし、それがあと一ヶ月以内に来ると言われれば困惑もする。果たしてそれは本当なのだろうか。本当だとしたら、どうして彼女がそんなことを知っているのだろう。



「どうして私がそんなことを知っているのか。そう疑問に思っている顔をしているわ」

「よく分かったね」

「簡単よ。もしも私があなたの立場だったらそう思うし、困惑もするわ」



 彼女は立ち上がり、数歩歩いて僕の方に振り向く。



「遅くなってしまったけれど自己紹介をしましょう。私の名前は白谷妃和。白谷という苗字を聞いてあなたが思い浮かべたことは合っていると思うわ」



 白谷。白谷と聞いて真っ先に思い浮かんだのはあの白谷だ。この国の宇宙船開発を実際に進めている企業のトップにいる人間の苗字。彼女は白谷の関係者なのだろうか。



「世間では、いつ世界が終わるか分からないことになっているわよね」

「そうだね」

「あなたは本当にそう思う?」



 確かに、僕はいつ世界が終わるのか分かっていないという事実に疑問を抱いている。

 仮に、本当に世界が終わる日時が分からなかったとしよう。一方でいつか世界が壊れることは知っていて、しかしそれは『世界の終末』が起こる依然と何ら変わらないのではないのだろうか。

『世界の終末』が宇宙開発の分野を発展させるきっかけには充分に成り得ただろう。しかし、それにしたって世界中であれほど巨大な宇宙船を何隻も造り上げるまでには至らないはずだ。あんな巨大なものを一隻造るだけでも、それこそ桁違いの金も労力もかかるだろう。いつ世界が終わるか分からないけれど、いつか必ずその日が来る。そんな曖昧な状態で、世界中がそんな宇宙船を何隻も造り始めるとは考え難い。

 いつ世界が終わるか分かっているから、だからこそ世界は宇宙船造りに力を入れた。そう考える方が、筋が通るような気がする。あの宇宙船からは確実に人間を地球の外へ運び出すという意志のようなものが見て取れる。

 そもそも、具体的でなくとも大体の日時が分からないことには宇宙船を造り上げる計画も立てられないのではないのだろうか。宇宙船が完成する前に世界が終わってしまってはどうしようもない。

 これらから、僕はいつ世界が終わるか分かっていないという点についてやはり疑問を抱いてしまう。だから僕は彼女の質問に「そうは思わない」と答えた。



「でしょうね。実際の所、『世界の終末』が起こった数年後には今年の八月七日に世界はどうしようもなく壊れてしまうことを人間は知っていたの。でも、それを正直に公に出来るわけもないでしょう。だから隠したの。その事実を知っているのは一部の関係者だけよ」



 おそらく彼女の言っていることは正しい。きっと僕の知らない、知らなくてもいい真実など世界には溢れている。



「それで、君のお願い事っていうのは何なのかな?」



 一か月後に世界が終わる、という話は一応理解した。その話をした上で彼女が僕に願うこととは何なのだろうか。僕には何か優れた能力がある訳ではない。そんな僕に何をしろと言うのだろうか。



「簡単よ。ある日まで、私とこうして話をしてほしいの」

「話?」



 世界が終わるという話の後にしては随分と平和なお願い事だ。



「例えばそう。あなたはさっき、世界があと一ヶ月で終わる話を聞いて困惑したわよね。世界が終わるなんて話は生まれた時から聞かされているはずなのにそういう反応をした。それはどうしてなのかしらね。そうしてあなたはこのことについて私と話をする。こんな風に、どうでもいいようなくだらない話をしてくれればいいわ」

「どうして僕と?」



 僕がそう尋ねると、彼女はどこか遠い目をして宇宙船のある方向に顔を向けた。



「あなたは二年前のことを覚えている? 二年前の、電車の中。私はそこであなたと出会ったわ」

「当然、覚えているよ」



 たった五分の出来事。だけれど、僕はあの時のことを鮮明に覚えている。彼女も同じように覚えてくれていることが純粋に嬉しかった。



「私、いつかあなたとゆっくり時間をかけて話がしたいと思ったの。こればかりはそう思ったからとしか言いようがないわ。だからそうね、理由があるとしたら、私がそうしたいと思ったから。これは本当よ」



 ちょうど僕も同じことをあの時思った。何となく、彼女は僕と似ているような気がしたから。同じような悩みを抱え、物事を考えているような気がした。

 彼女のことは分からない。白谷の関係者だから何か裏があるのかもしれない。昨夜、施設付近で彼女と出会ったのも何か仕組まれていたのかもしれない。でも、そんなことは正直なところどうでもいい。



 彼女の言うことが本当ならば、世界の寿命はどうせ後一ヶ月。一ケ月後にはおそらく僕は死ぬ。大勢の人間が死ぬ。限られた人間はあの宇宙船に乗って生き残ることが出来るかもしれないが、僕はその限られた人間の内に入らないだろう。

 分かっていた。そして到頭僕は死ぬのだ。だから、彼女が白谷の関係者で僕が何かに巻き込まれようとしているのだとしても、そんなことはどうでもいい。

 二年前、あの電車で彼女と出会ったのは本当に偶然だろう。偶然の出会い。初めての出会い。その時に僕達は互いに話がしてみたいと思った。理由なんてそれだけでいい。他に付随する思惑といったものは関係ない。それでいいと僕は思った。



「さっきの質問だけど、本当、どうして僕は困惑したんだろうね」



 世界が終わることなど、僕が生まれた時にはすでに定められていた。そして僕もその事実を知っていた。だけれど、実際に終わる日時を聞いて僕は困惑した。



「結局、僕は知識としてそれを知っていたに過ぎなかったのかもしれない」



 僕がそう言うと、彼女はもう一度僕の隣に座り込み、「つまり?」と尋ねてくる。



「自覚しているか、それともしていないか、多分その違いなんだと思う。僕はずっと不思議に思っていたんだ。世界は終わる。そう遠くないうちに死ぬかもしれない。それなのに、どうして皆日常を送ることが出来ているのか」

「そうね。きっと、私たちは無意識のうちに優先順位をつけてしまっているのよ。大概の場合、死ぬことを最優先で考える人なんていないでしょう。もっとやらなければいけないことがあって、それが目前にある。やらなければいけないこと、死ぬこと、世界が終わること、それらが一冊の本だとしましょう。その本を私たちは読まなければいけない。でも、すべてを一度に読むことは出来ない。すぐにでも読まなければならないものから先に読む。そうすれば、後から読めばいいものは自然と下の方に埋もれていくのが道理ね。それが優先順位」



 彼女の言うことは良く分かる。全てを一度に読むことが出来るほど僕は要領が良くないし、きっと読むのも遅いのだろう。



「死ぬこと、世界が滅びること、それらが書かれた本は皆持っているの。だけれど、その本が下から何番目にあるのかは人それぞれ。もしかしたら一番下にその本は埋もれているのかもしれないわね。そんな中で、一番下、あるいは下に近い場所にある本を唐突に読まなければならなくなったとするわ。すると、その上に積み上げた本はどうなると思う?」

「きっと崩れ落ちるだろうね」



 無理やり下にあった本を引っ張り出して読み出すのだ。その上にあった本は当然崩れ落ちる。



「積み上げて来た本が崩れ落ちれば、大概の人間は慌てるし、困惑もするわ。もちろん私もそれは例外じゃない」



 その本が下にあればあるほど困惑する。これまで積み上げ、現在読んでいる本が地に落ちる。



「あなたは今何の本を読んでいるのかしら?」

「僕? そうだね」



 僕が今読んでいる本。考えてみるに、おそらくそれは宇宙船のことが書かれた本だ。



「宇宙船の本かな。もう二年間も読んでいるからそろそろ飽きて来てしまったけれど」

「そう。ならちょうど良かった」

「どういう意味?」

「言ったでしょう。世界はあと一ヶ月で滅びるの。世界中で造られている宇宙船は完成し始めている。それはあなた達が造っている宇宙船も同じ」



 彼女は「そうね、この街の宇宙船ならば、きっと来週の水曜日辺りには完成するのではないかしら」と続ける。

 もしそれが本当なら、僕はようやく宇宙船の本を読まなくて済むようになる。やっと次に進むことが出来るようになる。

 次に読みたい本。その一ページ目は二年前からすでに始まっている。隣に座る彼女の横顔に目をやる。彼女の瞳はどこまでも遠くを見ているようだった。



「それで、いつどこで会って話をするの?」

「そうね。さっきも言った通り、この街の宇宙船は近いうちに完成し、あなた達は放課後の作業から解放される。だから、次に会うのはその時にしましょう。またメールをするわ」



 彼女は立ち上がる。



「そう言えば、私はまだあなたの名前を知らない」

「言われればそうだね」



 僕は立ち上がる。



「秋村有紀」

「そう。じゃあ秋村君、死ぬまで私の話し相手をしてね」



 青空の下、風が吹く。彼女、白谷妃和は黒髪を靡かせながら少しだけ口元を上げてそう言ったのだった。

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