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 担当者に呼び出され三十分ほど叱責を受けた後、作業場に戻って作業を始めた。嫌なことに、怒られていた所為で遅れた作業分は今日中に居残って取り戻せと指示された。だから、作業場に他の高校生が一人もいなくなっても、僕は一人でAIの無機質な声を聞きながら作業を進める羽目になった。

 三十分間、僕は何も考えず黙々と作業を進めた。あれこれと考え始めると余計に疲れる。言われたことを言われた通りに作業していた方が余程良かった。

 頭を空っぽにして過ごす三十分は思いの外あっという間だった。ただ、体は確かに疲れているらしく、自然と長いため息が零れる。

 いつも以上に作業場は静かだ。人が一人もいないのだからそれも当たり前だろう。



 作業が終わった後、いつも一緒に帰っている峯にはあらかじめ今日は一緒に帰ることが出来ないことをメールで伝えてある。仮に明日が平日であったのなら、その理由を教室で峯にわざわざ説明する羽目になっただろが、しかし明日は休日だ。峯の場合、週明けになれば今日のことなど忘れている。彼から面倒な質問攻めを受けることがないだけ運が良かった。

 ウェアラブル端末を起動させ、この作業場を含んでいる巨大な施設内の地図を表示する。ここはとにかく広い。地図無しでは出口にはたどり着くことが出来ない。

 いっその事、地図を頼りにしてこの施設中を見て回り、腹いせに何かしてやろうかとも思うけれど、しかし実際にそんなことをすれば、今度は担当者に怒られるどころでは済まされないだろう。加え、身に付けているウェアラブル端末はこの作業場に入った時点でここのネットワークに自動的に繋がるようになっているのだし、何かすればすぐに見つかる。居残り作業をサボることが出来ないのも同じ理由だ。

 そもそもこんな僕に何か出来るわけもない。そんなことをしても無意味だ。無意味なことをするほど元気はないし、馬鹿にもなりたくはない。



 もう一度、今度は短いため息が漏れる。鞄を持つ。何となく、鞄に付いているストラップが目に留まる。あれからもう二年が経つのかと、そんなことを思った。

 青空のような淡い青色に染まったガラス玉が付いているストラップ。

 もともとこのストラップは僕のものではない。約二年前、電車の中で拾ったのだ。そして僕はこの持ち主を知っている。長い黒髪の女の子。強くて脆そうな目、ちょうどこのガラス玉のような瞳を持っている子だ。



 夕暮れ時の電車の中。僕と彼女しか車内にはいない。グルグルと同じ場所を回り続ける電車は酷く虚しく、街を染め上げる茜色は憂愁の色に見えた。そんな憂愁の色に染まる街は彼女の背後の車窓の先に広がっている。街の中心に鎮座する宇宙船と彼女の瞳が被り、どこまでもそれは追いかけてくる。

 僕は彼女に尋ねられたことを未だに覚えている。その時の景色、彼女の表情、声、車内の音、その全てを覚えている。

 彼女は今、どこで何をしているのだろうか。彼女は彼女自身が尋ねた質問の答えを探し出すことが出来たのだろうか。

 結局あの時、僕は彼女の質問にしっかりと答えることが出来なかった。

 彼女は次の駅で降り、その彼女が座っていた座席に残っていたのがこのストラップ。ストラップが落ちていることに気が付いた時、すでに電車はドアを閉め走り出してしまっていたため、彼女を追いかけて渡してあげることは叶わなかった。



 僕は彼女の名前すら知らない。どこに住んでいて、何をしているのか知らない。だけれど、もう一度会ってみたいと思っているのは確かだ。もう一度会って、質問の答えについて話をし、そうしてこのストラップを返す。僕にやりたいことがあるとすれば、おそらくそれだ。



 施設を出た途端、夜独特の頭の中を冷やすような匂いが風に乗って僕の元に届く。僕はこの匂いが嫌いではなかった。

 周囲には誰もいない。街の喧騒は遠く、高く建ち並ぶビル群は輪郭をぼやかせ輝く。その姿はさながら暗闇に立つ光の柱のようだった。

 施設から駅前まで続いている街灯に照らされた道から外れる。少し寄り道をしようと思う。どうせこの時間だ。今電車に乗れば帰宅ラッシュに巻き込まれる。大勢の人が乗り込んだ電車内に萬栄するあの独特の匂いは嫌いだ。

 可能な限り自然を無くし、これ見よがしに人の営みを主張する街から少し離れた場所。宇宙船のある施設からほど近い所。そこは春の花見の名所として知られていて、この街の中では唯一人工的ではあるが自然のある場所だ。



 春も過ぎ梅雨の開けたこの時期、加えて夜。当たり前だが人の気配はしない。

 桜の木が無造作に並んでいる。僕はその隙間を縫う様に目的の場所に向かう。今向かっている場所は一年くらい前に偶然見つけた場所だ。確か峯の奴が何かやらかして、僕が一人で帰ることになった時、その時もこんな風にこの付近を当てもなく歩き回っていた。

 小さな湖。湖と言うよりは池と言っていいのかもしれない。周囲を桜の木に囲まれ、水面には夜空の月が漂っている。

 春の季節、きっとここにはとても綺麗な光景が広がるのだろうが僕は一度も見たことがない。春の桜が舞う一番輝かしい時には、きっと大勢の人間がここに集まっているだろう。だから僕は一度もその時期にここを訪れたことはない。



 多くの人が知っていることや場所ではなく、自分だけが知っていることや場所を一つだけ持っていたい。多分僕はそんな気弱なことを心のどこかで思っている。

 この場所は多くの人が知っているが、しかしこの場所の今の光景を知っている人はそう多くない。今だけは、この場所を独り占めすることが出来る。

 聞こえて来るのは夜風の微かな音と桜の木の枝についた葉の擦れる音くらいだった。

一際強い風が吹き、桜の葉が宙を舞う。その様子を目で追う。葉はゆらゆらと落ち、水面に浮かぶ。



 左側。ふと視線を上げる。そこに人がいた。

 黒く長い髪とセーラー服、紺色をしたスカートを夜風に靡かせている。僕の通っている高校の制服ではない。

 靡く黒髪を左手で押さえ、その子は寂しげな目を水面に向けていた。僕はその強くて脆そうな瞳を知っている。

 微かに届く街の明かりと月の光が彼女を照らす。

 視線が合う。



「あなたは、こんな世の中で生きていく意味があると思う?」と、彼女の質問を自分自身に問う。



 僕は未だに答えられそうになかった。

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