代償はその色で

あのころのハジメの髪は、今と違って黒かった。赤みが買った茶色に近い詩織の髪とは違い、混じりけのないその黒い毛は、元気よく走り回り、跳ね回る度にきらきら光を反射して、詩織の目はそのきらめきを追いかけた。

 幼稚園で知り合い、お互いの家に何度も遊びに行き、ハジメの家の本の多さにびっくりして、そこが本屋さんだと知った。遊びに行くと、彼女は同い年なのに、分厚い魔術の本を楽しそうにページをめくっていてた。早く外に出かけたくてうずうずしている詩織に、しばらくしてから本から顔をあげて、ふにゃっと笑うのだ。

 ハジメのお母さんが時折気まぐれに魔術を二人に見せてやると、ハジメはすぐにそれを真似して、すっかり自分のものにしてしまった。あまりに上達が早いうえ、魔導書を片っ端から読んで試してしまうため、書店の客の大人たちは小さな女の子が高度な魔術を使っているのを見て目を丸くしていた。

 ハジメは、いわゆる天才児、だったのだろう。詩織の両親など、半ば本気で彼女が将来大魔導師……魔術研究の大家になると言っていた。

 引っ込み思案で、頭の回転も鈍かった詩織は、いつも活発で明るいハジメの後ろをくっついていた。出来ないことがあるとハジメがすぐに手を貸してくれた。二人で迷子になったとき、大きな野良犬に追いかけられたとき、眼鏡を男の子にからかわれたとき、いつもハジメが問題を解決した。詩織が気づいていなかったことを見つけたり、大人顔向けの魔術を使ったりして、詩織が安心できるようにしてくれた。。

 だから詩織はいつでもハジメを頼った。おつかいのお金を落としたとき、転んで膝を擦りむいたとき、他の友達とケンカしたとき。……そして、あのときも。


 春を迎えたばかりの、まだ肌寒い日曜日。朝から雨が降っていた。

「ねえハジメ……」

「んー……」

「ねえ……」

「んーあとでね……詩織……」

「さっきもそういったじゃない……」

 せめて自分を見てお喋りをしてほしいのに、ハジメは古くて大きなハードカバーの魔術式から全然顔を上げてくれない。こうなったら彼女はてこでも動かない。頬を膨らませてから、詩織はハジメの部屋を出て階段を下りて行った。

天気予報が外れて、約束していた遊園地に行けなくなり、ハジメも相手をしてくれない。他にやることがなくて、槙野よろず書店の中をぐるぐると歩き回った。商店街のアーケードの屋根で雨粒が立てる音が人気のない本棚と本棚の間に単調に響いて、むっとした雨の匂いが小さな体にまとわりつく。そういうところにじっとしているのがイヤで、見慣れたハジメの家に何か特別なものがないかときょろきょろしていた。それを見つければハジメが興味をもって自分といっしょに夢中になってくれるような、そんな何かを。

だから、幼い詩織は見つけてしまったのだ。今まで壁だと思っていた隠し扉を。その向こうの、真っ暗な地下室を。

自分の発見に舞い上がって詩織は二階へと駆け上がり、訝しむハジメの手を引っ張って暗い階段を下りていった。

「ええー地下室なんて聞いたことないよ」「ほんとうにあるのよ!いっしょに見たらわかるわ!」

 10年以上もたっているに、自分が発した幼い言葉を一言一句思い出せる。二人で階段の底にたどり着き、黒い扉を押し開く。真っ黒な靄が流れ出し、中の様子は窺えない。

「なんだろ、これ……」

 詩織の期待通り興味を示したハジメはいくつかの魔術を使ったが、どんなに強い光を作り出しても闇の向こうは全く分からなかった。

「ねえ、ここで立ってないで入ってみよう?」

 わくわくしていた詩織は、そう言った。

「えー、でも何があるか分からないのに」

「いいから、入ってみれば分かるわよ!」

 そう言って詩織はハジメの手をまた握り、扉の向こうに踏み込んだ。


 ずっと後になって、クレエがその地下室に押し入ったと知ったとき、詩織は自分の体験の全てを打ち明けられなかった。言って、ハジメとの関係が壊れてしまったら。白い髪のハジメが、すべてを思い出してどんな顔をするのか、想像するのも恐ろしかったから。店の地下の書庫に二人で入って、出てきた。そこで怖い思いをした。ハジメはそこまでしか知らない。本当は何があったのか、詩織はハジメには話していない。


 下へ、下へ、下へ。無限に体が落ちていく感覚。ただし、音や風圧は感じない。まったくの光のない闇の中、ただ下へ。

「ハジメーー! ハジメ―!?」

 叫んで呼んでも、親友の答える声はしない。

 黒い靄で満たされた部屋に入った途端、幼い二人の少女は落下した。握っていたはずの手はいつの間にか離れていた。ポケットから取り出したケータイは滑り落ちていって、詩織にはとんでもない距離を落ちていく自分をどうすることも出来ない。

――自分の家に、こんな落とし穴があるなんて、おばさんは教えてくれなかった。いじわるだ。

 そんな気持ちが浮かんだが、真っ黒い恐怖で押し潰された。

――このまま落ちていったら、どうなっちゃうの? わたしは……ハジメは?

 何も踏みしめていない足元から寒気が駆け上がり、全身が震えあがった。

「ハジメ……」

 呟きすらも闇に吸い込まれていき、何もできずただ落ちていく――落ちていく――


 気が付くと、永遠に思えた落下は止まっていた。横向きに倒れた体の下には、確かに硬い地面がある。慌てて飛び上がった詩織が目にしたものは、ごうごうと音を立てて燃える炎の壁だった。真っ暗な闇の中、その赤い光だけが見える。

「か……火事!?」

 ハジメの家が燃えちゃう――消防車を呼ばなければ、とポケットを探ったが、落とした携帯電話はそこにはなかった。息のつまる熱波に、腰が抜けて立ち上がれない。

「詩織、そこにいるの?」

「ハジメ!?」

 炎の向こうから、ずっと聞きたかった声が届いて、ハジメの顔が見えた。火の色が彼女の髪を輝かせて、こんな状況なのに詩織はそれを綺麗だ、と思った。

「この炎、さっきから水かけてるけど消えない! 詩織もやってみてくれる?」

 熱波で顔を火照らせながら、彼女は何度も魔術の水流を呼び出しているが、炎はまるでそれを受け付けない。蒸気を発することもなく水は消え失せ、ますます火の手が増していくようだ。

 詩織は反射的にポケットに手をやって、思い出した。

「ごめん……わたし、落としちゃったみたい……」

 消え入るような声だったが、ハジメはこちらを見て、真剣な顔で頷いた。

「わかった! 詩織はそこにいて、私がなんとかする!」

 そして、安心させるようににこっと笑ってから、炎に向き直る。

 その後、何も役に立てず見ているだけの詩織の前で、ハジメは次々に魔術を使ったが、どれも消火に繋がらなかった。時間と共に噴き出す汗が増し、息を吸うのも肺が熱く、苦しくなる。立っていられず、詩織は真っ黒な地面に両手をついた。

「詩織……?」

 ハジメの心配そうな声が遠い。髪の毛の先から汗の雫がこぼれ、目の前がぐるぐると回りだした。

「きもち、わるい……」

 不快と苦痛がまとわりつき、ハジメの足手まといでしかない自分がみじめで嫌いで、このまま消えて居なくなりたいと、そう思ったとき。

「――詩織」

 ハジメの小さな手が、そっと頬に触れたのが分かった。辛うじてその顔を見上げると、いつもと変わらない、親友の笑顔。

「詩織、思いついたことがあるの」

「な、に……?」

「ここから脱出する方法! 魔導書を暴走させるの」

 暴走、という言葉の危険なイメージに詩織が目を見開くと、ハジメは一度頷いてから続けた。

「ここは、魔術を使ってもちゃんと効果が出ないようにされた空間、だと思うの。どんな魔術でも火は消せないし、さっきわたしたちが落ちてきた真っ暗な穴もそう。でも、こんな空間は魔術でしか作れない。だから、魔術そのものが……伝子と熱の反応そのものが無効なわけじゃない」

 言わんとすることが理解できず、詩織は困惑した。

「だから、魔術の一番の大本……空間の伝子の供給をゼロにしてあげれば、この炎や真っ暗闇を作ってる魔術がどんなものでも機能しなくなるはずなの」

「そのために、わざと魔導書を暴走させて無制限に伝子を反応させる。そうすればきっと元のうちに帰れる! だから、安心して!」

 汗の流れる笑顔で強く言うと、ハジメはハードカバーを開いた。その指先が魔力を大きく消費する複雑な魔導式だけをいくつも選び出し、伝子回路を形成、起動させていく。

――でも、そんなに魔術を使ったら……そんなにたくさん伝子を反応させたら……

 魔術には、絶対の限界となる法則が存在する。「使えば冷える」。術者と空間の熱を奪い、伝子は反応し、魔力を回路の上へ走らせる。すなわち、魔術を使えば使うほど冷感が発生する。度が過ぎればただ「寒い」というだけには収まらず、命を脅かす。魔術を学ぶ子どもは、この事実を最初に教えられる。

「ハジメ、そんなことしたら体が……」

「だいじょうぶ」

 あのときハジメを止めていたら。幼さ、愚かさの代償を、自分ひとりだけが受けていたら。

「詩織は、わたしが助けるからね!!」

 その言葉を、あの笑顔を。

 喪わずに済んだのだろうか。


 総勢12種類の魔術が並列起動し、無制限に空間中の伝子が音を立ててハジメの魔導書に吸い寄せられる。むせかえる熱気に満ちていた炎の渦の中が、急速に冷え切っていく。熱さに喘いでた詩織は、冷気が皮膚を癒していくように感じていた。それでも魔術の火の手は弱まらなかった。

 見ているしか出来ない詩織の前で、ハジメは伝子を注ぐために魔導式を唱え続けたが、一定以上の効果はなかった。紙の魔導書、特にハードカバーの多くは、電子版よりも魔術の暴走が起き難い。印刷された紙の中に、安定させる仕掛けが施されているのだ。

「おかあさん、ごめんね」

 小さく呟くと、ハジメは自分の唇を強く噛んだ。赤い宝石のように血がこぼれだし、舌先でそれを取り、唇全体に塗るようにする。そして、おもむろに魔導書を顔に近づけ、そのページに口をつけた。

 すると何かが破れるような音が響き――周囲の炎が急に薄れ、小さくなっていく。奪われる伝子が、今までの数倍になったことを示すように。

「これで――」

 ハジメの手の中で、魔導書は鈍色に輝きだし、轟音を立てて伝子を取り込む。完全な暴走。冷気はさらにまし、詩織は体が震えるのを感じた。バースデイケーキのロウソクのように、炎の壁が掻き消えていき、闇の中で何も見えなくなる。

自分でさえ震えているのだから、直接体温を低下させているハジメは――

 見えないままハジメを見上げようとして――詩織の意識はそこで途絶えた。



 目を覚ましたのは、それからまる一日経ってからだった。心配する母親の言葉は耳に入らず、真っ先にハジメのことを聞いた。

急いで向かった病院の個室で、ハジメはぼんやりと窓の外を眺めていた。名前を呼ぶと、彼女はこちらを振り向いて、――驚いて言葉を失くした詩織を見て、首を傾げた。


その髪は、黒から雪のような白になっていた。

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