白い髪の手触りに
その決意は罪の味
――この子は、きっと夏樫がどんなに悪い奴でもそう言うだけで、警戒しないだろう。
――だったら、守らなければ。私が……私だけが、ハジメを守るんだ。
固く結んだ決意のままに、詩織は親友の袖を掴んで引き寄せていた。
「あ、河津くん、退院したんだ」
真っ白な髪をした親友が、窓の外を見て顔をほころばせた。彼女が見る窓の向こうには、松葉杖を突き、奈帆に付き添われる満雄が歩いている。二人の表情は明るい。同じ校舎で、お互い沈痛の表情で泣いていたことが嘘のようだ。
「そうね」
赤いフレームの眼鏡をかけなおして、詩織は二人を見下ろした。
「田端さん、仲良くなれて良かったねー」
何も疑わない、ハジメの顔。詩織は彼女のようには受け止められなかった。
あの二人は満雄が一方的に奈帆を好きになり、奈帆はそれを嫌がっているうち、夏樫という得体の知れない夏樫という相手から禁書を受け取ってしまった。そして学校を巻き込んだ事件が起き、ハジメにも危害が及びかけた。
黒魔術の効果が起きていたときのことは自分たち以外は覚えていないらしく、満雄が再びいじめを受けることはなかった。彼の見舞いに行った奈帆は甲斐甲斐しく骨折した足を支えるようになった。二人が付き合っているのかどうかははっきりしない。だが、加害者となった奈帆が、被害者の満雄に好意と勘違いした感情を向けているだけではないか? どうしても詩織はそう思わずにいられなかった。
「そう、ね」
だが、ハジメ相手にそんなことを言っても始まらない。人を疑わず、言われたことを鵜呑みにする。そんな無防備な、無邪気なハジメだから。
だから――自分だけは、何が何でもハジメを悪意から守らなければいけない。
それが、自分の出来る、償いだから。
「貴様、何をしていた。あの小娘の魂を絞りつくしておれば、あの結界に迫ることも可能だったはずだ。なぜあっさり引き下がった」
「なんやなんや、いきなり来て不躾やなあ」
薄暗い照明、狭く細長い店内。戸口に立つ黒いローブの男に、象牙細工のような白い髪と真っ黒の服――夏樫はめんどうくさそうな顔をしてみせた。机に頬杖をつき、片方の目だけ開けて男を見る。
「キミ、なんでもかんでもせっかちはあかんでー? 大事なコトはゆっくり進めるもんや」
「ふん、貴様は行動がいきあたりばったりに過ぎる。なぜ貴様がこの計画に選ばれたのか分からん。どんな手を使ったのやら」
ローブの男は蔑む目を向けるが、夏樫は意に介することもなく机に置いていた魔導書を指先で弄びながら、
「ん~? ウチのこの溢れ出る才能と美少女感たっぷりのビジュアルのおかげやろ?」
媚びるように首を傾げ、甘ったるい声を作る。そんな夏樫には取り合わず、男は威圧的な足音を立てて目の前まで来ると、懐から取り出した写真を机に叩きつけた。
「結界を破るにはこの少女が必要だ。貴様の遊びには付き合っていられん。さっさと進めろ。立場が危うくならんうちにな」
言いたいことを言うと、細い扉を開けて暗闇の中に消えていった。
「……やれやれ、本当にいなくなっても構わん、思われてんのはどっちか知らんのやあ」
指先で写真を取り上げると、夏樫はそこに映っている制服姿の少女を見つめた。
「うーん、どうやってオトしたろーかなー」
ハードカバーの脇に置いていた、カラフルなイラストが表紙の文庫本――ライトノベルを、片手でパラパラとめくる。
「ほほー……転校生、かぁ……ええなあ」
もう一度写真を眺める。たれ気味の目じり、色の薄い肌、新品の白紙のような色の肩にかかる髪。何より、盗撮されている可能性なんてこれっぽっちも感じていない、のほほんとした間抜けそうな顔。
「待っといてなあ、かわいこちゃん」
「追試ですか」「ええ、追試よ。流石にこの点数は認められないわ」
桐山先生のいつになくドスの効いた声音に、ハジメの背筋はピンと伸びた。出来が悪い生徒程かわいい、けれどこの子は度が過ぎる――そう思っていそうな真顔。
「貴女にはせっかく良い友達がいるんだから、しっかり教えてもらいなさい」
とはいえ、親友の子どもだから見捨てられない――そういう類の笑みを浮かべて、ハジメの白い頭に手を置いてぽんぽんと叩く。
「えへへ、詩織もクレエちゃんも色々教えてくれるんです。いっつも二人ともケンカしちゃうけど、でも二人ともわたしの同じところダメ出しするんです。それって気が合うってことですよね」
ちょっと嬉しそうに口にするハジメ。
「……それはどうかしら……」
桐山は微妙な顔をしたが、気を取り直して話題を変えた。
「ねえ、貴女から見てクレエさんはどう? 他に友達を作れているかしら」
「あ、それなら心配ないです! クレエちゃんと友達になりたいって子たちがいます」
ハジメは以前、クレエの親衛隊を名乗るグループに呼び出されたときの話をした。
「えっ……それって、その後大丈夫だったの。脅されたとか……」
ハジメがいじめられたかと身を乗り出したが、続く言葉に気が抜けた。
「クレエちゃんと友達のわたしに、クレエちゃんのお話するってことは、クレエちゃんと友達になりたくて話しにくるってことですよね!」
「そう、ね……そう思ってたほうが、貴女らしいわね」
肩をすくめて見せる桐山に、ハジメはにっこりしたまま首を傾げた。
「まったく、追試控えてるから勉強教えてって言ったのに……! まだ30分しか経ってないわよ」
「ごめん……しおり……れも……おなじもんらい……ねむ……」
瞼がほとんど落ちたハジメを詩織は揺さぶったが、かえってその振動が眠気を促進したらしく、ハジメは早くテーブルに突っ伏してもすやすやと寝息を立て始めた。
「ああ、もう……」
夕飯を食べ、お風呂に入ってからハジメに勉強をさせたのは完全に失敗だった。満腹になり、体を温めた彼女に睡魔に抗うべくすべがあるはずもなかったのだ。ただ、そう分かっていても詩織はハジメのためにキノコのグラタンを作り、店番を終えた彼女に食べさせてしまった。食事をお預けにしてハジメをたきつけようと考えていたにも関わらず。
「やっぱり、甘やかしてるのかしら……」
クレエによく言われることだ。ハジメのためとあれこれ世話を焼いたり、口うるさくしたりしているが、結局どこかでハジメを甘やかし、堕落させていると。その度にクレエにつっかかっているが、本当は分かっているのだ。
ハジメに本当の意味では厳しく出来ない。それは、自分の中に負い目があるからだと。
「はあ……」
溜息をつきながら、勝手知ったるハジメの寝室から掛布団を持ってきて、丸まった背中にかけてやった。
幸い明日は土曜日で、親には泊まり込みになると言ってある。明日は一日カンヅメにして勉強を見てやらなければ。
決意したところで、それが「明日から頑張る」という言い訳と何も変わらないことに気づき、さらに大きな溜息が出た。
テーブルの反対側に回って腰を落とすと、楽しい夢でも見ているのか、うっすら笑みの浮かぶ寝顔と、その頬にかかる白い髪の房を見つめる。
そっと引き寄せられるように手を伸ばして、真っ白なそれにそっと触れ、指先で梳いた。あまりにも滑らかで、簡単に指先からこぼれていった。
ぼんやりとしか目の前が見えない。かえして、と取り上げられた眼鏡に手を伸ばすが届かない。非力な幼い自分は男の子の手に抑えられて、げらげらと笑われるしかない。
鼻の奥がつん、として、いよいよ大声で泣きだしそうになったとき。
「――れんごくの、くちなわ――わががいてきをやきつくせ」
たどたどしくも、どこか力強い術句が紡がれ、真っ赤な炎の蛇が、詩織の背後から飛び出した。自分を押さえていたいじめっ子の腕をかすめると、その熱さで悲鳴をあげさせる。反射的に彼らから身をもぎ離して振り返ると、そこには仲良しのハジメが立っていた。
「はじ、めえ……」
ぼんやりした目でも分かる。きれいな白い肌と、対照的な黒々とした長い、長い髪。自分よりも低い背丈で、不釣り合いなほど大きなハードカバーの魔導書を片手で抱え、幼い顔に真剣な表情を浮かべて男の子たちを睨みつけている。そんな姿に、詩織の鼻がつんとなった。
「な、なんだよおまえぇ」
ちっちゃな女の子が放った魔術――伝子で形を作る、というところまでは子供でも辛うじて分かる。でも、それに炎を纏わせる、なんて大人でも使ったところを見たことがない。それこそテレビの中でしか。かっこいい、とかそういうものより、燃えているものが、ただただ怖い。男の子たちはそういう怯えですくみ上った。
「ねえ、返して」
ふわっとした幼い声は、彼らには自分の母親の怒鳴り声より怖く思えた。
「詩織のメガネ、返してよ」
睨み続けながら、背後で赤い蛇が鎌首をもたげる。まるで生きているように、燃え上がる目玉が獲物を射る。
「ひぃっ……」
いじめっ子たちは顔を見合わせると、詩織の眼鏡を放り出して一目散に逃げ出した。
落ちてきた眼鏡をもう片方の手で受け止めると、ハジメはハードカバーを閉じて魔術を消した。引き締めた表情から一転、にっこりとして詩織に向き直る。
「はい、詩織」
「ハジメぇ……」
眼鏡を受け取ってかける。はっきりしたハジメの顔が見え、ほっとしたはずみでまた涙と、ついでに鼻水が出た。
「もうだいじょうぶだよー」
ふわふわ笑うハジメが手を伸ばして、自分より高いところにある詩織の頭を撫でてくれた。そう、いつもハジメはわたしを助けてくれる――
「詩織は、わたしが助けるから!」
ありし日の親友が本当にそう行ったのか――
詩織には、分からない。
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