第三幕「届かない純情」

「あ~! ボール飛んでった」

 そんな朗らかな声が聞こえてきて、目の前を白いボールが転がっていった。ボールはそのまま、ちょうど校庭のフェンスが破れているところに入り込み、奥の木立の中に消える。

 満雄は少しの間ボールが飛んできた方向と、ボールの消えたフェンスの向こうを交互に見ていた。近くにはたまたま、誰もいない。彼は休み時間はいつも独りぼっちだった。少し前は趣味の合う仲間が隣のクラスにいたのだが、彼の親の仕事の都合で転校していってしまった。

「ごめーん、誰か取ってきてー」

 そんなところにたまたまと言え、誰かから頼まれごとをする、というのは河津満雄にとって少なくない意味があった。だから、彼は屈んで膝をつくと、フェンスの穴をくぐってボールを探しに向かった。

 誰も入らない茂みは、伸び放題の草木の葉や枝がこすれ、手や顔に細かい傷がつく。頭上に絡まる枝で、立ち上がることは難しい。年中陰になっている地面はぬかるんでいて、手と膝が泥だらけになる。苦労してボールを見つけて戻ると、きょろきょろと辺りを見回す女子生徒がいた。フェンスから出てきた満雄とその手にあったバレーボールに目を止め、顔を輝かせる。

「河津くんが拾ってくれたの!? ありがとー!」

 彼女の笑顔が眩しくて、満雄は照れ臭くなってしまった。

「あ、え、その……僕の名前、知ってるの?」

「うん、同級生のみんなの名前はみんな覚えてるよ! 河津くんとは初めてしゃべるね」

「そ、そうなんだ……」

 どぎまぎして気の利いたことも言えない自分が嫌になる。

「あ、河津くん、泥だらけじゃない。あそこに入って探してくれたから?」

「う、うん」

 傷や泥を見つけて心配そうな視線が恥ずかしくて頬にやった手を、

「ほら、手もケガして……」

 と、彼女は彼の手を取って傷を見る。そのところどころタコのある柔らかさ、温かさに満雄の心臓は高く跳ね上がった。

「頑張ってボール取ってくれたんだね、ありがとう! でも早く保健室行ってね」

 にっこりした彼女に満雄の頭がぼうっとしているうちに、

「奈帆―、ボールまだ?」

「うんー、今行くー」

 呼びかけに答えると、彼女はバレーボールを手に戻っていってしまった。

 

 その日以来、満雄は彼女――田端奈帆のことが頭から離れなくなってしまった。そして、ついに告白の手紙を書いて渡すようになった。この思いをなんとか届けたい。その一心だった。

 自分の行動が、愛する人の負担になるなんて彼には思いつきもしなかった。奈帆が彼の学校生活の中で唯一の救いだった。

 それが突然、クラスメイト、先生、学校中からいじめられ、昼休みに女の子に背中を鞭打たれ、放課後の今は体格のいい男子生徒たちに足蹴にされている。彼らは一様に、「田端奈帆を煩わせたから」と口にした。

 自分のしたことは間違っていたのか? たった一人笑顔を向けてくれた奈帆に、自分を受け入れてもらおうとすることが?

――田端さんは、僕に好きだと言われるのが、僕に好きになられるのが、迷惑だった――?

 彼の胸は、自分を支えてきた柱がなくなってしまったような無力感に埋め尽くされていた。

 涙で滲む視界の中で、振りぬかれたスパイクシューズが自分の腹に突き刺ささろうと――

「よしなさいな」

 夕闇の中で、凛とした声が響いた。顔を上げると、薄暗い中でも光を放つような金色の髪をなびかせるクレエが、仁王立ちでこちらを見下ろしていた。

 にたにたと笑いながらクレエを揶揄する男子生徒たちだったが、彼らが魔術を繰り出す前に黄金の矢がそれぞれの足元に刺さる。

「なんだっ!? うわっ」

 矢が変じた鎖が満雄以外の全員を拘束する。

「しばらく大人しくしていてくださいまし」

 段差から降りてくると、クレエは満雄に目をやった。

「お怪我が……」

 顔の傷に白いハンカチを近づけるクレエに、満雄の体がびくりと跳ねて後ずさった。

「あ、あなたも、ぼ、ぼくに乱暴するんですか?

 怯え切った様子に、彼女は伸ばした手を止めて困った顔になった。

「いえ、そうではなく、この状況を解消するために……」

「このような目に合った貴方に、信じろというほうが無理ですわね。ですが……」

 一度視線を外すと、携えていた弓を構え、矢を生み出す。

「ひとまず、わたくしが請け負った役目は果たしますわ」

 立て続けに矢を放つと、二人の元へと近寄ってきていた生徒たちの動きが鎖で封じられる。

「しばらく辛抱してくださいな」

 そして、満雄を守るように立ちはだかった。


 ハジメの熱意に押されて詩織とクレエが立てた作戦は以下の推測に基づくものだった。

 第一に、学園の敷地内に入ると洗脳魔術の影響を受ける。だが、ハジメと詩織が朝から校内にいたにも関わらず洗脳されなかったことから、洗脳に使われている魔術にはなんらかの例外があることが考えられる。(もっとも後者はハジメの希望的観測が多大に含まれていたが。)

 第二に、「河津満雄を攻撃する・非難する」ことに反する行動は、洗脳されている生徒・教師から攻撃の対象になる。魔術の術者もそちらに注目すると思われる。

 以上のことから、二人は「一人が囮を兼ねて満雄を生徒たちから守り、その隙に詩織とハジメで校内にいると思われる術者を探す」という作戦を立てた。

 大規模な魔術を使用しているなら、術者と魔導書の周り空間は大量の伝子と熱が反応しているはず。その冷気を探ろうという、魔術の正体も具体的な対策も分からないなかで地道な方法だった。

 ハジメを参加させることに詩織は難色を示したが、本人が『わたしも絶対行く!』と言い張ったこと、『ハジメさんは冷感だけは強いのですから、むしろ強力して頂いたほうが』というクレエのとりなしもあり、渋々了承した。

「ここは?」

「誰もいないわ。次よ」

 クレエが生徒を引き付け始めたのを見計らって校内に入った二人は、空っぽの教室を次々覗いていった。入る前に一応冷感を確かめる。だが寒く感じる場所は見当がつかない。

「ねえハジメ、術者はここにいないんじゃないかしら」

「どうして?」

「なぜって、田端さんが術の中心と思わせるための偽の手がかりを言わせたのかも知れないでしょ。だから、一度出直して……」

「杉田くんとしゃべったのは詩織でしょ?」

「そうだけど……」

 なんとかハジメを帰せないものかと言葉を探すが、ハジメは詩織の内心などお構いなく廊下を駆けて扉という扉を開けて回る。

「ちょっと、待ちなさ……」

 追いすがって腕を取ろうとしたとき、寒気が背筋に鋭く突き刺さった。

「今のは……!?」

「わたしも感じた! あっちだよ!」

 言うなり駆け出していくハジメ。

「ああ~っもう! 待ちなさい、ハジメ!」

 叫んで、詩織も追いかけた。


「ヤバいチカラの代償はたいがい命か魂や。まだ生きとるだけ魂のほうがええやろ?」

 逆光の中、奈帆は自分の体が急速に冷たくなっていくのを感じていた。机の上に広げられていた禁書が、夕日をかき消すほどに眩い光を放ち始める。

(これ……ハジメちゃんが起こしたのと同じ、暴走……?)

 以前授業中に魔導書を暴走させたハジメと状況は似ているが、奈帆には今、壁に押さえつけられ、どんどん熱が奪われていくために手を伸ばしてもかじかんで力が入らない。

 掴まれた口からは悲鳴も出せず、かすかなうめき声だけが漏れるだけ。

 鈍色の魔力の光がより明るくなり、目の前を塗りつぶすにしたがって、奈帆の体が冷え切っていく。急激な体温の低下に、意識が遠のいていく。平然と奈帆を押さえつけ続ける夏樫の黒い影がにじみ、ぼやけ、見えなくなる。

「あ……」

「田端さん!」

「奈帆ちゃん!」

 気を失う寸前に誰かの声がしたが、誰かは分からなかった。


 強い冷感を辿って生徒会室に飛び込んだハジメと詩織が見たのは、正視できないほどの鈍色の光と、その中で凍えたように震える奈帆だった。

「田端さん!」「奈帆ちゃん!」

 寄りかかっていた壁からずり落ちるように倒れこみ、激しく体を震わせる奈帆。ハジメは駆け寄って体を起こしたが、

「ひゃっ! つめたっ!?」

 触っただけで痛いと錯覚するほどに肌が冷え切っており、思わず声が漏れた。

「暴走……!? ハジメのときと同じ……?」

 では、術者である奈帆がこの黒魔術を制御出来なくなったのか……。詩織は机に載った魔導書に、警戒しがら手を伸ばしたが、鈍色の輝きが脈動するように明滅した。

「大変! どんどん体が冷たくなってるよ!」

 悲痛な声に、詩織は焦るが……。

(ハジメの魔導書が暴走したとき、先生は専用の栞を挟んでいた……あれはどこに?)

 だが、彼女たちが何もできない間に、それは起きた。

 生徒会室の気温が一気に下がったかと思うと、輝く魔導書がひとりでに浮かび上がる。

 魔導書が引き寄せられるように宙を飛ぶと、冷え切った奈帆の体から呼応するように赤い光の球が現れ、どこかへと飛び去る。。

「な、なに?」

「大変! 奈帆ちゃん、息してない!」

 ハジメは声を上げた。弱弱しいながらも感じ取れた奈帆の呼吸と脈拍が分からなくなり、力の抜けた手がだらりと垂れ下がる。

「嘘……」

 詩織も慌てて駆け寄るが、奈帆の体の冷たさに思わず身がすくんだ。

 (どうしよう、この子が死んだとしたら……)

 目を閉じてぴくりとも動かない奈帆を抱えて名前を呼び続ける親友。彼女がこの事件で心を痛めたら――

(そうしたら、私は奈帆を許せない――)

 なんとしてでも奈帆に息を吹き返させようと立ち上がったとき、

「お代、キッチリ支払ってもろたで。お嬢ちゃん」

 愉快そうな声がして、二人が振り向くと……そこには黒と白の少女が立っていた。

 右手にハードカバー、左手には奈帆から飛び出した赤い球を持ちながら。

「誰……?」

「そこのお嬢ちゃんと同業者や。よろしゅうな」

 口の端を吊り上げた笑顔のまま、彼女は魔導書に赤い光球を埋め込んだ。

「さあ、ショータイム、や」

 鈍色の光が爆発したように輝き、二人の目は何も見えなくなった。

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