第35話 素直に、諦めたくねえ
――ヒュ。
「なっ」
肩を一陣の風が通り抜けた。それは昂我を追い抜き、突き当りの外壁に突き刺さる。
(あいつ、標識を投げやがった!)
壁に突き刺さったままの標識を横目に、更に足に力をこめる。追ってくるファントムの音は耳から離れない。奴の走るスピードは常人とほぼ同じかそれ以上、それにたまに障害物を千切っては投げてくるので、その間にタイムロスが発生している。しかしこちらも体がやけに重いままだ。息も上がってくるので徐々にスピードが落ちてきている。
見ず知らずの住宅地の道路はどこも似たり寄ったりで、碁盤の目のような迷路を感覚的に走り抜ける。浅蔵の家は知らないので、凛那の家へと感覚で方向を決定して疾走する。そろそろ凛那と夜に歩いた河川脇に出るはずだ。そこまで来れば道は分かる。
気が付くと鎧の音も聞こえない。
「ま、撒いたか……?」
後ろを振り向きながら足を緩めると、五百メートルほど離れた場所でファントムがこちらを向いている。これまで投げてきた、千切った標識やらガードレースやら、その数十個がファントムの頭上背後に浮いていた。
「あれはやばい気がする!」
ファントムの蒼い炎は背中に浮かんでいる物体たちに徐々に移っていき、ファントムが右手を大きく天に掲げる。奴が腕を振り下ろす前に、再び全力で走り出す。目の前は一級河川が流れていて行き止まりだ。せめて左右のどちらかに曲がれば道はある――!
高速で風を切る音が迫るのが分かる。空気が巻き込まれ、走っている昂我の体さえも巻き込まれていくようだ。
「あ、ぐっ……!」
左脇腹に激痛が走る。衝撃、視界は大きく揺らぎ、脇腹に刺さった鉄パイプが昂我をそのまま冬の川の中へと突き落とした。
ファントムが再び、川の中へ飛び道具を撃つ姿が見えたが、昂我は川の流れに逆らえず、凍てつくような水面へと潜り、そのまま身を任せて流れていった。
意識は殆ど消え入りそうだった。
冷水は思ったほど冷たくなかったが、そんなことよりも洋服は重石となり、けして綺麗とは言えない水の中へと引きずり込まれる。
満足に息が吸えたわけではないので何度も水を飲み、口の中に砂利が入ってくるのが分かった。生臭い水が鼻の奥をつき、勝手に涙が出てくる。
ファントムにまだ捕捉されているのか、されていないのかすら分からない。
分かるのは感覚のない体と、刺された脇腹がやけに熱い事だけだ。
(あっけねえ……)
人間ってのは人生の山場でも、なんでもない場面で死ぬこともあると聞いていたが、どうやら本当のようだ。
いつも死と隣り合わせなのが、当たり前ってことをつい忘れがちになってしまう。
どんなに生きようと強い意志があっても死ぬときは死ぬし、死にたいと思っても、生きるときは生きるのだ。
(俺はどっちだ、生きたいか、死にたいか?)
(無論だ、生きたいにきまってるじゃねーか)
一生分の死にたいはもう言い切った。残る人生は楽しくいきたいって言葉しか出ないくらいだ。だがどんな考えをもっていても、現実には抗えない。
このまま朝を迎えれば、間違いなく凍死する――凍死――死――死死死死、死?
『てめえは死んじゃいけねえ。何があっても、絶対にだ』
脳内で腹の奥から響くような重低音が聞こえる。
川に流されている昂我に聞こえるはずがないのは分かっている。
これはきっと走馬燈のようなもの、か。
『いつも死んだような面しやがって、もう十分に死は見ただろう?』
髭面で下品にも大きく口をあけて笑う大男の影が脳裏に浮かぶ。懐かしい。小学校に入る前か、それ以来じゃないか。
『いいか昂我。俺の全てをてめえに授ける。だから生きろ。あと少しは笑え。死に顔ばっかじゃ幸せも寄ってこねーぜ、がははははははは、はっ、げひぐふぁ、ぐ、せ、咳き込んじゃ、かっこつかねえか、ふははは』
(そういや師匠はどんな辛い時も笑ってたな……)
昂我と山籠もりしてる時も笑いながら熊を素手で殺し、笑いながら鍋にして食べたっけ。崖から突き落としてくれた時も、森の中でサバイバルさせやがった時も、全部笑ってたなあ。
初めは虐めて笑ってると思ってたんだが、今思えば一緒にいるのがあの人も楽しかったのかもしれない。
そう、確かに師匠も初めて出会った時に言っていた。
あの絶望すらも理解できなかった時に。
『人生捨てたもんじゃねーって思わせてやるよ、坊主』
小さすぎるときの記憶は断片的過ぎてあまり覚えていないが、左目が無くなった事故のときに師匠が助けてくれたのだという。
そのときの笑顔だけは今もしっかりと覚えている。
泣いているくせに、なんでこんなに笑ってるんだこの大人は、と思ったんだ。
(もうどうしたら良いのかも分からないのに、この先良い事なんてありゃしないって思ってたんだが……思いの他、楽しい事って多いんだよなあ……)
天気がいいだけでも楽しくなるし、道端に花が咲いてるだけでも嬉しい時だってある。要はその時の自分が、それに目を向けられる余裕があったかどうかの話。
(だから、放っておけなかったんだ――あのときの凛那を――)
諦めを受け入れちゃ、楽しい事に気づける余裕なんかない。
水面は遠く、月の光が水面に揺れている。
右手を持ち上げようにも、あまりにも外界は遠くて、手が届かない――。
もう終わってしまってもいいのかもしれない。それは朝の眠気にも似ていて、全身を優しく包み込む。だが今こそは起きなくてはいけない、ここでの二度寝は二度と帰ってこれない。
(終わりたくねえ、素直に、諦めたくねえ……)
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