見た目って……その④



 水平に横たわった緑色の鏡面を、朝霧がおおう。

 蒸気とともに一体となる窒素、酸素、二酸化炭素とその他の分子たち。

 宙に浮くそれらは、深いくぼみにたまる大量の湖水を、無言の慈愛で見守る。

 遠い昔から。


 あくる日は、古い大きな湖まで予習に行った。

 

「ここは第2セクションよ。儀式では、この湖の歴史を学ぶの」


 ルニアとマイヨールは波打ちぎわから水に入り、3キロほど遠泳した。

 湖の中心あたりに着くと、そこは大海原の真ん中のように心細い場所だった。

 足もとには、いまにも引っぱられそうな暗い深み。透かして見ると、ヘビに似た細長いものが、群れをなしてユラユラと泳いでいる。


 生徒とコーチは頭から湖水に突っ込み、真っ逆さまに沈んだ。

 彼女は生身のままで潜水可能だが、私の相棒は装備を必要とした。

 といっても、身につけたスーツの厚みは0.1ミリだから、全くかさばらない。

動力付きの足ヒレは伸縮自在。頼りになる圧力調整付き換気装置も、鼻腔内に仕込めるコンパクトさだ。

 私? 

 マイヨールの胸もとにひっついていた。

 私の白い躯体はかなりの耐水圧があるが、暗い場所に沈みたくはない。


 最初の3回のトライでは、ルニアは250メートルの湖底まで到達できなかった。


「くやしい、くやしい」


 手足をバタバタさせる彼女に、マイヨールは教えた。


「息が続かないなら、すこしだけ過換気ぎみにして潜るといい。それと、身体に余分な動きをさせないこと。雑念もいらない」


 4〜5回深呼吸してから水しぶきをあげてダイブすると、ルニアは余裕で湖底に達した。

 水面まで戻った時、得意げな顔をした彼女は灰色の何かを手にしていた。

 

「貝殻よ」


 数百年、いや、もしかしたら千年以上かけて静かに堆積した歴史だった。


「深く掘っていくと、貝殻の色が濃かったり、薄かったり、するんだってさ」


「その違いは何を意味しているのかな?」


「食べると分かるらしいわ」


 音を立ててかみ砕いたルニアは、しばらく神妙に味わう。

 ノドを鳴らして飲み込む。

 目を見開く。

 そして深呼吸5回。

 水しぶきを残して、彼女は水面下に消えた。


 貝殻に似た何かの中に含まれるミネラルや微元素などの量やバランス。それは過去の時代によってさまざまだ。

 その微妙な差異を感じることは、鋭敏な味覚を持つこの惑星の住人にとって、まんざら不可能なことではない。ビストロの常連であるルニアの舌なら、大いに期待できる。





 岩石でできた星が自らの重力によって作りだし、蓄えたエネルギー。

 非常にゆっくりと、だがとてつもなく大きなスケールで大地を動かす。

 ときに天に向けていただきを突き出す。

 悠久の時を費やして。


 潜水の数日後は、登山だった。

 山頂に近づくにつれ、空を舞う鳥のような生物が数を増す。それらは侵入者を追い返したいのか、けたたましく叫んだ。

 

「息が苦しい」


 5000メートル超の高山は、ルニアの心肺にとっても過酷な環境だった。

 低温であることも脅威だったが、低気圧のほうが重大だった。

 マイヨールの鼻腔中に設置した換気装置は、ここでも十分な性能を発揮した。

 私は胸が痛んだ。

 おまえはヘッチャラな顔をしているが、彼女は死にそうな様子だ。良心の責めはないのか。


「コーチが苦しんでいてどうする。彼女の弱点を鍛錬する絶好のチャンスだ」


 正しいぞ、マイヨール。山の戦いこそ、ライバルを引き離す天王山だ。

 まあ、おまえも不死とはいえ寿命がないだけで、死ぬ可能性は普通にある。用心してくれ。


「これ以上、進めない。もうだめ。降りる」


 目を固く閉じたルニアがいう。


「それなら、ちょっと休もうか」


「すぐに降りる!」


「そうか。では、ここで終わろう」


 意外な優しさで、マイヨールがいう。

 ルニアはうつむき、ちょっとだけ黙っていた。

 そして顔を上げた。

 

「まだやる」


 汗とよだれで汚れた彼女は、上から叫び声を浴びつつ、休憩をとった。

 われらがコーチは、けなげな生徒の身体に検査針を刺し、酸素を与え、筋電位を測り、マッサージをした。

 少しのあいだ、ルニアは死んだように倒れていた。

 その後に起き上がった彼女の瞳は、何かを求めて輝いていた。

 




 1ヵ月の訓練ののち、ルニアは儀式の日を迎えた。

 その日、1000人を超える若者たちが走りまわり、見てまわった。






〜見た目って……その⑤へ つづく

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