幸せを呼ぶ黒猫

眩しい日差しが差し込む。

窓の外の生垣が日差しを反射するようにきらきらとしていた。

絵に描いた様な晴天をたった一人きり、ダイニングからただ眺めていた。

今日のお昼はオムライスにしようと起きた時から決めており、いざ冷蔵庫を開けると野菜室にはキャベツとレタスしか入っていなかった。

オムライスを諦め食べ物を探すとインスタントラーメンと炊飯器には母が炊いたであろう白米がホカホカと湯気を立てていた。

鍋に水を入れ沸騰するのを待ちながら腹立つほどに綺麗な外を眺める。


ふと、この狭い家の中に4人で過ごしていたあの日のことを思い出す。

ぎゅうぎゅうに詰められた冷蔵庫、狭い玄関に敷き詰められた靴、足を伸ばして入れない炬燵。

あんなに狭く感じた場所は1人には広く、それでもあの頃と同じように寝転がる時はいつも体を小さくした。


4人…父と母と兄と過ごしたボロボロのこの家。

この狭い家に父と母の怒鳴り声が響くようになったのはいつ頃からだっただろうか。

家族の写真で4人揃って映らなくなったのはいつ頃からだっただろうか。

大晦日にこの狭い家に親戚を呼んでぎゅうぎゅうになって汗をかきながら鍋を食べなくなったのはいつからだっただろうか。


いつか全て元に戻ることを諦めたのはいつからだっただろうか。


高校受験が近づくある日、父が私と兄に言った。

離婚することになった。俺と母さんどちらについてくる?

兄は別にどっちでもいいと言い、私は答えることが出来なかった。

やっと絞り出して言えたのは離婚しないでほしい、それだけだった。

その日の夜中、トイレに起きた私は父と母が台所で話しているのが聞こえた。

私たちの想いを伝えた父に母が返したのはもう疲れた、私は別れたい。

それだけだった。


その時の私は母の震える声を聞いて私が母を泣かせてしまった。そう思った瞬間に滲んだ視界で部屋に戻りベッドに潜り声を殺して泣いた。


その一ヶ月後、学校から帰ってくると父と父の物が全て家から消えていた。

私を出迎える母の声はいつもより優しく、しかし、どこか悲しさも滲んでいた。

兄は何も言わなかったが母に反抗することが多くなった。

何かが欠けたこの生活は日に日に崩壊していった。


これから1人で私達2人を育てることにプレッシャーを感じた母はよく怒り、思い通りにいかないと手を上げるようになった。

そんな母に嫌気がさした兄は必要な時以外部屋から出なくなった。

そんな状態で母の怒りの矛先は決まって私だった。

抵抗しても受け止めても止まらないそれに私の心は限界寸前だった。


何とかそんな生活を耐え続け私が高校2年生になった時、昔から憧れた東京に行くのだと反対する母を無視して兄は出て行った。

思い通りにいかなかったこと、兄を認め送り出せなかったことその全てを処理しきれない母はやっぱり私に当たり散らすばかりだった。


あの人は1人でのうのうと暮らすのに私は自由じゃない、あんたに高い金まで出して育てなくちゃいけない、私は不幸者だ。

それが母の口癖だった。

まだ高校生の私には1人で暮らす経済力も母を支える力も何も持ち合わせていなかった。

自分の思いを伝えることも母を止めることもできなくなった私は追い詰められた自分の心をどうすることもできず、いつからか剃刀や果物ナイフを手首に滑らせ消毒をぶっかけ包帯を巻くようになっていた。


死ぬ勇気もないくせに死の真似事を続ける自分に嘲笑いながらもやめることはなかった。

自分の不幸を嘆き、自分を1人置いていった兄を恨み、両親を嫌った。

学校では楽しそうに笑うクラスメイトが羨ましくて仕方なかった。

自分だけ違う、なんて言えなくてみんなと同じように笑顔を貼り付けて過ごした。

その時の私の居場所は何処にもなかった。


毎日ボロボロに精神をすり減らして家に帰りいつも通りに母の言葉を聞き流す。

しかしその日はいつもと違い仕事で上手くいかなかった母が家についてすぐ私を怒鳴り散らした。

私もその日はいつも以上に病んでいて母の前で泣き喚いた。

母はそんな私を見て私が虐めてるみたいだ、あんたなんか産まなきゃ良かったと酷く冷たい瞳でそう言った。

その言葉は私の存在を否定するもので、涙も思考も止まりただ呆然と立ち尽くした。

絶望に染まる私の表情に気がついた母はまるで逃げるように外に出て行った。

夜中になっても帰って来ない母に精神の崩壊した私はフラフラと外に出て気がつけば踏切の前に立っていた。


こんなことしても何にもならないことを分かっているのにおかしくなった私は田舎故に1時間に1本しか電車は来ないのに踏切の中に立った。

勝手に流れる涙は止まることを知らずどれくらいそうしていたかわからないけど踏切の中は遠くからカンカンと音が響くほどに静かだった。

もう少しでこの踏切に電車がやってくる。

いざ死のうとする時に限って思い出と後悔が押し寄せ涙が余計に止まらなくなった。

うるさい程に鳴り響く音とゆっくりと降りてくる遮断機に体は恐怖した。

もう少しで私は死ぬ。

空を見上げて滲んだ星を見た時、とてつもない力で体が引っ張られ地面に打ち付けられた時、目の前を電車が通り過ぎた。

激しく鳴り響く鼓動に涙と汗が頬を伝った。

肩と腹に回された誰かの手はひどく震えていた。


踏切の甲高い音は余韻を残し辺りはまた静寂に包まれた。

私を強く抱きしめていたその人は私を離すと目の前に現れ私の頬を力強く叩いた。

突然の衝撃に地面に倒れ込み、もう1度顔を上げると涙を流し息を乱し顔を真っ赤にした母がいた。

家に帰ると私がいなくて私の部屋で偶然剃刀と果物ナイフを見つけて血だらけのティッシュの入ったゴミ箱を見つけ慌てて私を探したのだと母は泣き喚きながらそう言った。

それから母は私を抱きしめ泣きながら謝り死なないでと懇願した。

私にはもうあなたしかいない、あなたが私の生きがいなのだとしゃくりあげながら言う母はあの頃に比べてとても小さかった。

それから誰もいない真っ暗な道を母と手を繋いで歩いた。

ふと隣を見るといつの間にか母の身長に追いついていたことに気がついた。


いつからだったっけ、今まで何度も頭によぎっていたこの言葉が何故か引っかかって仕方なかった。

思い返せば変わってしまった理由を周りのせいにばかりしているくせに、自分はどうだったのかは一つも考えたことはなかったのだ。

もう1度母を見ると母も私を見ていた。

突然で驚いて逸らした時、一瞬だけ見えた母の真っ直ぐな瞳には寂しさが滲んでいた。

いや、今日だけじゃない。

いつも誰かが寂しい顔や悲しい顔をしていた。


いつからだっけ、私が家族の顔を見つめなくなったのは。

いつからだっけ、必要な時以外話さなくなったのは。

いつからだっけ、全ての事から目を背けたのは。

いつも、全部家族のせいにしてきた。

家族がバラバラになってからは全て母のせいにしてきた。

自分は被害者だと思い続けてきた。

でもそれは間違っていた。

誰かだけの責任ではない。

私達家族はお互いがお互いを傷つけ合っていた。

傷つけすぎてボロボロになって一つずつ壊れてしまった。

せっかく残った部分も不器用な私は、修復するどころか壊してしまった。

その事実を知った今取り返しのつかないことをしてしまったという罪の意識に捕らわれ今度は私が泣き喚く番だった。

言葉にならない思いを覚束無い口で繋ぎただひたすらに戻りたい、戻れない、ごめんなさいを繰り返していた。

泣き喚く私に困惑した母は私を支えながら何とか家まで歩いた。

とりあえず落ち着きなさい、と私の前にマグカップを一つ置いた。

湯気が立ち上るそれを一口口に含むと私の大好きな母のカフェオレが口の中いっぱいに広がった。

4人で飲んだ日を思い出して涙を流しながら飲む私に母は幸せそうに微笑みながら私を撫でた。

そして母はゆっくりと話し始めた。


「今まで怒ってばっかりでごめんね、叩いてごめんね、痛かったでしょう?あなたには今までいっぱい我慢をさせたわね、ごめんなさい。あなたは優しいからきっと最後は私たちの離婚を認めるって分かっていたの。

あなたが嫌がるってこともわかっていたわ。それでも私は私の幸せを求めてあなたに無理矢理頷かせてしまったわ。ごめんなさい。確かにあの人は私にとっては最低の夫だった。辛いことばかりで何で結婚したんだろうって思ってた。…でも最高の父親だったわ。あなたたちを本当に愛してあなたたちのために頑張ってた。あの人との間にあなたたちが生まれてきてくれたこと、それだけは私にとって1番幸せなことだわ。私とあの人は元々他人で繋がったからまた他人に戻っただけ。でもね、あなたたちと私、あなたたちとあの人は紛れもない血の繋がった家族よ。どんなに離れても母親だしどんなに離れても父親だわ。だからたとえ一緒に住んでいなくても家族なのよ。だからあなたはいつだってあの人に会えるわ。あの人の娘なんだもの。少し家族の形は変わってしまったけどあなたが変わらなければ何も変わらない。だから、まだ私をあなたの母親でいさせて?あなたを心から愛してるの。どうか私からあなたを奪わないで。いなくならないで。お願いよ。」

そう言って私をきつく抱きしめる母を私もきつく抱きしめた。

声をあげて泣きじゃくる私はあの頃のように情けなかった。

滲んだ視界に映る母も涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

泣き腫らした瞼は重くその日は2人で毛布に包まれて並んで眠った。


ピーッピーッピーッ

甲高い機械音にハッとして鍋を見る。

インスタントラーメン様に沸かしたお湯はすっかり蒸発していた。

失敗した…一つため息を零して鍋にまた水を張る。

椅子に座ってぼーっと鍋を眺めてるとトンっトンっと黒い子猫が2匹膝に乗った。

遅れてやってきた大きな黒猫が私の足に擦り寄る。

まんまるとした黄色い目で見つめる3匹をわしゃわしゃと撫でまくり地面に下ろす。

家族がバラバラになった後、家に勝手に訪れた3匹は母の心を鷲掴みにしまた新しい家族となった。


足にまとわりつく3匹を避けながら沸騰した鍋に麺を入れる。

乾燥わかめを入れたまごを入れごま油を入れる。

最後に粉スープを入れてかき混ぜて器にうつす。

あの頃からの家族のお昼の定番メニュー。

その匂いに自然と腹は鳴り、さっそく食べようと居間へとご飯を運ぶ。

その匂いに釣られ3匹も後ろをついてまわりいざ食べようとすると机に乗り目の前に3匹並んで見つめる。

あまりにもそっくりなその様子に思わず吹き出し仕方ないので猫用のご飯を餌入れに出した。

一気にがっつく3匹にまた笑ってやっと私も食べ始める。


あの日、広くて落ち着かなったこの家も今はこの黒猫たちのおかげで程よく狭くて笑いの耐えない家になった。

この黒猫を見にたまに父が来たり兄が帰ってきたりする。

兄が帰ってきた時は母はにこにこと幸せそうにして兄を構い倒す。

嫌そうにする兄だがその口元が若干緩んでいることは母に黙っておいてあげよう。


幸せを呼ぶ黒猫か、そう言って撫でるとまんまるの黄色い目をさらにまるくしてキョトンとする。

同じ顔の3匹に間抜けヅラだなぁ、なんて言ってみる。

やっぱりキョトンとする彼らに笑いながらありがとうと頬ずりすれば、3匹はにゃん、ぴゃっ、みゃあとそれぞれ嫌がるように鳴くのだった。

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それでもきっと私は幸せだ。 しの @sinomatu

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