HIZIRI

@aiba_todome

第1話 井戸の前

肌を撫でる湿り気と、苔の匂いで目が覚めた。背中にざらついた感触。岩に寄りかかっているようだ。今、自分がどこにいるのか掴めない。

靄がかかっているような視界は緑に覆われている。地面は積もった落ち葉のおかげで、濡れた綿の上に座っているようだ。森の中だろうか。キャンプ場?


乾いた瞳をしばたかせると涙が染み通り、靄に輪郭が張り付いていく。間違いない。森だ。横に腕を伸ばす広葉樹が貪欲に光を浴びて、そのおこぼれが薄暗い地上に色を与えている。複雑に絡む植生に囲まれた広場の中央に座り込んでいた。


立ち上がり背骨を弓なりに反らす。それなりの時間寝ていたようで、体の中からぼきぼと音が聞こえた。

寄りかかっていたのは井戸のようだった。かつては屋根もあった痕跡もあるが、今や腐った木切れが転がっているだけだ。もう使われていない古井戸らしい。ひと月掃除していない台所の臭いがする。


井戸だ。そう、帰り道の側になぜか井戸があった。昨日まで空き地であったにも関わらず、前世紀からそこに据えられていたと主張するように、苔とつる草がしげる石組みの井戸。

よせばいいのに、どうしても気になって覗いてみると、そこだけ真夜中を写しているような暗い水の底に森が。そして水の底の空から無数の手が振ってきて。

 その後の記憶は今に跳ぶ。誘拐かもしれない。そう思っておこう、頭がおかしくなりそうだ。


 森を丸く切り抜いたような広場に、道が一本通っている。これもまた数年は人通りがないような荒れ具合だ。多分人里に続いているのだろうが、このさびれ方を見るに、住人はどれほどいるのか。いわゆる限界集落なのかもしれない。

 いや、井戸が使われなくなったからと言って人がいないと決まった訳じゃない。単に水道ができて放置された可能性もある。それに、ここで助けを待った所で日が沈む前に助けが来るとは考えにくい。薄っすらと浮かぶ影も、だいぶ伸びてきている。


 何よりお腹が空いた。陸上部所属育ちざかりの男子高校生は一食抜くと死ぬ。明日の朝までに枯死しているかもしれないのだ。

 学ランについた落ち葉を払う。幸い破れたりはしていない。猫じゃらしを踏み倒しながら、ズボンの裾の中に草が入り込まないように慎重に歩いて行く。




 森からはあっけないほど簡単に抜け出せた。空は太陽が店じまいの為に赤い帳を下ろしている最中で、小高い段々畑の上からは眠り始める山々がよく見える。帰った時にはすでに日の光が黄色がかっていたので、寝ていたのは一時間弱といったところか。


電波が来ているか確かるためにスマホを出そうとして気付く。ネットで電子書籍5000円分を買って、親に一週間使用を禁じられていた。

あれは仕方ない。シナプスがSFを欲していたのだ。


 眼下の村は、戦後から光速の50パーセントで動いていたような、まだ近代の香りを濃く残す集落だった。木の電柱がシロアリに食い荒らされてか根元から崩れ落ち、瓦葺きの屋根に身をうずめている。数えればいくつかは分かるだろうが、いちいち数えるのは面倒なくらいの、微妙な数の家屋に電機の息吹は無く。かつては整えられていただろう庭は、すすき野との境を失っていた。

 人の気配は、それ以前に安全な場所が見当たらない。酷く嫌な臭いがする。むしろ人がいないことに安心さえ覚えるような、粘ついた意識の残滓が水垢のようにこびりついている。


 それでも下りないわけにはいかない。まさか森の中で一夜を過ごす技能の持ち合わせはないし、こんな廃村だと野良犬の類がうろついていることだってあり得る。家の中が安心だとはとても言えないが、せめてドアの閉まる所で眠りたい。

 かつて農道だったであろう獣道をえっちらおっちら進み、倒れた電柱の門をくぐる。家の中を覗こうとしてみるが、めぼしい戸には板が打ち付けられ、小さな窓も新聞紙が貼られている。こうなると本当に戦時中のようだ。


「あの、あのー!すみませーん。どなたかいますかー?」


 半ば予想通り、答えは山風の唸りだけだ。よっぽど息を殺していなければ身じろぎの気配ぐらいしそうなものだが、ネズミの足音さえ聞こえない。

 黒い箱の中に手を突っ込むのは誰でもしり込みするだろう。僕もこの家のドアを開ける勇気はなかった。


 いくつかの家を見て回ったが、過ぎ去った少なくない年月にも屈することなく、開口部になりそうな穴は固く閉ざされて、髪の入りそうな隙間もない。しかも窓に貼ってある新聞紙と思っていたものが、細かい墨文字が書かれたお札だと気付いて、さらに入りたくなくなった。

 どうやら若者が街にでたからといった理由で廃されたわけではないらしい。特殊な、それもかなり剣呑な部類のがあったのだ。

 入り組んだ路地に追われるように、集落の中心に向かう。上から見た時には大きめの電柱のようなものが建っていた場所だ。その場所は家の密度が低く、無意識に止めていた息を大きく吐く。

 

 電柱と思っていたの柱には、鐘のようなものが取り付けてあった。独特なシルエットはむしろ銅鐸だろうか。変な宗教にかぶれていたのかもしれない。鐘を吊るす横木には、先端の銅鐸の後ろに太い縄が結び付けてあり、提灯のような黒っぽい物体がさがっている。

 最初は暗いからだと思っていたが、本当に炭のように黒い。でこぼこの多い球形で、縄が頑丈なのか風に揺られても落ちそうにはない。鐘の他になんであんなものを。訝しく思って近づく。

 すぐに提灯でないことは分かった。細部ははっきりしないが、長方形のものを折りたたんでいるようだ。炭のように黒いと思ったが、どうやら本当に炭らしい。かがり火かなにかの跡かもしれない。風がゆっくりと物体を回す。


 炭と目が合った。それには顔があった。

 気付いた時には駆けだしていた。息を止めて地団太を踏むように足を地に叩きつけ、胸の苦しさを無視して全力で柱から離れる。何時間も走っていたように感じるが、実際は一分もない間だったろう。

 まばらに建つ家の群れを抜け、田んぼのあぜ道を走る。口の中に独特の酸っぱい味が広がり、あふれ出た。土に手をつき、ほとんど消化された給食を用水路に流す。胃液がなくなってもしばらくえずいていた。

 

 人間だった。あるいはその成れの果てだった。手足を折られ、雑巾の様に丸くたたまれた後、針金で縛って焼かれたのだ。明らかにただ事ではない。あるいは犯罪者だったのか。それにしてもあそこまでやる必要性を確信していたのだとしたら正気ではない。

 この村はおかしい。いや、ここはそもそも日本なのか?不安が頭をもたげる。

生えている植物は見知ったものばかりだし、段々畑に田んぼ、その中に浮かぶように点在する家々は、日本の田舎の風景そのものだ。それが一層不気味に思える。

こんな事をしでかして話題にならないはずがない。テレビは連日特集を組んで現代社会の闇を喧伝するだろうし、新聞の三面記事にでかでかと村の写真が載せられ、ネットでは祭りが沸き起こってクソコラや動画が量産されてツイッタにアップされているはずだ。


もしかしすると村人は全員警察に連れて行かれたのか?それでも死体をあのままにするなんてあり得ない。夢か?悪い夢?

落ちくぼんだ空虚な、しかし確かな存在感を放っていた眼孔がそれを否定する。あれが幻であるものか。僕はあんなものを幻視できるほど感受性豊かじゃない。

ここがどこなのかわからない。だけどこの村にはもう一秒だっていたくはない。太陽の赤が直視できるほど遠くなり、夜がその長い髪をゆらめかせる。

ここから次の町までかかる時間。夜の山道の危険性。それらをひっくるめても足を止める気にはならなかった。大きく息を吸って前を向く。


そのはるか向こう。影絵となった山のふもとに、赤い点が見えた。自然の光が反射したものではない。人口の、ライトの光だ。


キュィイィィイイン……ギィィィヨォォォ


異様な、しかし少なくとも機械から発生した事は間違いない回転音。真っ赤に灯る丸い単眼。乗り物、バイクだ。人だ。


「わ、あ、おおーい!助けて、止まってー!」


胃酸に焼けた喉の痛みも忘れて走る。情けないことに涙まで浮かんできた。形振り構わず、夏の虫のように光に近寄る。

その色が血のような深紅であることも、エンジンの音とはとても思えない、錆びついた鋼がガラスを引っ掻く異音が聞こえてくることも、その時は意識にのぼらなかった。

あるいは心に余裕ができるまで近寄ったならば、新たな異形に怯えることもできたかもしれない。

しかし僕の脳はむしろ、後ろの村から届いた怪奇に引き寄せられた。


ばつん、どさり。

何かがちぎれた音。何かが落ちた音。何がちぎれたかは一瞬理解できなかった。だがあの村の中で、高いところから落ちるようなものは一つしか思い浮かばない。


脚がライフルで撃たれたように硬直する。あり得ない。どう考えても風でほどけるような結び方ではなかった。10年放っておいてもそのままぶら下がっていそうな状態だったはずなのに。

振り向かずに走る選択もあったが、成し遂げるのに必要な精神はもう残っていなかった。

名前も知らない何かに祈る。目を閉じて、うっすら周りの様子が見える程度に薄目を開けて振り返る。


あの高い柱。鐘と屍を下げていた、ここからでもよく見える柱。

そこには鐘だけがつられていた。

死体はなかった。


ギィィ"ガッ"ヨォォ"ダガッ"ォ……キャア"ドカカッ"ァァアァァ


回転の中に地を蹴る音が混じる。重々しい、根元的な戦慄を呼び起こす蹄鉄の遠吠え。

背中で来訪者の接近を感じながら、凍りついたように村を眺める。朽ちて傾く家の合間から、は滑るように姿を現した。黄昏に沈む四辻の奥から黒い塊が、底知れぬ闇を眼窩に埋めて。


「若人欲ぎょうおん知三世一ぎょうぎょう仏応観法界びょう性 一切唯心造南無十ぎょう方仏ぎょう。 南無十方法。 南ぎょう無十方僧」


 音が、風に流される波の呻きが届く。それは焼死体の奥底より這い上がり、口をついて大気へと飛び立っていく。震えは分子の結合を歪ませ、墨を落としたような染みを虚空に散らす。象形文字にも似た黒ずみの群れは、その形を構成する線を蟲の様に蠢かせて、一直線にこちらに群がる。


 「            三         切

    ぎょう         

                  切唯       ぎょう

            南無十

     観法   若       ぎょう   唯心造南


          十方僧         応観        界

                無十方僧

         ぎょう           ぎょう        方仏  

                  性                 」



 どこなんだ。どこなんだここは。呆けたように立ち尽くし、そんな場合でもないのに自分の立っている大地に思いをはせる。ここは日本じゃない。地球じゃない。どうやって帰ろう。入り口は開いているのか?

 染みが読み取れる距離まできた。漢字に近いが、ひどく崩してある上に先端が細かく振動している。落ち葉の下で這いずり回る蟲のようだ。

 それは指先にたどり着くと、皮膚の染みと化して、腕から首、耳へと上っていく。ささやくような振動が脳に伝わる。その前に。


 飛来した大太刀が躯の背骨を貫いた。

 どずん、と骨が土に縫い付けられる音と共に、体にへばりついていた何かがはがれる。緊張から解放された筋肉が、今度は無気力状態となって体を支えるのを止めた。へなへなと座り込んだ僕の目に、黒い紐に繋がれた大太刀が映りこむ。

 でかい。そんな小学生並みの感想しか出てこない。長さも刃渡り1mは優に越しているが、驚くべきはその重厚さ。ものを切断するための優美な細さなど薬にもしたくないというような、分厚く太い刀身。握ろうとしても指が回らないだろう。

 反りは強く三日月の形。分厚く丸い蛤刃はまぐりばは、敵を叩きのめすついでにぶった切ってやろうという設計思想を反映し、見栄えを良くする化粧研ぎも施されていない。

 それは日本刀の系譜を受け継いではいるが、その定義から大きく外れた道具だった。ミイラのような胸に刺さる太刀の、中ほどまで棟の部分に刃がつけられている。よく見れば鋸のような歯が刻んであり、突いた際に抜け難く、また力を籠めれば骨ごと切断できるようになっていた。


 胸の中心に金属の板を生やせば、通常の動物ならば死ぬか、そうでないまでも回復に長い時間を要する傷を負う。

しかし生物の理屈など燃えカスには通用しない。手足は結び付けられて癒着しているにもかかわらず、糸で吊り下げたように直立する。またも口を開き、あの声とも雑音ともつかない震えが流れだす。



  



「  業

                                業

業        業  

      業           南                 

               吽  南  無     業

             囉  蘇 嚕 無  薩

 業         摩  唵 娑 婆 蘇 蘇  婆

    業     三 咃 嚕 没 駄 訶 嚕 嚕 咃

         囉 姪 蘇 哆 南無喃 南 婆 婆 哆

          摩 多 耶 曼 梵 無 耶 耶 伽

           三  耶 婆 三 蘇 多  多       業   

             唵  多 嚕 咃  嚩

      業        帝  伽  慮

                  枳      業    

          業                          

業                     

              業             業


                                    」



滝の雫か、羽虫の群れのごとく溢れでた空気の染みは正円の形をとり、急激に半径を縮めた。


「えっええ!?って痛っいたたっ!」

耳の奥が針でかきまわされたように痛む。極限まで圧縮された疎密波によってびりびりと土が振動し、はねた砂つぶが腕で弾けた。白熱した空気が目を焼き、反射的に目を閉じる。

ほぼ同時に風が吹き荒れて砂埃がつむじを巻き、骨の髄まで通る圧が体を叩く。昔家族で行った演習で見た戦車の砲撃にそっくりだ。音を脳が聞くより速く衝撃が皮膚と内臓を走り、その後鼓膜が割れんばかりの炸裂音。


たまらず頭を抱えて腕で耳を覆い、亀のように丸まる。痺れる三半規管と、焼けついた網膜に浮かぶ何色ともつかない黒い光。

その中に閉じこもる覚悟を恐怖が上回った。風が吹き去ると、慌てて背筋を伸ばしてあたりを見回す。


焼死体はよくできた死体のようにその場に直立していた。死体らしくて実にいい。倒れていればなおよかった。

そして白熱球が着弾した地点。恐らくあの大太刀の所有者がいたであろう場所は、高炉の底のような有り様だった。


土中の有機物は、熱と水蒸気爆発の爆風によって分子単位で吹き散らされ、赤く融解したケイ素質がクレーターの縁にこびりついている。人間どころか乗用車程度なら蒸発してもおかしくはない。

火を吹くミイラがいた際の一般的な対応、すなわち呆然と爆撃跡を見る僕の耳に、きしむような音が届く。

幾千の歯車が噛み合い、回転が動力を伝達する虫のざわめきのような声。それは確かに生命の息吹だった。


びいん、と鳴弦の唸りがする。骸に刺さっている大太刀。その柄から伸びる紐が張る音だ。地面を煮解かす超高熱を浴びてなお、獲物を離さぬ牙のその先に。

煙が晴れる。馬の胴体に獣と蟲の中間のような脚。三叉の爪は大地を握り締め、金属の光沢を宿す黒と緑の体を巡るようにして注連縄しめなわが巻いてある。稲妻型の紙垂かみしでが、鎖帷子くさりかたびらのように幾重にも折り重なり、首無しのようにも見える頭からは、一つ目のライトが剥き出しの視神経にも似たケーブルに繋がれ、赤い光を煌々と照射していた。

その腹からは銀色の円盤が半分ほど飛び出して、旋盤のような甲高い回転音を発しながら地を擦る。生物と呼ぶにはあまりに奇抜。機械と言うにはあまりに不合理。それに跨る燻し銀の鎧。

異装の武者がこちらを見下ろしていた。

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