10-2 ヨーコのノート
文化祭が無事に終わってほっとしたのも束の間、俺は部長になったことにまだ慣れることもなく、毎日を過ごしていた。山羊部長のようにはなかなかなれない。
そんなある日、元書記の羊田洋子先輩がやってきて、俺はノートを手渡された。
おお、これは……。なんて達筆なんだ。麗しい文字列。美しいノートだ。
「私、書道の師範なのよ。本来、書で表現したいのね」
「いつもはタブレットに打ちこんでるのに」
「仕方ないのよ。書いても書いても端から山羊に食べられちゃうんだもの。しかも『洋子の書く字はおいしいなー』だなんてね」
羊田先輩は満更でもないようだったけど、資料が残らないのは困ると、現実を考えてタブレットに記録を残すことにして、家に帰ってから山羊部長に秘密で書を書いているらしい。
結婚したら困るんじゃない?
自分の中にすっと「結婚」という二文字が現れて俺は驚いた。人のことなら冷静に思い浮かべるんだな。
「山羊部長、二人の時は羊先輩のこと『洋子』って呼ぶんですね」
「そうね、私は『博さん』って、なぜか、さん付け」
「へぇー。羊先輩はすごく部長のことを立てますよね。同い年なのに」
「あの人のことは尊敬してるから」
臆面もなく、真顔で言われてもー。あははは。
「紗雪には? もうちゃんと言ってあげた?」
「何をですかっ?」
最近、周りがやたらと紗雪とのことを聞いてくるなぁ。
「女の子は割とそういうの大事らしいわよ。すき、とか、かわいいとか、言葉にしてもらうこと。きっと待ってるわよ」
「そんなもんですか。伝わってるような気もするんですけどね」
「そうね、周りから見たら丸わかりのことでも、本人には届いてないことってあるのよ」
そんなもんかな。え、丸わかりなのか、俺の気持ち。
「さて、もう行くわ」
「ありがとうございます」
「夏音が山羊になる必要はないのよ。夏音は夏音でいいの。ノートは困った時の参考にしてね」
羊先輩はそう言ってくれて、勝手に思っていた重荷が軽くなったような清々しい気分になった。
*
ノートをぱらぱらとめくっていたら、二人が各地の民謡を様々な文献を調べて記録してくれていることがわかった。更に、こうしたら面白いのではというアイデアも沢山書き込んである。すごいな、ほんとに民謡を愛してるんだな。
その中で、特に気になる演目があった。
秋の大会でその曲に挑戦するのはどうだろうか。曲目は「さんさ時雨」*22
扇を使った祝い唄だ。さんさとは何なのだろうか。雨の降る音なのか否か。はらはらと時雨が降る様子を扇で表す。
扇の扱いは難しい。表と裏があるから全員が同じ面を見せていないとすぐに間違いだとわかるし、回すタイミングを揃えるのも至難の業である。上手くいけば格好いいだろうが、下手なのも一目瞭然なのが悩みどころだ。
扇の練習をはじめて少し経ったある日、久しぶりに3年生の面々が部活の時間に様子を見に来てくれた。扇使いの上手いアゲハ蝶姉さんにみな食らいつくように指導を仰ぐ。活気があって、先輩たちの凄さが身にしみた。
先輩たちはそれぞれの進路に向かって歩んでいる。
山羊部長は大学に進んで、もっと民謡について詳しくなるんだそうだ。
羊田洋子先輩は同じ大学を受験して、ずっと彼の秘書的な存在でいるって決めたらしい。そんな傍ら、書についても研究していくの、と俺には小声で言った。
熊五郎先輩は北海道に帰って実家を継いで船に乗るか、今手伝ってる酒屋に就職するか、まだ悩んでいるらしい。
アゲハ蝶姉さんは働く必要はないけれど、何やらデザイン関係の学校に行くらしい。この人はやっぱりいつもひらひらしているのが似合うな。
二組のカップルがこれからどうなっていくのかも気になる。結婚についてもみんな考えているのだろうか。
めっちゃ異種間交流だよなぁ。俺たちも「たぬきつね」だが。
はっ、そんなことを思っていたら、突然あの夜のキスを思い出して、顔から火が出た。あれは、あれは、そんなんじゃない。あわてて邪念を振り払う。
オオカミさんは、一匹狼でしばらく自分探しをするらしい。あははは。
そしてみんな、口を揃えて「これからも踊り続ける!」と元気よく言っていた。
そう、民踊は、自分の生活の中で長く続けていく、そんな踊りなんだ。終わりなく続く、人生の華だ。
俺はこの先、何をしていこうか。漠然とだが、言葉の響きが気にかかる。そんなことをはじめて未来に繋げて考えている自分がいた。
<民謡ひとこと講座>
*22「さんさ時雨」宮城県民謡
婚礼の祝儀に唄われる祝い唄。
全国的に唄われていた小曲が奥州に残っていたという説もある。
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