8-4 後悔なんてできない


「ただいま」

 土間に入ってそう声を掛けると、去年より白髪がふえた母が、「夏音、おかえり」と笑顔で応えてくれた。

「おう、おかえり」

 足を悪くして引きずりながらもずっと農業を続けている父が、日に焼けた顔でこちらを振り返った。


 食卓には心をこめた手料理がたくさん並んでいる。自分の畑で採れた野菜中心の母の料理は滋味に富んでいる。ただ塩で漬けた野菜すらご馳走なんだ。

 昔母が東京に居た頃に知り合ったトリコさんは、それに惚れ込み、弟子と称して随分と伝授してもらったらしい。ここから届く野菜にトリコさんはいつも目を輝かせている。それを今俺たちが頂いているのは、なかなかに感慨深い連鎖だ。


「まずはこれね。お稲荷さん」

 真っ先に俺の好物の稲荷寿司を、ちょこんと小皿に載せて出してくれる母の愛嬌。

「昔は油揚げすきじゃなかったのにねぇ。しっとりしてるのがキライで、チーズのせてカリカリに焼いたら食べてたわよね」

 そういえばそうだったな。少年の夏音があぶらげピザと命名したものを、ふぅふぅしながらかじってる姿が浮かんだ。

「今は好物だものね。きつねさんの影響かしら。後できつねさんの家にもおすそ分け持って行ってね」

 どきっ。もうこの時点で、きつねのしっぽが出てしまいそうだ。


 ツネタが気に入っている東京の稲荷というのは、実は母さんがトリコさんに伝授したものだ。東京本来の色が濃くて甘辛いものより、見た目は薄めのきつね色で甘すぎない俺がすきな味だ。中にもおじゃこや胡麻、野沢菜なんかが入っている。

 お隣からもらってるものと同じなのに、東京というフィルターがかかって、ツネタは喜んでるんだ。いつも「いいなぁ、こんおじちゃん、都会に行ってて」とあこがれているらしい。


「ところで、お隣の紗雪ちゃんとはどうなの? 結婚するの?」

 俺は口に入れた稲荷を吹き出しそうになった。

「な、な、なぜそうなる……」 

 しどろもどろになっていると、追い打ちをかけるように母は言った。

「ぐずぐずしてると、他の男に取られちゃうわよ」

 その時、俺の脳裏にはフェネックやら雪豹やら、他の男たちがやれ先に並んでいる光景がちらついた。なぜか山羊部長まで……。

「思い立ったらあっという間に決めちゃうでしょ、あの子は」


 確かにそうだな。

 ぽわんとみえて、肝心な決断は早いのが紗雪だ。あの時も一人でもう変身していた。俺に言ったら断らないのがわかってて、もう覚悟を決めていた。

 二人で人間として生きていきましょう。


 時々、考えるんだ。

 本当にこの人たちは、俺のことを息子だと信じて疑ってないのだろうか。微塵もそんな素振りはみせないけれど、本当は真実に気づいていて、それでも気づかぬ振りをしているのではないか。息子が存在しないより、今の方がいい。そう思って。

 そんなこと、俺には確かめることもできないけれど、ふとそう思うことがある。



 やはりここにいると、思いがよりこんがらがってしまって、なかなか眠れなかった。 

 次の日の朝、食欲がなくなった俺を気遣って、母は枸杞クコの実をのせた粥を作ってくれた。俺はその粥を匙で掬いながら、心ごとあたたまるのを感じていた。

 そして畳の上で寝転がっているうちに、すーっと意識が遠のいていった。


 カナカナカナとひぐらしの鳴く音に、いつしか夕刻になってしまったのを知る。

 見上げた月が揺れていた。山の端に夕陽が落ちていく。

「さあ、ゆっくりお湯につかっていらっしゃい」

 母が手拭いを渡してくれたので、俺は庭の小さな露天風呂に入ることにした。

 ちゃぷん、と体をやさしく包む湯につかりながら、虫の音に耳を澄ませた。


 庭を眺めていると、隣の家の木の上に登っていく紗雪が見えた。

 ああ、炊いた香りを持っている。あいつなりの「星の薫物ほしのたきもの」なんだろう。

 それは陰暦の七夕の際、終夜香をたいて星をまつることを言う。この世とあの世を結びたいと願ってやっていることなんだろうな。もう取り戻せないけれど、どんなに悔恨しても、きっと俺たちはあの時に戻れば同じ道を歩む。


 香りに導かれるように、天に煙が流れていく。これは「荷葉かよう」だろうか。蓮の香りに似せたものと言われる爽やかな夏の香り。薄桃色の花片が舞うように吸い寄せられていく様が見えるようだ。


 風呂から上がって、俺も木を登っていって、紗雪の隣に腰掛けた。

「おい、大丈夫か」

 俺が聞いた途端、涙でいっぱいの紗雪が抱きついてきたので、危うく木から落ちそうになった。あわててグッと体に力を込めて、思い切りあいつを抱きしめた。

「夏音、石鹸の匂い」

「ああ、風呂上がりだからな」


 俺の胸に顔をうずめている紗雪のせいだ。

 急にドキンとさせるせいだよ。

 気づいたら俺は、紗雪のあごを持ち上げて、くちづけていた。

 すこし涙の味のするキス。でも甘くてやわらかいくちびるの感触。


 目をまんまるくした紗雪は、ポンって音と共にたぬきに戻った。

 顔は真っ赤だし、しっぽから煙が上がってたから、焦ってつかまえて落ちないように膝の上に載せた。

 そうして人間の姿のままの俺と、たぬきの紗雪は、星を眺めながら夏の一夜を過ごした。


「なあ、つゆ草の花、二人はずっと手に持っていたな」

「うん、大切そうにね」

 あの日のつゆ草の花を思い浮かべる。

 まるで青いハートの中に黄色い蝶を囲っているようだった。

 黄色の点が光って蛍が飛ぶように、命の灯りが舞いながら空に消えていく。

 つゆ草を恨むこともできず、きっと二人はいつまでも捨てることもできないのだろう。


 ここでは草の匂いが甘くて、むせ返るようだ。都会では絶対に存在しないこの匂いが俺は愛しくてたまらない。

 でも、遠く離れたからそう感じるような気もして、いつしか自分たちの居場所がなくなっていくことを知る。



 俺たちは帰省前と今を擦り合わせて、少し大人に近づいたマイナーチェンジの変身をして、東京への列車に乗った。たくさんの土産を持たされて。

 俺たちがしたことが正解か不正解かだなんて、今更考えても答えは出ない。後戻りもできないことを実感しながら今年も短い日々を過ごした。


 いつまで生きられるかわからない訳だし、ただ目の前を大切にするしかない。

 夏の月にまた確かめ合った感情を胸に秘めて、俺たちはまたいつもの日常に戻って行く。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る