2 下町なのに上野とは此は如何に

2-1 動かぬ長老


 私と夏音は毎週土曜の午後、近くの自治会館に出かけます。

 居候させてもらっているトリコさんが指導する「上野舞会」に参加するために。

 修行です、常に修行。ここには人生の先輩たちがたくさん集って、舞を伝承し、向上させている訳です。


 その指先まで柔らかい動き。ピンとシャンとした背中の美しさ。重さを感じさせない、かといって軽く浮いてはいない足さばき。

 目の前の動きを真似することで学んでいくのです。ただ見てるより、踊って体感することが何よりも大切。


 今日も眼光するどい長老、その名も橋広光ハシビロコウ師匠が、キラーンと目を光らせているので、輪踊りをしながら目の前を通過する時、めっちゃ金長します。

 いや、訂正。緊張するですー。たぬきだからって、ついつい金長だぬきになっちゃった! 

 よく居酒屋の表で酒瓶持ってる信楽焼のたぬきの気分! ピキーン! 見られてるとカチコチに動きが固くなっちゃうのです。


 同じ動作をしているつもりなのに、圧倒的に違うのは何故かしら。

 その手は、その表情は、いつから身につくのだろうか。


 私と夏音は、いつも必死で習得しようとするけれど、言葉では言い表せない何かを、自分のものにするのは難しいのです。経験なのか、センスなのか。


 自分らしさがあればそれでよい。

 楽しく踊ることがいちばんだ。


 そこにいるみんなは、口を揃えてそう言ってくれるから、焦らずに。

 そうなんだよね。振りは揃っているけど、個性は各々にあるの。

 まずは、トリコさんの踊りに集中すること。こんな踊りをしてみたい、その目標がすぐ目の前にいてくれるのですから。


 はじめての踊り合わせの日は、振りを覚えるだけでいっぱいいっぱいで、手と足がバラバラなの。

 脳フル回転だけど、カチっと合う瞬間があって、心の中に湧いた泉がシャワシャワと流れ出ていくように体に伝達しはじめると、音がきちんと聞こえてくるのです。

 その時、もうこの時間を離したくないくらい、私は楽しいのです。


 汗をふきふき休憩時間。水分を補給して、うちわでパタパタと風を扇ぐ。

「ねぇ夏音、さっきから師匠動かないね。寝ちゃったのかな」

「まるでハシビロコウの彫像だな。固まってる」

「あ、口が微妙に動いてるよ」

「ほんとだ。皿の金つば角切りが半分減ってる」

 師匠、甘党なんだよね。金つば八分割にしてもらって、ちょっとずつ食べてるんだ。なかなか口に入れる瞬間が見られないんだよなぁ。忍者みたい。



 今日のテーマは、手拭てぬぐい使い。

 タオルくらいの大きさの手拭いを端から六つ折りにして、はちまきのように細長くします。

 首にかけたり、肩にかけたり。そしてやおら取り出して、振り回したりもするの。


「こら、紗雪。それじゃ、新体操のリボン巻きじゃ。くるくるしすぎ」

 あ、わかりました? 脳内ではちらっと色っぽくレオタード着てたんですよぉ?

 橋広光師匠の目がちと呆れてる気がするにゃ。 


『おこさぶし』(*2)がかかる。

 ぶしは武士じゃなく節、かつお節の節ね。そう、ふしねっ。え、そんなの知ってるって? 人間さんは凄いなぁ。


 おこさって、何なのさ。これがよくはわからないのです。

「おこさでおこさで ほんとだネー」という歌詞が出てくるのですが、おこさの意味は不明なの。でも、どこかコミカルな情景が似合います。


 ちなみに、その土地で踊られている振りが、そのまま東京で踊られるとは限らないのです。地域から伝承されてくる際に、その土地土地で変わってくるのか、変えてしまうのか、バージョン違いがたくさん出来てくるのですね。


 この界隈で踊られている振りが、隣町ではまったく違う振付なんてこともあるのです。ほら、伝言ゲームって知ってるでしょう? 最初に伝えた言葉が、最後の人に辿り着く頃には、まったく違う文章になってしまうみたいな。いかに人から人に正確に伝えるのが難しいことかわかりますよね。


 踊りによっては、「正調博多節」のように「正調」と冠に付けて、これこそが地元で受け継がれてきたと、区別する場合があります。 

 民謡は発祥がいつかわからないものが多いから、誰が決めているのか定かではないけれど、そこには地元の強いプライドを感じます。

 これが本物ですよという主張でしょうか。或いは、これをアレンジされる行く末に対しての身構えなのか。未来に向かって変わっていくものへの警戒なのか。

 ま、そんな難しいことはたぬきにはわからないので、置いておこっと。


 すっと手拭いを外して両手でくるっと巻く。

 その後首に戻す時に、すっと美しく襟元にかけるのが難しい。

 浴衣の襟じゃなくて、直接首にかけてしまってハッとする。


 高齢になってあまり見本を見せなくなったという噂のハシビロコウ長老だけど、手をすっと挙げただけで、空気が変わります。

 筋が入ってささくれだった手には、キリリと気品があって。

 手拭を両手でピンと引っ張っただけで、指揮者みたいに決まって、まるでカラヤンの横顔みたい。あ、ちょっと盛っちゃったかな。ふぅ、でもカッコイイ。


 ありがとうございました。礼をして、片付けます。心をこめて。




<民謡ひとこと講座>

*2「おこさ節」 秋田県民謡

  手拭い踊りを挙げましたが、ほっかむりして踊ってるのも見かけました。




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