第9話

 今日は部屋でお茶をしましょう、とさくらが言うので、俺は彼女が紅茶を用意してくれている間、彼女の仕事場で小さな丸テーブルをセットしていた。


 準備が済んで暇になると、何を見てもいいと言っていたから、本棚から彼女のスケッチ帳を何冊か取り出した。


ページを開くと鮮やかな花が描かれている。花、花、花、町の野良猫。行き来する通行人。ページを繰る内に、途中で手が止まった。


・ ・・聖司。


上半身裸で、こちらを振り向く聖司を皮切りに、五,六枚彼のスケッチがあった。


初めてここで、さくらの部屋で、聖司の存在を感じた。彼女の世界で。

心がざわめきたつ。


ふとさくらが背後に立っているのに気付き、何故だか俺は慌てた。慌てながらも、必死に平静を装う。

「・・・聖司、描いたんだ」

ええ、と言って、さくらは探るように俺を見る。

「曜は、駄目だって言ったでしょう」

「・・・まあ、そうだけど」

 

 まあ、そうだけど。


 ひたすらじっとしているなんて俺には信じられない。何の目的もなく。話しながらならまだできそうだと思ったが、彼女はそれも駄目だと言うのだ。


「聖司向きだよな」

 いつまでもぼーっとしていても平気な、あいつ向きの。

 一枚、二枚、と絵をめくった。

 横を向いている聖司、上を向いている聖司。後ろ。こちらを向いている聖司。


 整った顔。長い手足。

 これはモデル向きだよな、見た目も体質的にも。

 そう自分で思ってむっとする。

 外見だったら俺だって負けてないんだ。ただ、違いだよな、個性の。


 だけど本当にあいつらしい、呆けた表情だな。こんな顔じゃ見た目が良くてもすぐモデル廃業だ。


 そう俺は少し笑ったが__心のざわめきはどうしても静まってくれない。それに、他にも何かが引っかかった。


「やけに多いんだな」


 何が、と後ろから覗いていたさくらが言う。

「聖司の絵」

「ええ、仕事で使おうと思って。高校生の男の子なんか、そうそう描けるものじゃないもの」

「でも、記録は残さないんだろ」

さくらは、ええ、仕事が終わったら処分するわ、とさらりと答えた。


 彼女は誰と付き合う時でも記録に残る事を嫌う。写真はもちろん、手紙やメールでさえもこまめに消す。


 だから彼女の部屋には見事に男の痕跡がない。

部屋にある物から彼女のアクセサリーや服まで男にもらった的な趣味の物は一切ない。

 昔、又は今の恋人を知られたくないから、と言う事ではなく、彼女が恋愛に関しては‘残る事’を信じていないから、らしい。


「どうせ、いずれは終わってしまうのにね」


 以前、そう言った彼女に、俺は絶望的に悲しくなりながら反論した。

「何だってそうだろう」

 彼女は、儚げに笑い、

「恋愛が一番早いのよ」

 と言った。


 何故だろう。

 俺を信じて、と言いたくなる。

 今までの男が言ったのかもしれない。そしてそいつは去って行ったのかもしれないけれど。

 俺を信じて、と。


 

 駄目だ。


何かがすっきりしない。体の中を毒が巡るように、精神がとげとげしくなっていく。

どうしたの、と言うさくらの落ち着いた言葉に、俺は思わずかっとなった。


「でも__、聖司を描くくらいだったら!! 」


 後が続かなかった。

 聖司を、描くくらいなら。


 俺を。


 彼女は、寂しそうな顔をして静かに告げた。

「別に、隠していたわけじゃないわ。聞かれなかったから、答えなかっただけ」


 そう。俺は聞きたくなかったのだ。さくらの口から、聖司の事なんて__。


だから彼女といる時は聖司の話はした事がない。さくらからも彼の話をした事はない。


 彼女はいつも潔い。聖司がいた痕跡を隠しはしない。ただ自ら話さないだけなのだ。


 さくらはいつも正しい。


 正しくないのは__


「ごめん」

 俺は傍にいるさくらを抱き寄せた。


「ごめん」

華奢な体を強く、強く抱きしめてゆく。彼女の頭に自分の顔を押し付けて。彼女の柔らかな細い髪は甘い匂いがした。


 曜、ちょっと痛いわ。さくらがつぶやく。俺は力を緩めないまま、


「俺・・・」

 つい言いかけて、辞めた。


これは言ってはいけないのだ。言えばこの関係は破綻する。


 さくらは腕の中でもぞもぞと動いた。探るように俺の顔を見上げる。彼女に分からないようにそっとため息をついた。


「俺、・・・好きなんだ」

うん、とさくらが腕の中で頷く気配がした。

「好きなんだ」

 うん、私もよ。さくらが優しく言うので、俺は危うく涙が出そうになった。


 違う。

 きっと、さくらと俺の‘好き’は違う。


 でも。例えそうだとしても。

 この思いが、


さくらの、俺の、二人の、思いが錯覚だとしても。


 先程言いかけた言葉を改めて飲み込む。


 俺を見ていて。頼むから。

俺といる時は聖司の事は考えないで。

俺だけを見ていて欲しいんだ。


 何で、何でこんなに寂しいのだろう。二人でいるのに。

ここには二人しかいないのに。

何故寂しいのだろう。


 しばらくして、ようやく俺はさくらから身を離した。

「ごめん」

 いいのよ、とさくらは微笑む。


 沈黙と気まずさから抜け出す為、俺はぎこちなく、開いたままのスケッチ帳をめくった。

そして俺はその時、ようやくその絵の違和感に気付いた。


聖司は。彼の視線は。


どのスケッチも、全くさくらの方を見てはいなかった。


もし俺がさくらにスケッチしてもらったら、絶対彼女の方を見る。

嬉しくて。真剣に自分を見る彼女の視線を捕らえたくて。


どこを、見ていたのだろう。あいつは。

思わず笑みがこぼれた。


「さくら、これ見た?聖司、ぼけた顔して、どこ見てるんだろうな」


すると、彼女はたった今それに気が付いたかのように、食い入るようにスケッチを眺めた。真剣な顔でページをめくり、やがてぽつりと


「・・・そうね」

 とつぶやいた。



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