第5話 「お巡りさん、こっちです」


 大学院の学生だった頃の話です。当時はまだ規制がゆるくて、生活費を稼ぐためのアルバイトが許可されておりました。

 とある診療所で、土曜日の外来勤務をしていた時のことです。

 一人の若い看護師さんが来て、こっそり言いました。


「あの。今、受付に若い男の人が来て……『知らない人にどこかに連れて行かれて、薬品を注射された。気分が悪い。〇赤病院へ行って点滴してもらったけど、まだしんどい』って言って、点滴を希望しているんですが――」

 

 ……何ですか? それは。


 ご本人を呼ぶと、二十代半ばくらいの、素直そうな青年です。伺うと、確かに、看護師さんが言った通りのことを繰り返します。ただ、酔っているみたいに呂律が回らず、そわそわして落ち着きがなく、つっこんだことを訊いても答えられない様子でした。

 まあ、不審だけど、いいか。と思い、点滴をしようとすると、再び看護師さんがやってきました。


「絶対に、変ですよ。腕に注射の痕がいっぱいあるんです。あれは、〇赤のナース(看護師)の仕事じゃない。プロは、あんなところに刺しませんよ」


 ……それは、つまり、そういうこと(注1)ですよねえ。


 点滴の準備をするから待っていて、と言いながら受付に確認をすると、彼は保険証を持参していました(注2)。

 他の患者様の診療を続けつつ、そっと警察に電話をしてもらい、これこれこういう人物がいる。どうしたら良いか?――と訊ねると、「そちらへすぐ行きます」とのお返事が。

 どうするのかなあ?と思っていたら、警察の方は、覆面パトカーと私服で来て下さいました。三人です。

 他の患者様に気づかれないよう裏口からやってきて、身分証をチラッと見せ、「その人物はどこにいます?」と(囁き声でした)。

「あそこです」と私たちが答えると、待合に居る彼を挟むように、二人で両側からそっと近づき、腕に触れて一言


「ちょっと、いいかな?」


 極めて静かに、穏やかに、裏口から外へ連れて行って下さいました。身柄確保ですね。


「ご協力ありがとうございました」


と、ご丁寧にあいさつして下さったので、「あの人はどうなるんです?」と訊くと、


「本人の言う通り、他人に拉致されて薬物を注射されたのなら、被害者です。でも、自分で打っていたり、少しでも所持していたら、逮捕です。まあ、多くの場合、後者ですね」


とのこと。

 彼の保険証を手に、来たとき同様、静かに速やかに去って行かれました。わずか十分ほどの間のことです。

 他の患者様と医療機関に一切迷惑をかけず、冷静な対応。素晴らしかったです。





********************************************************************************

(注1)そういうこと

 覚せい剤の自己注射痕だろうと思います。


(注2)保険証を持参

 酔っているような雰囲気といい、クスリのせいで正常な判断が出来なくなっていたのだろうと思います。わざわざ、身元が判るものを持ってくるとは……。


 この内容は、守秘義務に違反するとは考えていません。私は彼の名前を知りませんし、病院にはカルテもありません。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る