第一章 “S”ENGAN
時は4時間前に遡り、この記念すべき一日はここが始まり。男が目を覚ました時はすでに日も高い午前11時。痛む頭に吐き気をこらえてさあ迎え酒酒と冷蔵庫探るもやはり中身は何もなし。賞味期限いつかもわからぬ料理酒飲んで一歩歩いて流しに吐き出す体たらく。仕事の誘いがあるじゃなし、さて今日は何をするかと携帯開いてぽちぽちやってると、返ってきたのは色よい返事、本日夕方より楽しく遊ばないかと謎めいたその文面は、起きたばかりの男の股間熱くするのに申し分なく、心躍らせていそいそと返信。送信ボタン押してこれで良し、さて時間までどう暇をつぶそうか。この世に焦らぬプー太郎ほど気の楽な輩もいない。財布開いて一つ頷き、よしパチスロにでも繰り出すかと、土産物もって女を訪れる皮算用に顔も緩み、その脳内には来月の金繰りのことなどすでに忘却の彼方に飛んでいた。
意気揚々と服着替え、ばしゃばしゃと顔洗い、さて髭でも剃ろうと電気シェーバー取り出すが、どういったことかうんともすんとも動きを見せぬ。俺の剛毛に恐れをなしたか貧弱者めと妄言吐きつつあちこち弄りまわすその姿はもはや痴呆めいて、ついには匙を投げ引き出しから剃刀引っ張り出した。石鹸泡立ていざ勝負と顔にひたり押し当てた瞬間!
「いてえ!」
ズバシャ!!いきなり皮膚一枚裂き顔面に潜り込む刃先!恐慌と痛みに騒ぎつつ、なおも肉に埋もれようと沈む剃刀掴み直し、えいやとばかりに引っこ抜けば途端溢れる鮮血。口元、のど、腹まで濡らすその液体に、せっかく着替えた一張羅がもう駄目になってしまったと明後日の思考繰り広げるも、痛み紛れるはずもなくじんじんと広がり男はすでに涙目。切った張ったでハラワタまき散らしていたあの時代はもはや遠く、血の色が珍しくなった今日この頃、特に男連中は日常その赤色を目にする機会もほとんどなく、幼少期の擦り傷か病院での採血ぐらいしか眺めたことのない箱入りっぷりも珍しいこととは言えない。
ひとまず止血とそばにあったタオルひっつかみ傷口に押し付けるもつかの間。
「いてえ!」
洗面所に落ちていたはずの剃刀が突然跳ね上がり、男の腕に食い込んだ!AAAGHHH!わが身に映る事態は認めがたく、しかしその痛みは紛れもなく現実、体勢整える余裕もなく腕切り落とされちゃたまらぬと刃先掴んで今度はくず入れに投げ込み、ふた閉めてほっと一息。男の頭に分別の2文字はない。顔面押さえつけ洗面所から逃げ帰り、さて傷の手当てと目論むもろくな道具があるわけじゃなし、仕方がないとティッシュ畳んでテープで張り付け、血が垂れてこないだけでもありがたいと新しい上着探すその脳内は、先ほどの怪奇現象について疑問に思うこともなく、酒が残っていたせいで手が滑ってしまったと無理に自分納得させて済まそうとする態度。十数分かけようやく血も止まり、部屋にいるのも気味悪く、朝の悪い空気を吹き飛ばさんと玄関から転がり出る。
後々思い返すにこの判断、実によく勘が冴え、あのまま部屋でぼんやりしていたら、くず入れのふた開け飛び出した剃刀に五臓六腑も切り裂かれ、ゆくは浄玻璃の鏡に映される運命に違いない。想像するだに恐ろしいと震える未来の己もいざ知らず歩く午前11時半、一日はまだ遥か長く、それはそのまま男の受難の長さでもあった。
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