第8話 ハリウッド・クレムリン

 ――龍一が生きてきた十数年間でも、これほど乗り心地の良い車に揺られるのは初めてだった。暑すぎもせず寒すぎもせず、埃臭くも機械臭くもない適度な空調。身を沈めると余りの柔らかさに眠ってしまいそうな上等の座席。かえって落ち着かない。

「相良様、どちらへ向かいましょうか?」ハンドルを握る青年――滝川が丁重な態度で問いかけてくる。

「タクシーじゃないんだ。適当にそこらへんを流して、降ろしてくれ」

「かしこまりました」滝川は頷き、ハンドルを切った。背後をちらりと見る。この先の人生、一生縁がないと思っていたあの高級マンションがゆっくりと遠ざかっていく。あの少女の住む家が。

 なぜだろう――それが妙に心細く、後ろめたい気分になった。


 この大げさな送迎も、最初は断ろうとしたのだが。

『君の助けなんて借りなくても大丈夫だ』

『大丈夫? へえ。インストラクターは敵に捕らえられた。スポンサーとの連絡は付かない。隠れ家は残らず敵に押さえられた上、ほうぼうに監視の目が光ってる。あなたの「大丈夫」とやらの根拠、一つでもいいから挙げてみてくれない?』

 結局折れた。


「そうだ、忘れるところでした。相良様、お嬢様から贈り物を預っています」

「俺に?」

 滝川が手元のパネルを操作すると、眼前のシートの一部が開き、細長い小箱が現れた。ご丁寧にリボンまでかけてある。

「あのマンションのカードキーです」

「これをあの娘が?」

「はい」

 龍一は笑い飛ばそうとして、失敗した。

「どういうことなんだろう。俺とおたくんとこのお嬢様は、そんな親しい間柄でもなかったと思うんだが」

「私にはわかりかねます」青年のハンドルさばきに澱みはない。「私はお嬢様よりそれを預っただけですので。必ず渡すように、とも言われました」

「受け取れないよ」

「では相良様、あなたから直接お嬢様にお返しください。私では対処しかねます」その口調はやはり丁重そのもので、龍一に対する微塵の不信も悪意も感じられなかった。

「滝川さん、だったか。俺に言わせればあなたもずいぶんと謎めいた人だよ」

「私がですか?」

「そうだよ。あのお嬢様のお目付け役なんだろう? 俺がその立場なら近寄る男は片っ端から尻を蹴上げてやるね。あなたはお嬢様の人生に介入するにふさわしくない方です、って」

 ハンドルを澱みなく操作しながら青年は顔だけ向けて少し笑った、ように見えた。角度のせいでそう見えただけかも知れない。「お嬢様がお嫌いですか。好悪の問題でしたら、私には何とも言えません」

「そういう問題じゃない」なんとなくむずがゆい気分になって、龍一は尻をずらした。

「ごもっともな疑問です。あなたのご職業が就職斡旋サイトに乗っていないようなものであることを考えれば尚更だ」滝川は少し黙ってから、口を開いた。「まず、お嬢様はあなたのことを嫌ってはおりません。あの方は我が儘の類を滅多に口になさいませんが、その分難しいところもあるのです」

「なるほどお目付け役のあなたの言うことだ、俺が口を挟む余地はない。でも、それなら大事なお嬢様の火遊びはやめさせろよ」

 青年は突然口をつぐんだ。それもただ黙っただけではない、龍一でさえ何かまずいことを言ったかな、という気分になる黙り様だ。

「私からも質問させてください、相良様。13年前……と言われて何のことかわかりますか?」

「……13年前?」

 いぶかしげな龍一の声に、滝川はどこか安堵したように、一つ息を吐いた。「……そうですか。ではあなたは、純粋にお嬢様の身を案じてらっしゃるんですね」

「何のことだ?」

「いずれわかります。これ以上は私の口からは申し上げられません。お嬢様がいないこの場では尚更」龍一は青年の横顔を注視したが、怜悧な容貌に変化はない。「失礼ながら、あなたのことは調べさせていただきました。……確か、あの事件に関しては正当防衛が認められたはずですが」

「そういうことにはなっているな。少なくとも世間では」思わず冷たい声が出た。――正当防衛。別の惑星の言語を呟いているような気分だ。

 そうでないことを知っているのは、龍一だけだった。

「……わかりました。これ以上は私は何も申し上げません。ただ、相良様」滝川は少し言葉を切って、それから続けた。「願わくば、もっとあなたに早く会いたかった。お嬢様も、そして私も」

 龍一はひどく困惑した。これほど混じりけのない感謝と好意を向けられたのは何年振りだろう、と思った。理由のわからない居心地の悪さが襲ってきた。

「……もういい。このへんで停めてくれ」

「本当にここで?何もありませんが」

「だからいいんだよ」

 ろくに舗装もされていない砂利道に龍一は降り立つ。車が走り出す寸前、青年が制帽の庇を上げて挨拶するのが見えた。

 次のバスまで一時間近くある無人のバス停に龍一は腰を下ろした。溜め息を一つ吐き、スマートフォンを取り出す。

 本当はこんなことをやっている場合ではないのだ。崇は捕らえられ、百合子とは連絡が取れない――いや、敵の狙いを考えれば迂闊に百合子と接触するのも考えものだった。何より時間がない――崇は龍一より遥かにしぶとい男だが、人間ではある。何をされようと折れない男とは断言できない。

 加えて龍一自身の身の安全もある。隠れながら崇を救出し、百合子との通信を回復させる――考えただけで眩暈がしそうだ。

 あいつを巻き込むのは気が引けるんだが、思いながら溜め息を吐いて龍一は通話機能を使う。数秒と経たずに相手が出た。予め待機していたか、さもなければ龍一からの通話とわかった途端に飛びついたとしか思えないような早さだ。

「今、話せるか? ――実は困ったことになっていてな、知恵を借りたい。どこで待ち合わせる? ――〈ハリウッド・クレムリン〉? ――いや、別に文句があるわけじゃないんだが――本当にあそこでいいのか?」


 電飾のどぎつさとデザインの奇抜さを売りにしすぎてかえって没個性的になっているような繁華街の一画においても、その建物は実によく目立っていた。鮮やかを通り越して毒々しくすらある紅と碧と藍のタイルでびっしりと飾られた玉葱屋根の寺院、というだけでも、どうにも尋常ではない。

 加えて建物表面の液晶ディスプレイでは肌も露わな精霊ルサールカや蛙そっくりの水妖ヴォジャノーイが艶めかしく蠢き回り、魔女バーバヤーガが不気味に笑いかけてくる。無意味なまでに重厚な玄関では〈Hollywood Kremlin〉のホロが、電気代が心配になる光量で輝いているのだ。

 玉葱屋根のさらに頂点でこれみよがしに輝く『赤い星』を見つめながら、龍一はこの建物の設計者は誰に喧嘩を売っているのか、としみじみ思った。誰かではなく皆に売っているのかも知れないが。もちろん彼がここに来たのはそれを考察するためでなく、もっと直截的な理由からである。

 実際、役に立つ場所ではある――どころか、ないと困る。見るたびに頭痛がしてくるような建物であることも確かだが。

 肩をすくめ、ドアの両脇に日光月光菩薩像よろしく立っている中央アジア出身らしき警備員たちに頷きかけ、建物に入る。入った途端、耳をつんざく大音量で労働歌が流れ出し、龍一は早くも回れ右をしたくなった。

 壁も柱も床の絨毯も頭が痛くなるほどの「赤」で統一された店内。行き交うウェイトレスたちは胸元をやけに強調したミニスカートのメイド服を着用しており、うち何人かは露骨に目配せしてきた。龍一は赤面した。不本意なことに、望月崇に数度連れてこられたおかげですっかり顔を覚えられているのだ。

「お帰りなさいませ、同志タヴァリーシ。……来てくれたのは嬉しいけど、もう少し頻繁に来てくれてもよかったんじゃない、龍一?」

 一際素晴らしいプロポーションの娘が、一礼した後で龍一に笑いかけてくる。

「悪いね。こちらもいろいろあったんだよ、ソーニャ」

「やだソーニャなんて他人行儀な。ソーネチカって呼んでよ」

「悪かったソーニャ」

 娘はこの朴念仁が、という顔つきに一瞬なった。

「繁盛しているみたいだな」

「おかげさまでね。オーナーは半年以内に2号店を出す予定。すごい張り切ってる」「それは『上』と『下』どっちでだい?」

「どっちもよ。……そう言えば、あのおじさんは今日いないのね。珍しい」

 龍一はもう少しで舌打ちしそうになった。「そうだ、今日は急ぎの用で来たんだ。スンシンは来てるか?」

「坊ちゃまなら30分前に。あなたやあの坊ちゃまみたいなお客様ばっかりならいいんだけど。気前はいいし紳士だし」

「それはどうも」

 ソーニャに案内され、龍一は個室に入った。こざっぱりした若者が、メイドの娘にチョコレートムースを食べさせてもらっている最中だった。

 部屋に入ってきた龍一を見てさすがに若者はばつの悪そうな顔をした。「ごめん。ちょっと待たせてもらった」

「……謝ることはないだろ。呼び出したのは俺だし、約束の時間の二十分前だ」小柄で可愛らしいメイドが恥じ入った様子で出ていくと、龍一は腰を下ろした。

「この店のコンセプトの『ソ連風メイド喫茶』って何だよ。『ロシア風』じゃないのか?」

「それが売りだからね」若者――イ・スンシンは大きく頷いた。

「俺、メイド喫茶ってよく知らないんだが、まるでくつろげないぞ」

「くつろげる人はくつろげると思うけど」

「そういや、客が爺さんばっかりだ」

「きっと、昔よく爆弾を作ってた人たちだったんだね」スンシンは楽しげに呟いたが、洒落になってないぞと龍一は思った。「まあ、君の好みには合わないかもしれないけど、僕は昔からキッチュなものに目がないんだ。僕自身がキッチュだからね」

 なるほど、坊ちゃまには数少ない息抜きの場所ってことなんだろうか。実際、彼ほど父親の存在を重たく感じる立場もそうそうはないだろう。

「珍しいじゃないか、君の方から僕を呼び出すなんて。そうだ、君も何か頼みなよ。レアチーズとベイクドチーズどっちにする?」若者はメニューを示した。ポロシャツにジーンズというシンプルな服装と相まって実に嫌味のない仕草だった。店のメイドたちに人気があるのももっともだ。

 実際、いい奴だと思う。多少人の心の機微に鈍いからといってつれない態度を取るのが申し訳ないくらいだ。彼の父親が何者かを考えなければ、実に気の置けな い親友になっただろう。――いや、と龍一は思い直す。彼の父親がささやかな勤め人だったら、自分たちはただすれ違っていたに違いない。

 龍一はメニューをそっと押しやった。「すまんが、時間がない。聞きたいことがあるんだ、スンシン。キム・テシクが日本に来ている」

 スンシンはチョコレートムースを一口頬張ったまま、目を丸くした。「あのキム・テシクがかい?」

「たぶん、そのキム・テシクがだ。有名人みたいだな」

「有名も何も……仁川撤退戦や鴨緑江渡河作戦の英雄だよ。そうか、彼がこの国にか……」スンシンは何とも言えない複雑な表情になった。「父さんは喜ばないと思うけどね。18年前に自分を半島から追い出した一味だもの」

「……まあ、君の父上はそうだろうな」

 スポーツジムや映画産業に進出著しいイルハングループ会長であり、在日コミュニティに隠然たる影響力を持つスンシンの父親が、半島からの客――それも招かれざる客について知らないはずはない。

「彼は今どこに?」

「日本の企業舎弟と組んでいるらしい。食うためには働く必要があるからな」

「テシクが日本のヤクザと手を、か」スンシンは男にしては長い睫毛を伏せた。敵とは言え、同胞が犯罪者に身を落としていると聞いて愉快な気分にはならない だろう。「でも、父は何も言ってなかったけど」

「息子には尚更言わないだろ」龍一は呆れた。やはりこの坊っちゃんはどこかずれている。

「でもおかしな話だな……君が嘘や冗談を言っているとは思わないけど、その人は本当にテシクなのかな?」

「と言うと?」

「キム・テシクは死んでいるはずなんだ。もう十年ぐらい前に、自宅前で頭部を撃たれたらしい。犯人は旧北朝鮮軍の元狙撃手だってさ」

「 何だと?」

 頭を巡らせる。崇が、あるいは百合子がそんな話をしただろうか?そもそも自分たちが見た、そして自分たちを陥れたのは、本当にキム・テシクだったのか? 死んだというのは本当にテシク本人なのか、それとも死んだという情報が誤りなのか。いや――そんな大事な情報、なぜあの二人が黙っていた?

 もしかすると――テシク達の追跡以外に、そちらを気にするべきなのかも知れない。「……スンシン。お父上にコンタクトを取れるか?」

「いいよ。3日後に中央区で新しいホテルのレセプションがあるから、枠を一人分開けておく。何、キャンセルは必ず出るし、あの手のパーティで誰が誰と入れ替わろうと気にしないさ。父さんも君のことは気に入っているし、会えれば喜ぶよ」

「助かる」龍一は頭を下げた。

 それから数分、龍一とスンシンは世間話をして別れた。勘定は払うと言ったが、スンシンはがんとして自分が払うと譲らなかった。先に店を出る、と言い個室を出たが、途中で向きを変えて店内の別の区画に向かう。BGMが『タチャンカ』に切り替わり、壁のCGが突進する機関銃馬車を映し出す。

 傍らの通路から出てきたソーニャが脇に寄り添った。「坊ちゃまに教えてあげれば? 君の欲しがるリスクとスリルは足元にある、って」龍一は鼻を鳴らし た。

「悪い冗談だ。俺が今日まで生きてきたのは、リスクとスリルを自分から求めなかったからだ。それがわかるまで、あいつには教えない」

「はいはいハードボイルドハードボイルド」ソーニャは肩をすくめ、銀の皿を差し出した。「オーナーからです」

 皿に乗せられた紙片に目を走らせ、龍一は即座にそれを掌で握り潰した。――未真名港、インドネシア国籍の貨物船〈ゴールデン・スパロー〉号。

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