間章 夢魔

 体内時計から計算して、少なくとも数日は経過した。おそらくは一週間は越えていない。時間の間隔を完全に喪失していないのは、不幸中の幸いだった。

 拷問の苦痛ではなく、拷問を行う者たちの手際の悪さに、崇は辟易していた。その手のプロなら崇から必要な情報をさっさと引き出した揚句――どんなに頑張っても最後には自白剤が使われるのなら、痛い思いをするだけ損というものだ――処刑人たちに崇を引き渡していただろう。

 崇が生き永らえているのは彼らが素人だからではあったが、それに付き合うのもなかなか一苦労だった。大げさに痛がって悲鳴を上げていれば最初のうちは満足してくれたのだが、そのうちだんだん飽きてくる。直接的な痛みよりも彼らが思いつきで加えてくる新しい拷問の方が、よほど苦痛だった。

 何しろ、拷問するごろつきどもからして何を聞き出せばいいのかもわからないような有様なのだ。情報を引き出すという目的すらない拷問など拷問ではない。もちろん門真はそれを百も承知でごろつきどもを当てがったのだろう。つまり、これは見せしめなのだ。

 救出されなければ、崇はいずれ細切れにされることだろう。だが、崇が考えていたことは死の恐怖ではなかった。「約束」についてだった。それにかろうじてすがりつくことでどうにか正気を保てた、とも言える。


 起きたまえ。


 耳ではなく、脳に直接響くような声に、崇は血糊で塞がった瞼を苦労して開けた。脇腹には畳針のような太く長い針が何本も突き刺さり、爪を剥がされた上に釘を打ち込まれていない指は両手両足を含めてない。血で染まり、歪んだ視界に、室内履きのような華奢な靴がかろうじて映った。

 崇は眼を瞬いた。いくら朦朧としていても、足音や部屋のドアが開く音は聞こえなかったはずだが――だが、確かにその青年は当然のような顔で崇の目の前に立っていた。スーツもネクタイも靴も白。茶色の髪と茶色の瞳、そして薄桃色の唇だけが唯一の色彩だった。

 今までの奴とは毛色が違うな。新手の拷問官か。


 無理もない発想だけど、僕は彼らの一味じゃないよ、望月崇君。


 声どころか唇も動かないのに、青年は即座に答えを返してきた。不思議な声だった。耳ではなく頭蓋の内に直接響くような明瞭な声。

 高塔百合子が俺たち以外の「暴力装置」を動かしたって話も聞かんが。


 僕は高塔家当主の回し者ではないんだ、残念ながらね。だから君たちの仲間でもない。


 崇はまじまじと青年を見た。ひょっとしたらこいつは苦痛のあまり、俺の脳が産み出した幻覚ではないかと。


 ああ、でも僕と君の話を邪魔する者はいないよ。ここは通常と時間の流れが違う空間だからね。


 だったら助けろよ。


 話をしに来ただけで、君を助けに来たわけじゃないんだ。助けたいのはやまやまなんだけど、それはそれで別の問題が発生するんだ。僕も君も相良龍一も、誰も幸せにならない別の問題がね。


 死にかけの奴を目の前に屁理屈こねんな。で、話って何だよ。


 話というか……ただ、会ってみたくてね。君のことはずいぶん前から見ていたから。


 何だよ、融通の効かねえ幻覚だな。切られて刺されてあっちこっち切り取られた奴に、話がしたかっただと?


 放っておけば手を下すまでもなく嬲り殺される男の台詞にしてはなかなか気が利いているね。大丈夫、君は死なないよ。今はまだね。


 お前、誰だ?


 このまま帰るのも何だから、一つだけいいこと教えてあげる。「約束」は果たされるよ。その後に君がどうするか、そしてどうなるか、それが僕の目下一番の関心事だからね。


 青年は消えた。出現した時と同様に音もなく、瞬いた瞼が開くその瞬間に。夢魔の類だったのか、と崇は思った。

 扉の向こうから幾つかの足音が聞こえてくる。おそらくは拷問器具を満載したワゴンを転がす音も。苦痛に満ちた一日の始まりだ。

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