第6話 鉄の顎

 ――ガスマスクの奥から、瞬きの極端に少ない漆黒の瞳が龍一を見据えている。

 龍一は、テシクの足運びに注目した。微動だにしないように見えて、2本の電撃警棒スタンロッドを構えたまま蝸牛が這うようにじりじりと位置を変えつつある。龍一も、それに合わせてゆっくりと向きを変える。

(『半島』の出ならテコンドー、と決まったわけでもないんだろうが……)

 武器術――それもカリやシラットといった、東南アジアの武術にも見える。まずいことに今回は潜入のため、武器になりそうな装備はまったく保有していない。あったとしても金属製のトンファーで電撃警棒を受けるのは自殺行為だ――はたと思い当たる。こいつ、俺の武器を封じるつもりで?

 何の前触れもなく、テシクが音もなく走った。サーバー群と身長よりも高いラックで区切られた狭いスペースを、水が流れるような静けさと速さで、一瞬にして龍一の眼前まで移動する。身をのけぞらせた龍一の鼻先を、唸りを立てて電撃警棒の先端が通り過ぎる。

 間髪入れず、反対側の電撃警棒が突き込まれてくる。しかも今度は電撃のおまけつきだった。青白いアークと、ヂリヂリヂリ、という放電音が龍一の目と耳に届く。視認していてさえ、バランスを崩すぎりぎりまで身をよじらなければかわせない速さと鋭さだった。

(危ねえ……!)

 全身から冷や汗がどっと噴き出てくる――それを意識したのは、体勢を立て直した後だったが。対照的に、テシクは初撃を繰り出す前とまるで同じ姿勢で2本の電撃警棒を構えている。微かな肩の上下以外、微動だにしていない。

 迸るアークと放電音が実際以上に厄介だった。攻撃範囲外であっても、あの音と光を見ただけで全身が警戒してしまう。

(厄介だな……電撃警棒の特性を知り尽くしてやがる)

 素手対武器というハンデ以上に、素手相手に油断した様子など微塵もない静けさと戦意が何よりも脅威だった。まずはこの男に対処しなければならない。崇を助ける前に。ここを脱出する前に。

 周囲の警備員たちは、透明な防弾シールドと警棒を構えたまま龍一とテシクの戦いを見守っている。こちらは龍一を逃がさないための「壁」か。一斉に襲いかかってこないのは不幸中の幸いだが――いや、いざとなればテシクの命令一下、容赦なく介入してくるに違いない。

 しかし……テシクを叩きのめし警備員たちを突破したとしてもどこへ逃げる? このオフィスそのものが罠である以上、逃げ場はないのだ。

【龍一】

 ヘッドセットに夏姫の声が届いた。【時間を稼いで。何とかしてあげる。返事はしなくていいわ――聞こえていたら2回叩いて】

 声に先ほどまでの余裕はない。何をするつもりかはわからないが、彼女は本気で何かを起こそうとしている。

 逡巡はあったが、短かった。だから龍一は指先でヘッドセットを2回、叩いた。

【……ありがとう】

 テシクがガスマスクの奥で怪訝そうな顔をしたのがわかったが、さすがに会話の内容までは聞き取れなかっただろう。ひとまず、やることは決まった。

 今度動くのは龍一の方が先だった。懐から抜き出した小瓶の蓋を親指で弾き飛ばし、腕の一振りで中の液体を振り撒いた。

「……!」

 床に落ちた飛沫がもうもうと白煙を立ち上らせる。専用の容器に入れなければ、容器そのものを溶解させかねない強酸性の液体だ。

 耐震用にサーバーラックを床に固定していたビスが、コーヒーに入れた角砂糖より脆く崩れていく。手近なラックに走り寄り、思い切り蹴った。

 巨大なラックがぐらりと傾き、一瞬後、轟音とともに積み木よろしくサーバーを巻き添えにしながら倒れ込む。周囲の警備員たちもさすがに一歩後じさった。

(まずは……反応を見てみるか!)

 それもテシクではなく「壁」の強度をだ。

 龍一の巨体が自分たちの方へ突進してくるのを見て警備員たちは動揺したが、それも一瞬のことだった。古代ローマの密集隊形ファランクスのごとく、防弾シールドを並べて強固な「壁」を形成する。人というより精密機械に近い、よく訓練された動きだ。

 だが、それこそが龍一の狙っていたものだった。

「…………せっ!」

 一飛びで警備員たちの盾を踏み台に跳躍し、ラックを駆け上がり、天井近くまで飛び上がってテシクに蹴りかかる。落下のスピード、プラス龍一の全体重を乗せた渾身の飛び蹴りだ。

 だがテシクは慌てず、交差した腕でその蹴りを捉え足首をつかんで投げた。

「!」

 とっさに手を床に着き受け身は取れたが、テシクが足首をつかんだまま関節を決めに入る。力一杯足を跳ね上げて後方へ回転受け身を取り、距離を離す。対するテシクは元の位置でこちらを見据えている。

 背骨に沿って冷たい汗が流れ落ちた――強敵だ。しかも、時間をかければかけるほど龍一たちには不利になる。その気になれば相手はいくらでも戦力を投入できるのだ。

(夏姫にああは言ったが……)

 手を抜ける相手ではない。腹を決めた。

 足元に転がっている紐状のもの――ちぎれた電源コードを取り、放った。うまい具合に電撃警棒の先端に絡まる。突進しながらテシクの顎を肘打ちで跳ね上げ、ブロックされるのも構わず背後に回り込んで一気に締めた。

(電気を流せるもんなら流してみろ!)

 コードに電流が流れようと流れまいと、テシクもただでは済まないだろう。

 龍一は必死だったが、テシクもまた必死だった。既に亀裂の入っていたサーバーラックのガラスが、2人分の体当たりを受けて今度こそ粉々に砕け散る。頭上から細かく砕けたガラスの粉末が降り注ぐ中、2人は声にならない唸りを上げながら揉み合った。重く鋭い肘打ちを数度腹に食らうが、腹筋を締めてどうにか耐える。こちらに突進してきそうな素振りを見せる警備員たちに、テシクの身体を盾にして牽制する。逃げられるかもしれない――

 ――ふと、龍一はテシクの左手から電撃警棒が消えているのに気づいた。警棒の端にはスリングが装着されているから、床に落としたわけではない。では今テシクが手にしているのは?

 龍一の眼前に突き出された、小さなスプレーがその答えだった。

「があっ……!?」

 装着していたスペックスのおかげで直撃は免れたが、右目の視界が完全に塗り潰された。鼻の奥でレモン汁と唐辛子を混ぜたような凄まじい刺激臭が弾けた。涙と鼻水が床面にぼたぼたと滴り落ちる。咳が止まらない。

 歪んだ視界に、咳き込みながらテシクが電撃警棒を支えに起き上がるのが辛うじて見えた。その背後から防弾シールドを構えてじりじりと近づく警備員たちの姿も。

 テシクたちの目的が「生け捕り」であることを完全に忘れていた。いつも龍一たちが好んで使う非致死性武器を、そっくりそのままやり返されたというわけだ。

 体勢を立て直そうにも、膝が笑う。身体が言うことを聞かない――

 次の瞬間、轟音とともに外気がどっと流れ込んできた。近づきつつあった警備員たちが明らかに動揺した様子を見せる。

 顔を上げた龍一は目を疑った。窓を閉ざしていたシャッターを濡れ紙のように貫通し、巨大な鉄塊が窓ガラスを突き破ってサーバールームに侵入してきている。

 ジッ、と微かな音を立ててヘッドセットから夏姫の声が流れ出した。【龍一、お待たせ! それに乗って逃げて!】

 乗るって何にだ、どうにか顔をぬぐった龍一は目を疑った。室内に突入してきた鉄塊はビル建築用の鉄骨で、ぶら下げているのは工事用クレーンだ。

(クレーンをハッキングしたのか!)

【ほら龍一、走って! 怖いお兄さんたちにお尻をはたかれたいの⁉】

 今ばかりは夏姫の調子に乗った口調が頼もしかった。蜘蛛の糸にぶら下がるカンダタの心境で、龍一は倒れたラックを踏み台に鉄骨へ飛び移った。

 最近のクレーンはセンサージャイロの働きにより風向や急激な重量バランスの変化にも対応して揺れを最小にする機能が搭載されているらしい。とは言え、地上数十メートルの高みでゆっくりと移動する鉄骨にしがみついて離さないでいるのは、それなり以上の努力が必要だった。下があまり見えないのは幸いだったかも知れない。

 顔を何度も拭っているうちに、どうにか刺激臭が薄らいできた。

「まだ……望月さんが……」

【……あの人までは手が回らないわ】夏姫の口調がわずかに苦くなった。【今は脱出に専念して】

 その通りだった。【まずは近くのビルに降ろすからちょっと待っててね。私、クレーンゲームはあんまりやったことがないのよ……あれ?】

 不吉な言葉に加え、急にクレーンが止まると冷静ではいられない。「おい、今日ばかりはそういう冗談はやめてくれよ」

【私じゃないわ! ……うそ、これ……ジャミングが……】

 夏姫の声が途切れた。反射的に振り返った龍一は、窓枠を蹴ったテシクが鉄骨に飛び移ってくるのを見てしまった。

 重く、早い蹴りが飛んできた。腕を交差させてどうにか受けたが、そのまま背から鉄骨に叩きつけられてしまう。倒れた喉元にテシクの肘がぐいぐいと食い込んでくる。

「……お前一人の芸当じゃないな。ハッカーの支援か」

 こいつも同じぐらいいかれてやがる――ビルからそう離れていないとは言え、飛距離が足りなければ数十メートル下へ真っ逆さまなのだから、大した度胸には違いない。

 こいつに捕まるわけにはいかない――崇だけでなく自分まで捕らわれてはいけない。百合子を売るわけにはいかない。

 一瞬、全ての力を全身から抜いた。虚を突かれたテシクの顔面に、最後の力を振り絞って頭突きを食らわせた。

 さすがに効いたか、テシクがのけぞる。だがその反動で、仰向けになっていた龍一の背がセンサージャイロでもどうにもならないほど大きく鉄骨から滑った。

「あ」

 恐怖を感じる間もなく、龍一は数十メートル下の路面へ真っ逆さまに落ちていった。


 車内の後部座席で固唾を飲んで見守っていた瀬川夏姫は、運転手の滝川が展開した救命用バルーンの中央に、石のように落下してきた龍一の身体がすっぽりと包まれるのを見て思わずガッツポーズを取った。「よっしゃ! ……滝川、よくやったわ!」

「私を褒めるよりもご自身のお役目をお願いします!」通行人たちが呆気に取られて見守る中、龍一の巨体をどうにか担ぎ上げた滝川が大いに苦労しながら歩み寄ってくる。「このままですと私たちは有名人ですよ。それも悪い意味でのね!」

「まーかせて!」

 夏姫は得意満面で宙に指を躍らせた――数台のタブレットと十数基以上のスマートフォンを装着した専用ラックに向けて。

 視線感知ウェアとモーションセンサーが連動し、全てのタブレットとスマートフォンの画面上に、明らかに正規のOSではありえない図形と文字列を映し出した。

「物見高いのは人の常――でも今だけは、ちょっと私たちに目をつぶっていてね?」

 街灯や信号機上の監視カメラ群が一斉にそっぽを向き、龍一たちにスマートフォンを向けて撮影しようとしていた通行人たちのスマートフォンを赤と黒に彩られた『規制済みCENSORED』の文字で埋め尽くした。

「さあ滝川、長居は無用よ! 車出して!」

「……私はまだまだ甘かったですよ。今夜一晩だけで幾つの軽犯罪及び重犯罪をおかしたことやら」

 制帽を目深にかぶり直し、お仕着せの制服を着た運転手の青年は深々と溜め息を吐く。「わかっておいででしょうね? これで私たちもお尋ね者ですよ」

 わかってるわ、と夏姫は真剣な顔で頷く。「これはまだまだ、ただのよ」


 急速に遠ざかっていく車を、一対の目が見守っていた。

「……かくして、彼と彼女は出会う。出会ってしまう」

 スーツも白、ネクタイも靴も白。ただ髪と目の色だけが茶色い。夜風に服の裾をはためかせながら、地上数百メートルの高みに浮かぶ白づくめの青年は夢見るように呟く。

「これからだよ。君たちの煉獄はこれから始まる。相良龍一、そして瀬川夏姫」


 ――望月崇は目を覚ました。肌が粟立つほど肌寒い。身を起こそうとして、崇は自分の四肢が革バンドで戒められていることに気づく。しかも首を無理やり動かしてみると、シャツとトランクス一枚という格好だ。そうか、俺捕まったんだっけ、と思い出す。

 やたらと白々と見える蛍光灯の光が、独房めいて殺風景なコンクリートの室内を照らしている。床はタイル張り、部屋の隅に排水口があって水を流せるようになっている。なるほどそういう用途の部屋か、と納得する。

 カメラで崇の目覚めに気づいたのだろう、ドアが開き、複数の男たちが入ってきた。見覚えのある顔だった――そしてできれば今会いたくない顔だった。門真裕、そしてキム・テシク。その後ろからさらに入ってくる、無個性な割りにひどく陰鬱な目の男たち。

 門真は品定めするような目つきで長椅子に縛り付けられた崇を睨め回していたが、やがて口を開いた。酷薄な顔立ちにふさわしい冷ややかな声だった。「よくやった……と言いたいところだが、小僧の方は逃がしたとなると高得点は付けにくいな、テシク先生」

「それについては返す言葉がない。俺のミスだ」淡々とした声でテシクが返す。龍一との一戦によるものだろう、端正な顔の目尻が青黒く腫れている。

「あの少年を拾って走り去った車だが、心当たりはないのか? プロにしてはこいつらとの連携がまるでなってない……かと言って、素人にしては手慣れすぎている」

「ふん……こいつらがバックアップを用意しているという話は聞かないな。把握している限りでは実働部隊はこの2人だけのはずだ」門真はいぶかしげな顔になったが、まあいい、と呟いた。「それはともかく、うちのどもじゃ百年経ってもこいつらを捕まえるのは無理だろう。よくやった」

「評価はあの少年も捕らえてからにしてもらおう」テシクの声はあくまで淡々としている。

 門真は頷く。「そうだな。別室であんたの『生徒』が待機中だ」

「ああ、すぐ出発する。敵は時間だ」部屋を出る寸前テシクは崇を一瞥したが、その目にさほどの熱はなかった。

「なるほどねえ。あのセンセイが一番の罠だったわけか」

「お前らは用心深い。なまじの罠じゃ小便を引っかけられるのが落ちだろうってな、『セキュリティ・コンサルタント』御自らが囮を買って出たってわけさ」門真は一歩近づき、崇を見下ろした。女受けのよさそうな白面が、影の中に隠れて黒々として見えた。

「たった2人でよくもまあ暴れ回ってくれたものだよ……表と言わず裏と言わず、上得意に頭を下げて回るだけでいくらかかったと思う? 最終的な後始末まで含めたら被害総額は数十億単位だ。金儲けのついでに牙を抜かれたような奴らが、お前らに小突きまわされるのを見るのは愉快だったがな」

「そいつはいいや。俺は数十億の男か。じゃあ次に目指すのは数十兆の男かな……」

 門真は何も言わず腕時計を外して背後の男に渡すと、裏拳で崇の横面を張り飛ばした。唇の端から生温かい血が滴り落ちる感触。

「本当なら、あの小僧も捕らえてから始めたいところだ。お互いの言い分を突き合わせてチェックしないと、すぐ煙に巻かれそうだからな」男の一人が、ワゴンに幾つもの道具を乗せて室内に入ってきた。ペンチやスパナ、それにゴムホースといった、それだけなら何の変哲もない日用雑貨。

 厳重に戒められた崇の指先を、ペンチががっちりと咥え込んだ。

「だがテシク先生が小僧を捕らえてくるまでの間、お前を遊ばせておくのも時間がもったいない。それに、拷問されないとお前も『捕らわれの身』という実感が湧かないだろう?」

 門真は別に面白くもなさそうな顔でペンチに力を込めた。直接の苦痛以上に、右手親指の爪が剥がれるめりめりという感触が不愉快だった。

 ゴミでも捨てるようにして血まみれの爪が放り投げられる。門真がこちらの表情を覗き込んでくる。「どうだ、少しは『実感』が湧いてきたか?」

 舌が軟体動物のように膨れ上がっている気がしたが、声は出た。「そのペンチ……後でよく拭いとけよ。お前のケツ穴とかでさ」

 門真がまたペンチに力を込めた。人差し指の爪が剥げた。

 崇は傍らを向き、タイル張りの床に思い切り嘔吐した。勝手に喉の奥からげらげらと笑い声があふれ出した。「いいぞ! それで? いつバーナーで俺のタマをこんがり炙ってくれるんだ?」

「少なくとも両手両足の爪を全部剥いでからだな」門真の口調にはユーモアの欠片もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る