第5話 半島から来た男
粗いモノクロの顔写真と大半を黒く塗り潰された書面が、そのA4ほどの書類の全てだった。手渡しながら、崇は大真面目な顔で言った。「出所は聞くなよ。俺もご当主も困るからな」
龍一は頷いた――別に崇や百合子を困らせたくはない。
「キム・テシク。今回の俺たちの
冴えない男だな、というのが第一印象だった。目鼻立ちはそれほど悪くないのだが、証明写真特有ののっぺりした光源のおかげでひどく平板な顔に見える。
「半島動乱時に14歳? 軍人上がりにしちゃ若すぎないか」
「おかしかないんだよ」崇は苦い顔で言った。「そいつはその歳で戦争帰りなんだ」
龍一は思わず書類から顔を上げた。「……少年兵だったのか」
「北の将軍様の近衛だった、ってんだから優秀ではあったんだろう。その優秀さが災いしたんだろうがな」
龍一は溜め息を吐きたくなった。「半島動乱」で使われなかった兵器はNBC兵器のみであったことを思い出したのだ。
確かに、その後の人生が順調ならこの国まで流れてくる必要もなかっただろう。龍一とさほど年齢が離れていない、まだ青年と言っていい若い男の半生について、あまりリアルに想像したくはなかった。
「……で、今はその前歴を活かして裏社会のセキュリティ・コンサルタントだって? 大出世じゃないか」
「この街じゃ肩書に『元』の付く奴なんて履いて捨てるほどいるからな」
「確かに肩書だけ見れば俺たちの商売敵だが、時間がなくなったってのはどうしてだ? 早急に対処する必要ができたのか」
崇は口をへの字に曲げた。面白くない話をする前兆だ。
「……お前も薄々感づいてはいるだろうが、ご当主が雇っている請負人はお前や俺だけじゃない。もっといる。情報を集める奴、装備の調達やメンテナンスを行う奴、俺たちの痕跡を消すことだけを行う奴、まあいろいろだ。先日、そういった『請負人』たちのネットワークが大規模な手入れを受けた。このテシクって男一人の指揮下でだ。大半はどうにか逃げおおせたが、下手を打って捕まった奴もいる。そいつは死ぬ前に、結構な量の泥を吐かされちまった。ご当主と請負人たちを間接的に支援するダミー会社の内実も含めた情報をだ」
確かに深刻な事態ではあると思った。百合子まで「血と泥と反吐の海」に叩き込まれる可能性が出てくる、と考えるだけで背筋が寒くなる。
「幸い、俺たちはツキに見放されてはいないらしい。
俺たちと同じく、テシクにも雇い主がいる。畦倉会の
正直なところ、枝とは言え東日本最大の指定暴力団に属する男の名を聞いて動揺がなかったとは言えない。だが百合子の安否が関わっているとなれば話は別だった。「話が見えてきたよ。そのデータをあるところからないところへ移せばいいんだな」
崇はにやりと笑った。「それだけじゃない。今回は二段構えだ――秘密兵器がある。こっちへ来い」
手招きされて行った先には、黒光りする金属製のキャスター付きケースが置かれていた。ステッカーの類は一切貼られていないが、
この「仕事」を始めてから多少物騒な道具を見せられたぐらいでは驚きもしなくなったが、中から出てきたものを見た時は別だった。龍一は思わず後じさりしていた。
「……EMP爆弾か。どうやって手に入れたんだ」
「聞くなって言っただろう」崇は得意げだった。「これで勝ち目が見えてきたんじゃないのか?」
確かに勝ち目は見えてきたが、今度は
「そんな顔すんな。ご当主からの許可は得てある。俺だって大量殺戮のお先棒はかつぎたかねえよ」
我ながら現金だが、そう言われてほっとしたのも確かだった。崇が説明する。
「こいつは軍の特殊部隊が都市ゲリラの拠点を攻撃する時に使うから、その分、威力が及ぶ範囲も限定されてる」どうやってそんなものを、というのはそれこそ聞かない方がよさそうだ。「『炸裂』させる地点も焦点を合わせられるから、極端な話、直上や直下の階には被害を及ぼさず、目標のフロアだけを狙い撃ちすることも不可能じゃない。ただし正確な高度・座標を測定する必要がある。つまり、直接侵入しろってことだ」
「データのハードコピーを手に入れた後、位置を送信すればいいんだな」
「そういうことだ」
明確な目標ができると(あの小生意気な娘のせいで)もやもやしていた気分もだいぶ払底されてきた。今はそれに集中しようと思った――幾つかの面倒事は後回しだ。
幾つかの準備の後で未真名市行政区のL生命ビルまでワゴンで来た時には、既に日が傾き始めていた。テシクはこのビルの7階と8階を情報分析・保安機器メンテナンス、及び警備代行会社のオフィスとして使っているという。半島動乱の際には少年兵だった男が行きたかった場所は本当にそこなのか、龍一は聞いてみたい気がしたが、それこそ感傷というものだろう。
運転席からビルを一瞥した崇が舌打ちする。「思ったよりでかいな」
龍一は頷いた。警備会社のオフィスが警戒厳重なのはもちろん――普通の警備会社ならともかく、裏社会のそれでは「医者の不養生」では済まされないだろう――ビル自体の警備システムもある。侵入するにはそれなりに知恵を働かせる必要がありそうだ。
「考えてもしょうがねえ、始めるぞ」崇の逡巡は一瞬のことだった。「お前が一人で侵入しろ。俺はお前の合図を待って、車を地下駐車場に入れる。お前がハードコピーを入手し、脱出したところで爆破する。行け」
不安はもちろんあったが、マンパワーに限りがある以上異論はなかった。龍一は頷いてワゴンを降りた。
龍一が足を踏み入れたのはL生命ビルの正面玄関――ではなく、通りを挟んで反対側に位置する高級百貨店の作業員用出入口だった。偽造された証明証を警備員に渡すと、彼はほとんど一瞥すらせずやる気のなさそうな顔でカードリーダーにそれを通した。
夕暮れの百貨店はそれにふさわしい賑わいを見せていた。フィットネスフロアを抜けても、裕福そうな中年の婦人も、ストレス発散に汗を流す会社帰りのOLも、行き交う人々の誰も、黄色いヘルメットに作業服を着てカートを押す龍一に目を止めない。透明人間になった気分だ。
機械室を抜け、関係者以外立入禁止の屋上に出た。人影はなく、空調を含む幾つもの大型機械が低く唸りを上げている。空は茜色に輝き、切れ切れの雲が紅く染まっている。数秒だけ、龍一はその光景に見入った。
カートから必要な「道具」を取り出していると、懐のスマートフォンが振動した。
崇だろうか。しかし、何らかのアクシデントがないかぎりスマートフォンからの連絡はしない手はずになっていたはずだが。急いで取り出した龍一は、通話相手が「非通知」になっていたのを見てさらに胡乱な顔になった。
「……もしもし?」
【ハロー。作業は順調?】
聞き間違えるはずもない、あの少女の声だった。
猛然と怒りが込み上げてきたのは、屋上の床を蹴って室外機の物陰へ走り込んでからだった。周辺のビルに目を走らせる。人影は――ない。だが確実に観察されているという予感はあった。「何の用だ。第一、この番号をどうやって知った」
【ちょっと、何て声出すのよ。そんな声色で女の子を口説くつもり?】
「まぜっかえすな。何のつもりか知らないが、俺の仕事の邪魔だけはしないでくれ」
彼女の声が1オクターブ低くなった。【へえ。
ぐっと喉が鳴るのを堪えなければならなかった。こちらが足元に広げている『道具』の内訳まで見抜かれている。
【落ち着いてちょうだい。通報するつもりなら、とっくにしてるわ】
「じゃあ、何なんだよ」
【喧嘩腰でないと話ができないの?】大仰な溜め息。【まあいいわ。こんな調子で漫才やってたら日が暮れちゃうものね】
もうとっくに暮れてるだろ、と突っ込もうとしてやめた。本当に話が進まなくなる。
【用件は一つ、この前の話の続きよ。私も仲間に入れて】
「いい加減にしろ。幼稚園のお遊戯じゃないんだぞ。第一、検討するまでもない馬鹿話だ」
口を尖らせた顔が容易に想像できる声が返る。【まあひどい。やる気があって、『仕事』をこなせるだけの腕も見せたってのに、あなたったらそれを『馬鹿話』の一言で済ませるつもりなのね。何てわからんちんのぼけなすなのかしら。お姉さん、悲しくって涙も出ないわよ】
耳元で物凄い勢いでまくしたてられ、龍一は本気で頭が痛くなってきた。良家の子女にしちゃ、罵倒の語彙が豊富すぎやしないか。「勘弁してくれ……わかった、話は聞くから後にしてくれ。今は本当に集中する必要があるし、それだって100%成功するとは限らないんだ」
彼女の声が少し大人しくなった。【……わかったわ。あなたを邪魔するのは本意じゃないしね。それじゃ、終わったら話をしましょう。回線は保持しといて】
「ああ」通話を切ると、龍一はすぐさま番号を「着信拒否」にした。付き合ってられるか。
テシクのオフィスを襲うのに正面玄関から入るなどもちろん論外だったが、だからと言って他の侵入ルートが容易いというわけでもなかった。限られた時間と人員と装備の中で、龍一と崇はもっともシンプルな方法を選択した。「隣のビルから飛び移る」である。
と言っても、きらびやかな街灯に満ち会社帰りの人々と車が行き交う中央区交差点の真上でロープを張り巡らして渡るわけにもいかない。ヘリコプターでL生命ビルの屋上に降りるのも無理だ――ヘリやドローンなどの飛行物体に対する何らかの防御システムがあるかどうかは不明だったが、あると思った方がいい、が2人の結論だった。そもそも、ヘリを調達している時間がない。
では直接、隣の百貨店からジャンプで飛び移ったら?
龍一は軍用規格の
次に作業用編み上げブーツを脱ぎ、代わりに静粛性を重視した侵入用ブーツを履き、さらにその上からオプションの「靴底」――若い娘が履く厚底サンダルのそれに見えなくもない――をベルトで装着した。歩きづらくはなるが、少し足踏みして慣らした。どうにかなりそうだ。数メートル後退し、助走の構えを取る。
向かいのL生命ビルを目視する。距離を計算、風なし――いける。
失速よりも、恐怖のあまり身体が強張る方を恐れた。だから最初の一歩は、あえて頭を空白にした。
自分の脚力なら、全力疾走まで1秒かからない。
走り、手摺を蹴り、身を躍らせた。放物線を描いて飛んだ身体が飛翔から落下に移り、恐怖に身をすくませそうになった瞬間――
プリセットしてあった高度で「靴底」が爆発した。
蹴飛ばされた小石のように龍一の身体が加速した。L生命ビルの屋上フェンスを軽々と飛び越え、屋上へ落下する。着地の衝撃は思ったより強く、足裏がじんと痺れたが、生きてはいた。
さすがに荒い息を繰り返して呼吸を整える時間が必要だった。静まり返った屋上に眼下からの喧騒が聞こえるようになるまで耳を澄ませた。今の一大アトラクションを目撃した者は、どうやらいなかったようだ。少し残念な気もする。
冷水を浴びせられたように恐怖が首筋へ忍び寄ってきた。飛ぶタイミングを間違えていれば、起爆の瞬間に姿勢制御に失敗していれば、今頃は交差点中央の「路面の染み」と化していたはずだ。
どうしてこんな無謀なことができるのか――たぶんそれは、高塔百合子のためですらない。「自分ならこの程度できて当然」という馬鹿げた見栄だ。
いずれはそのために失笑ものの最後を遂げるのかも知れない。しかし、今は生きている。
ヘッドセットを装着した。「聞こえるか? 屋上に着いた。始めるぞ」
【頼むぜ】微塵も成功を疑っていない声が返る。わかりやすい褒め言葉などなかったが、それがかえって誇らしかった。
龍一は作業服を脱ぎ捨てた――本日の請負業務開始だ。
資材用エレベーターのシャフトからビルの9階――目的地であるテシクのオフィスの真上だ――に侵入した龍一は、日が暮れても社員の行き来が絶えないオフィスを目の当たりにして「やれやれ」と思った。金や貴金属の取引所らしく、昼間よりは人が減っているようだが、思っていたよりは多い。そう上手い話はなかったか、と内心嘆息する。
しかし肩をすくめてばかりもいられない。崇との約束の時間が迫っている。躊躇うことなく腰に装着したジャマーのスイッチをONにした。
疾走開始。
ジャマーの効果時間は十数秒――ここからでは確認できないが、監視カメラの画像はブロックノイズ状態になっているはずだ。警備員たちもいぶかしむだろうが、何らかの妨害なのかそれとも単なる故障なのかは容易に判断がつかない。彼らも「ただの故障ならそれに越したことはない」と願っているからだ。要は人心のセキュリティホールにつけこむわけで、良心が咎めなくもなかったが、咎めただけだった。
うつむき加減に早足で歩いた。龍一が本気で早歩きすれば、常人の目にはかすむ程度にしか見えない。すれ違った社員が「あれ?」と振り向く頃には、もう曲がり角の向こうへ消えている。
オフィスを横断して階下へ続く階段までたどり着いた瞬間、稼働時間を越えたジャマーも同時にOFFになった。まさに安堵したそのタイミングを見計らったように、ヘッドセット越しに聞き覚えのある――そして今はあまり聞きたくない――声が聞こえてきた。
【ひどいじゃない。着信拒否にしたわね? 説得する手間さえ面倒くさがるつもり?】
「また君かあ……」どうやってこの回線に侵入したんだ、と詰問するのも馬鹿馬鹿しくなってきた。本当に、こいつはどうやって俺の行動をリアルタイムで監視しているんだろう。スパイ衛星でも難しいんじゃないだろうか。あれだって世間で思われているほどには万能でもないみたいだし。「いい加減にしろ。怒るぞ」
【何よ。約束を破ったのはそっちじゃない。適当にあしらっときゃそのうち諦めるだろとでも思っているんでしょ? 残念でした。私はあなたが思っているよりも、もうちっとばかりしぶといのよ】
まったく、実に、身を持ってそれを味わわされているわけなのだが、素直にそう口にしたくはなかった。龍一にも意地がある。「何度言っても駄目、駄目、駄目だ。君を俺たちの一味には加えられない。俺は自分の人生を恥はしないけど、誇りもしないし、ましてや誰かをそれに巻き込みたくもないんだ」
龍一にしてみれば偽らざる本心だった。正直、自分の人生だけでも扱いかねているのに、この上他人の人生まで背負っていられない。
だが彼女にはその答えでは不充分だったらしい。少し経って聞こえてきた声は、今までとはまた一味違う不穏なものを孕んでいた。【へええええ。困ったわね。諸葛孔明でさえ三顧の礼に応じたってのに、あなたと来たら5回頼もうと10回頼もうと、その頑迷な考えを変える気がないってわけね。オッケー。じゃあ、あなたがどこまでやったら音を上げるか試してあげる。見てらっしゃい、今に可愛らしく『きゅう』と鳴かせてあげるから】
「待て。何をする気だ?」
【すぐにわかるわ。窓の外を見て】
いぶかしみながら龍一はスペックスの望遠機能で西日の差し込む窓の外を見た――次の瞬間、息を呑んだ。
通りの向かいの百貨店の屋上、燃えるような夕日を背景に、真夏の海岸にあるような真っ青なビーチパラソルが立てられていて(いつの間に立てたんだ?)その下に白い籐椅子が横たわっていて(だからどうやって持ち込んだんだ?)その傍らで、レモンイエローのドレスを纏った瀬川夏姫がすらりとしたシルエットをさらしていた。墓石のように立ち並ぶ室外機に囲まれながら、ほっそりした腕がスカートの裾をつまみ上げ、貴婦人よろしく深々と一礼した。
「何してるんだ。早く降りろ!」
【やあよ。何だってまともに話を聞いてもくれない人の言うこと聞かないといけないの? やめてほしかったらあなたがここまで来ればいいじゃない。パンツめくってお尻でもはたいたら? できるもんならね!】
オフィスの人々もそれに気づいたらしく、頭上から感嘆したような声が聞こえてくる。
「綺麗な子だなあ……モデルかな? 何かの撮影なのかな?」
「すっげえプロポーション。もしかしてこのビルのどっかにオトコがいるんじゃねえの?」
「あんな子が恋人だったら、俺の人生ももうちょっと楽しくなるんだけどなあ……」
龍一は思わず呟いた。「きゅう」
視界内で、夏姫が楽しげにスマートフォンを耳に当てる。【さあ、次は何であなたの度肝を抜いてやろうかしら。逆立ち? バック転? ベリーダンス? リクエストがあればお応えするわよ】
龍一はできるだけ平板な声で言った。「参った。命だけは助けてくれ」
【えー、屈服するの早くない?】勝手な娘だ。【まあいいわ。同意してくれたんだから、私も過去のことはぐちぐち言わないことにする】
このあたりの切り替えは確かに大したものかも知れない。【改めてよろしくね、相良龍一君】
「君づけはやめてくれ。君に言われると女教師に説教されてる気分になる」
【じゃあ龍一】
対応が早すぎる、と龍一は呆れた。「まあ……改めてよろしく、
驚いたような呼気が伝わり、龍一の方が訝しんだ。「どうした?」
【え……ううん、そう言えばあなたに名前を呼ばれるの初めてだな、って思って】
「確かにそうだが……それがどうした?」
【……ううん、何でも】何でもないどころか、むしろひどく嬉しそうだった。龍一はますますわけがわからなくなった。そもそも同年代の少女の心情など彼には理解の埒外ではあるのだが、とりわけ夏姫の心情はそれより遥かに謎だった。
8階に到達――ここはテシクのオフィスの中でも、情報分析を専門に行うフロアらしい。コンビニのように白々としたフロア全体に人の気配はなく、そこかしこに置かれたラック内で無数のサーバーが淡い光を点滅させている。クァッドコプター方式の警備用ドローンがフロアを巡回していたが、龍一の眼前まで来ると、急に彼が見えなくなったようにふらふらと飛び去ってしまった。
「あれは君がやったのか?」
【ええ。ちょろいもんよ】夏姫の声は得意げだった。いちいち褒めないぞ、とは思ったが、その手際の良さは認めないわけにはいかない。
【……変ね】夏姫が訝しむような声を出した。【いくら情報分析に特化した部署にしても、人がいなさすぎじゃない?】
「言われてみればそうだな」最近のオフィスは省力化とリモート方式によって人員を削減する方向に向かっているらしいから、案外不思議ではないのかも知れないが。
しかし、逡巡してばかりもいられない。「もう少しフロアの中心へ行かないと駄目だな。爆弾の『焦点』を合わせられない」
【爆弾!?】思いがけず強い声が返ってきて、龍一は驚いた。「データの破壊に特化したEMP爆弾だ。殺傷能力はないし……」完全に無害かどうかは微妙だが。「人が少ないんなら、かえって好都合だろ」
【……そう、そうよね】夏姫は納得したような声を出したが、どこか自分に言い聞かせているようでもあった。どうしたというのだろう。
拍子抜けするほど何の妨害もなく、フロアの中央部らしき位置に来た。サーバーにメモリスティックを差し込むと、自動的にプログラムが起動、データの抽出を開始する。
「望月さん、吸い出しを開始した。これから座標を送る」
【上等だ。こっちは地下に車を入れる。起爆はお前が逃げてからにするぞ。何しろれっきとした『爆弾』なんだ、お前のタマがレンチンしたみたいに弾けちゃ一大事だからな……】
気遣いはありがたいがあまり嬉しくない気遣いだ。
【ねー、私に何かできることはある?】
「うーん……ないな。コピーが早く済むよう念でも送ってくれ」
【またそういうことを】頬っぺたを膨らませているのが容易に想像できる声。【あら……ちょっと待って。龍一!?】
一瞬後に届く彼女の声は、尋常ではない緊迫に満ちていた。【泥棒見習いのくせに、自分が何を盗もうとしているかもわからないの⁉】
「いきなりどうした?」
【こんなの機密情報でも何でもないわ……図表や数字でそれらしく見せているけど、何の意味もない。ただのゴミデータよ!】
「何だと……!」
龍一が棒立ちになった瞬間、崇からの、こちらも今までに聞いたことがないような声での警告が発せられた。【待ち伏せだ! 逃げろ龍一!】
スペックスの視界に地下駐車場の映像が送られてくる――崇のワゴンが、人とは明らかに違う異形の影に囲まれている。放水銃をはじめとする暴徒鎮圧装備の『マイコニド』の群れだ。
フロア全体に耳障りな音が響く。まばゆい夜景を映していた採光目的のウィンドウが、黒光りする金属製のシャッターで閉ざされていく。
罠だ――脳が痺れたようになりながらも、龍一はようやく悟っていた。テシクのオフィス自体が、俺たちを捕らえるための巨大な罠と化しているのだ。
間髪入れずにオフィスの入口で足音が入り乱れ、一言も発することなく揃いの制服に透明な防弾シールドと警棒で身を固めた警備員たちが踏み込んできた。いずれも龍一に負けず劣らずの体躯の持ち主だ。よく訓練された無駄のない動きだが、腰のホルスターに装着した電極射出式のスタンガンを抜いている者はいない。龍一は訝しんだ――通常は警棒よりも距離を取って戦える飛び道具を選択する。同士討ちでも警戒しているのだろうか?
それともその必要もないと思っているのだろうか。
反対側の入口から、誰かがゆっくりと、優雅ですらある足取りでフロアに足を踏み入れた。黒いガスマスクに黒い戦闘服、黒いコンバットブーツ。短く刈られた硬そうな頭髪以外に露出している部分はなかったが、それが誰かはすぐにわかった。
キム・テシクだ。
黒い絶縁グローブに覆われた両手が、オーケストラの指揮者のようにゆっくりと持ち上がる。側面だけでなく先端にまで電極が埋め込まれた
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