第4話 カオスを制御する

「なかなか素敵なお店じゃない。意外って言ったら失礼だけど……やっぱり意外ね」

 今日の彼女は若草色のツーピースに、茶のローファーを合わせていた。先日のシックな服装とはまた異なる、秋にしては眩しすぎるくらい鮮やかな色彩だ(それ一着で俺のジーンズを十本ぐらい買えるだろう、と龍一は踏んだ)。旧知の友人にでも出くわしたような気安さを目の当たりにして、龍一はだんだん腹が立ってきた。だいたい何なんだ、その気取った足取りは。「階段を降りてくる美女」のつもりか?

 だが怒鳴りつけて追い払うわけにもいかなかった。何よりまずこの目障りな小娘が、どうやって龍一の行く先々へ先回りするどころか、こうして馴染みの店まで探り当てたのか聞き出す必要がある(身長2メートル近い猪首の大男が、頭2つ分は背の低い少女に向けて凄むという絵面の情けなさには目をつぶるとしてだ)。

「どうしたの? 椅子を引いてとまでは言わないけど『どうぞ』ぐらいは言ってくれないの?」

「…………どうぞ」

 地獄の底から響くような低い声が出たが、少女は気を悪くした様子もなく「ありがと」と言って遠慮なく腰を下ろした。あまり他人から拒絶された経験がないように見える。

 龍一の思いを知ってか知らずか、彼女は傍らのメニューをぱらぱらとめくって眉をひそめた。「ちなみにお勧めは? あなたのハードボイルドな見かけからしてコーヒー、それもブラック一択かも知れないけど」

「ブラックなんて飲まないよ。胃に悪い」そもそも、何で初対面のこいつに行きつけの店のお勧めを教えなきゃならないんだと思う。

 龍一の答えに彼女は意外にも笑わず、むしろ感心したように頷いた。ますます居心地が悪くなった。自分とは明らかに生きている世界が違う、目も覚めるような華やかな少女が混じり気のない好意的な視線を向けてきたら、大抵の男は喜ぶ前に深刻な不安に陥るんじゃないだろうか。

 ちょうどそこへウェイトレスが注文したナポリタンを持ってきた。少女は手を上げてオレンジジュースを注文する。「腹減ってるんだ、先にいただくよ」と断ると彼女はにこやかに頷いた。

「……まず聞かせてもらおうか。君は誰だ」ナポリタンを口に運びながら龍一は聞いた。大して手の込んだつくりではない、それだけに安心する味ではあったが、今日に限ってはどうも落ち着いて味わえない。

「『』?」彼女は大きな目をぐるりと回し、大仰な声色でそう繰り返してからぷっと噴き出した。「そっちこそ何? これ、尋問されてるの?」

「茶化さないでくれ。真面目な質問なんだ」

なつよ。がわ夏姫」

 龍一は面食らった。変なタイミングで正直に名乗る娘だ。

「そういうあなたは、今は何て名乗っているの? ? それとも?」

「……相良さがらりゅういち。信じてもらえるかはわからないけど、本名だよ」ストックして使い分けている偽名まで探り当てている相手に嘘を吐いても始まらない。

「信じるわ」夏姫と名乗る少女は、大真面目な顔で頷いた。「これでお互いの本名が判明したわけね」

「じゃあ、次の質問だ。どうして俺をつけ回す?」

 夏姫はまたしても目をぐるりと回してみせた。「どうしてもこうしても、そうするしかなかったからよ。あなたたちの世界じゃ『実力が全て』なんでしょ、実際はともかくとしてね。で、私にどれほどのことができるのかわかってもらわないと、頭っから小馬鹿にして、まともに話も聞いてもらえないじゃない。あれでしょ、『子供はさっさとママのおっぱい吸いに帰りな』とか言われるんでしょ?」

 龍一は自分が「どこまで不機嫌な顔をできるか」のベンチマークテストに使われているような気分になってきた。明らかに彼女は、龍一が自分と大して歳の違わない子供であることを当てこすっている。

「そこだ。つけ回すにしてもどうやった?」

「それは企業秘密……と言いたいところだけど、当然の疑問だし、少しぐらい種明かししてもいいでしょうね」

 夏姫は得意満面といった顔で、トートバッグからタブレット端末を取り出して起動させた。表示されているのは未真名市内の詳細なマップだ。

「ここが今、私とあなたのいる店」タッチペンで画面をつつくと、その部分に光点が灯る。

「間違ってないな」龍一は画面を覗き込み、わざとらしく頷いてやった。「さすがに『自分の居場所がわからない』ほどいい加減には生きてないよ」

「夜通しの仕事を終えた後で軽い食事をしにそんな遠くまでは行かないでしょうしね。とすると、あなたの住居は案外この近くにあるのかしら? 例えば、

 タッチペンが突いた箇所を見て、龍一はわずかに顔から血の気が引くのを感じた。タッチペンの先は、まさに龍一がここ数か月寝泊まりしたマンションを正確に指していた。

「それとも、他にも隠れ家だかアジトだかがあったりするの? 例えば、

 立て続けにタッチペンが市内の数か所を突く。逃走用車両のガレージ、装備の集積場、あるいは数日間外出することなく身を隠せるシェルター。

「それと、ここが今月初めにマルエム電子の内部資料が奪われたビジネスホテル。ここは先週、何者かに売り上げを強奪された畦倉会の裏カジノ。そしてここが昨日、襲撃を受けた上海マフィアの地下銀行」

「……よく調べたもんだが、それは事件の発生現場と俺の行動範囲をピックアップしただけだろう。結びつけるものが何も」

 タッチペンが軽快に踊り、画面に無数の画像とタグを現出させた。

 自制を働かせなかったら、アッパーカットを食らったようにのけぞるところだった。画面を埋め尽くしているのは、やや斜め上から撮影されたらしき龍一の顔と、撮影された日時時刻表示だった。

「まさか合成画像なんて言わないわよね? そう言われないために監視カメラ経由でログまで引っこ抜いてきたんだから。ご丁寧に周辺一帯へジャミングまでかけてくれて、おかげで画像の復元に結構手間取ったわよ。ま、用心深いってのはいいことよね……私以外の相手ならだけど」

「四六時中、俺をストーキングしてたってわけか」龍一はかろうじて皮肉を返したが、自分の耳にもチワワの鳴き声ほどの凄みすら感じられなかった。「大したもんだな。寝る暇もなかっただろう」

を使ったに決まってるでしょう」夏姫は岩にでも話しかけるような辛抱強さで言った。「私がお姫様みたいにすやすや寝ている間に休まずさぼらず無給料で働いてくれる可愛いプログラムが何もかもこなしてくれるのに、いちいち自分でやる必要がどこにあるの? あなたはもしかして光合成できるのかも知れないけど、私だって食事もすれば、お風呂にも入る必要があるのよ。ただでさえあなたの動きなんて、無政府国家の株価よりも信用ならないんだから」

 龍一はソファにもたれかかった。「わかったよ。それで? そこまでわかっているんなら、どうして警察に通報しない?」

 今度は夏姫が鼻で笑う番だった。「警察に届けるために私がこんな手間暇かけたとでも思ってるの? そりゃ警視総監賞と金一封ぐらいはくれるでしょうけど。でも、そんなことのためにやったんじゃないわ」

「じゃ、何のために?」

 夏姫はトートバッグにタブレットを収め、向き直った。「簡単なことよ。私も混ぜて」

「何だって?」

「あなたたちの……何て言うのかしら? 『一味』に、私も加わりたいの」

 龍一はできるだけ努力して恐ろしげな顔を作ってみたが、完全に逆効果だった。目の前の少女は宗教画の天使もかくやとばかりの輝かしい笑顔で見返してきている。

「私にどれほどのことができるかはもうわかったでしょう? それとも『女が傍にいると気が散って仕事に差し支える』なんて、ファシストの男根野郎みたいなことを言うつもり?」

「君に言われるまでもなく俺はファシストの男根野郎だよ」

「開き直らないでちょうだい」夏姫は龍一を睨みつけたが、オレンジジュースのストローを咥えたままなのであまり凄みはない。

「人手なら足りてる。第一、相棒がいいなんて言うはずがないだろ」

「あなたと組んでいる、あのでしょ? あなたが乗ればあの人だって嫌とは言わないんじゃない? どう見たってあの人、あなたにだもの」

「……何だって?」

「あら、余計なこと言っちゃったかしら? それにしてもとっくに気づいてると思ってたけど、あの人のあなたを見る熱い眼差し」

「おかしなこと言うなよ」龍一が何となく落ち着かなくなって腰の位置をずらしているうちに、夏姫は真剣な表情に戻った。「それで、どうかしら」

「どうもこうも、検討するまでもない馬鹿話だ」

 少女が小首を傾げる。「どうして?」

「どうしてって……第一、君は見るからに金に困ってないだろ」

「あなただってお金には困ってないでしょ。それとも、人が犯罪に走る動機はお金だけだと思ってる? 少なくともあなたはそうじゃなかったはずだけど」

「ああ、スポンサーが……」言いかけて、あわてて龍一は口をつぐんだ。口が裂けたって百合子のことを口走るわけにはいかない――危ないところだった。

 自分が喋れば喋るほどぼろが出ることを認めないわけにはいかなかった(それでなくても記憶にあるかぎり、同年代の少女に口喧嘩で龍一が勝てたためしはないのだ)。それでも最低限、聞いておかなければならないことはある。

「わかった。検討はしよう」もちろん大嘘である。馬鹿話、と思っていることに変わりはないし、取り消すつもりもない。「でも、どうしてもわからないことがある。どうして俺と組む気になったんだ。そこまでのことができるんなら、もっと安定した大組織に自分の腕を売り込んだっていいだろう」

 腕を見込まれたら見込まれたでもっと悲惨なことになる可能性はあるが、そこまで教えてやることもないと思った。お嬢様の火遊びに付き合う義理はない。

 だが、夏姫は想像以上に真剣な表情できっぱりと首を振った。「駄目よ、大組織は駄目。彼らの犯罪行為とはビジネスであり組織構成員への福利厚生だもの。それは私の目的とは完全に相反するもの――言わば飢えたけだものから、肉のこびりついた骨を無理やり取り上げるようなものね。それがどれほど面倒なことになるか、そして面倒だけでは済まなくなるか、私にだって想像ぐらいはできるわよ」

 理屈に合っているようでやはり合っていない。「金目当てじゃなかったら、いったい何が目当てなんだ?」

「お金以外の目的があるのがそんなに不思議かしら? あなただってそうなんでしょう? お金は欲しい、でもむきになってこだわるほどじゃない。他に欲しいものはもっと別にある。だからこの街で、命を危険にさらしてまで、こんな仕事をしているんでしょう?」

 不快な蠢きがこめかみのあたりで生じた。小娘が、タメ口どころか女教師みたいな口を聞きやがる。「俺の話をしているんじゃないだろう。この際だから腹を割ってくれ。君は何が欲しいんだ? 何が目的でこの俺と組もうなんて考えたんだ?」

「やっと聞いてくれたわね」彼女は深々と頷いた。「この世から犯罪をなくすの」

 数秒の間、龍一の瞬きする回数が通常の十倍に増えた。

「……この街の犯罪組織、だけが君の標的ターゲットじゃないのか」

 夏姫はこれまでにない力強い頷き方をした。「ヤクザだかマフィアだかが一つ二つ潰れたって、すぐ後継の新しい組織が勃興してくる。そういいたいんでしょ? そう。私の標的はね、個々の犯罪組織よりも、それを産み出すよ」

「犯罪者に向かって『お前のの飯のタネを根こそぎ奪ってやるから手伝え』って頼むつもりなのか? 図々しいどころの騒ぎじゃないな。どうかしてやがるぜ」

「全然変じゃないわ」夏姫は平然と言った。「犯罪の消滅には、大量の生データの収集が必要不可欠になるもの」

 龍一はフォークを置いた。いくら腹が減っているからって、聞き捨てならない言葉というものがある。「要するに君は、俺にモルモットになれ、って言いたいのか」

「そういう言い方がお好きならね。お金が目当てじゃない、とはあなたも認めたはずよね?」

 夏姫は小憎らしいほど落ち着き払ってストローを口に咥えた。口紅などつけていなくとも充分に艶やかな唇が蠢く。

「未練がましく骨をしゃぶっている飢えたけだものだって、一定化の条件では渋々と咥えた骨を手放す。私が狙っているのはまさにそれ――犯罪による『収奪のシステム』から旨みをなくしてしまうの。『けだものの理屈』で動く者は、いずれ人間の知恵の前に必ず屈するの」

 その瞬間に、龍一の背筋を走った戦慄は何だったのか――

 追い詰められて逃げ場のないことに気づいた獣のように、意味もなく店内を一望してから、龍一は眼前の少女に視線を戻した。彼女の表情は真剣なままだった。一文の得にもならないことに命を賭けられる、賭けても惜しくはないと思う者の眼差しだった。

 龍一がかつて会った、二度と会えない者たちの眼差しだった。

「もちろん、一日や二日でできることじゃないわ。でもあなたが協力してくれたら、その日数は確実に短くなるでしょうね」

「俺はモーゼじゃないから海を割ることはできないし、君が言っているのは海の水をそっくり干すような絵空事だ」龍一は首を振ってみせたが、どう贔屓目に見ても自分の方が分が悪いことに気づいていた。狂信者は理屈でへし折れない。

「だからほっとけ、ってこと? 海の水は自然現象だけど、組織犯罪は人災よ。俺らどん百姓だでお天道様には太刀打ちできません、って言って諦めるつもり? それで冬至が訪れたら、ちゃんと春が来るように毎年生贄を捧げるの?」

 さっきの「ファシストの男根野郎」といいこいつの語彙は小娘の語彙じゃないな、と苦々しく思う。

「百歩譲ってそれができるとしても、個人でどうにかできるものじゃないだろう。国家レベルで世界最高クラスの天才が集まってどうにか、ってところだぞ。それだって上手くいくかは怪しいもんだ」

「あなた、自分が本当にやりたいことを他人任せにするたちなの? 

「……一緒にしないでくれ。俺は君とは違う。空の雲をアイスクリームに換えるなんて夢物語に付き合えるほど暇じゃないんだ」龍一が顔を背けたのは、彼女の言葉が痛いところを突いたのを悟られたくなかったからだ。

「そうやってクールを装っていればかっこいいとでも思ってるのね?」

「何とでも言ってくれ。初めからできない約束には乗れない」議論を切り上げたくて龍一は伝票をつかみ、立ち上がった。

 お前に彼女を嗤う資格があるのか――脳裏でそう囁く声が聞こえたが、無視した。

「払うわよ」

「そっちこそ見損なわないでくれ。コーヒー代も払わないほど落ちぶれちゃいない」少なくとも浮世離れしたお嬢様のヒモになるほどには、とまでは言わなかったが。

 レジで代金を払い、店を出る直前に肩越しに振り返った。彼女の表情までは読めなかったが、ひどく悄然として見えた――何時間も壁を叩き続けたあげく、何もかもが徒労に終わった人のようだった。

 気が咎めなくはなかったが、もちろん引き返すつもりはなかった。


 喫茶店を出て数歩歩いてから、空腹がまったく解消されていないことに気づいた。腹ごしらえをするつもりが、ほとんど何も食べずに出てしまったのだから無理はない。いろいろな意味で溜め息を吐きたくなった。

 とにかく移動しようとした時、懐のスマートフォンが振動した。もちろん崇からだった。

【時間切れだ。『積極的防衛策』に移行する】

「……どうしたんだよ」

【どうしたもこうしたも、こっちの思っている以上の早さで状況が悪化したってだけの話だ。詳しくは後で話す。ご当主からのゴーサインも出た】

「期限は?」

【今夜だ。一分一秒も無駄にできないぞ。とにかくできるだけ急いで来い】

 通話が切れた後で、スマートフォンをしまうのも忘れて意味もなく立ち尽くしている自分に気づいた。いつものような緊張感も高揚感も、まるで湧いてこない。こんなことで夜通しの非合法活動をこなせるつもりか、と自分を罵ったが、やはり足は動かなかった。

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