第2話 視線
――まただ、と思った。またあの視線だ。俺を、俺一人を見つめるあの視線。悪意あるものではない。だが何か仕掛けるでもなく、ただしんと静かに、どこからともなく注がれる視線は、意図が読めないだけになまじの敵意や悪意よりも不安を掻き立てられた。不気味ですらある。
「呆けるな、手を動かせ!」
崇の叱責に龍一は我に返る。人の汗の甘酸っぱい臭いと、紙とインクの混じった匂いが充満する倉庫内。居並ぶPCとサーバー群、作業用デスクや台車の上に積まれた紙幣の山。紙幣の自動計算機や仕分機、札束を作るための帯封機。そして足元の、目隠しされ結束バンドで手足を縛られた作業員たち。
「掴みとれるだけ掴みとるぞ、急げ!」
パーティで使う
【手を止めずに聴け。セキュリティの立ち上がりが予想より早い】
思わずそちらを見たが、崇はマスク越しに顎をしゃくってみせた。
小声で返す。【予定ではあと5分は麻痺している計算じゃなかったのか?】
【俺もそう思った。だが実際にはあと3分あるかどうかも怪しい】
【妨害はしたはずだろ?】
【ジャミング対策の予備回線があったらしい。そちらから通報された】
龍一は
【いや、これは俺の黒星だ】崇の声には悔しさがにじみ出ていた。「インストラクター」の彼がそのような声を出すのは初めてだった。龍一は何と言っていいかわからず、代わりに台車の上の札束を鷲づかみにした。【確かに、急いだ方がよさそうだ】
【……ラス1!】最後の一束まできっちりバッグに詰めてジッパーを締める。ほぼ同時に崇も作業を終えた。余韻に浸る間もなく、倉庫の前で何台もの車のエンジン音が響いた。それも4WD特有の威圧するような重々しいエンジン音だ。
【お早い到着だぜ。連中の『緊急展開チーム』だな】
【どうひいき目に見ても『セキュリティ』以上の荒事集団に見えるぞ】
【捕まってお尻をはたかれる程度で済めばいいんだがな】
二人はシャッターの覗き窓から外をうかがう。鋭い目の男たちが車から次々と降り立ち、一部はワゴン車を誘導して何か降ろそうとしている。
【おいおい……】
荷台から降り立ったものを見て2人は顔を見合わせる。両手両足を包む鈍い金属の輝き。奇形のキノコを思わせる異様なシルエット、前方に突き出た幾何学的な形状のセンサーユニット。世界の軍や準軍事部隊で使用されている戦闘用強化外骨格、通称『マイコニド』だ。
【たかが倉庫破りに大仰な……】
【効果的ではあるな。あれを見せられたら大抵の奴らはびびって白旗上げちまう】
『マイコニド』の腕に装着されているのは、暴徒鎮圧用の
【投降する気があるのか】
【お前は?】
【ない】マスクの裏側の、崇の笑みが見えた気がした。
龍一もマスクの裏で唇を歪める。【俺もだ】
【注意事項は、インストラクター?】
【帰ったら反省会】
【了解】
倉庫内に、裏の非常口がトーチで焼き切られる異音と異臭が充満し始めた。崇は腰のラッチから閃光手榴弾を取り出して握り締め、龍一はトンファーを構え直した。
野蛮人の時間だ。
――ボディの目に見える部分すべてを銛と無数の銃弾で穿たれ、後輪の一つがパンクした4WDは、ふらふらと蛇行しながら申し訳程度の舗装がされた路肩をはみ出す寸前で止まった。エンジンを切った崇が盛大な溜め息を吐いた――そうしなければエンジンが過負荷で火を噴きかねなかったからだ。
停車したのは先ほどの倉庫群から数キロと離れていない、幾何学的なユニット式コンテナで埋め尽くされた、無人に近い農業プラント区域だった。
「完全に逝ったぜ、この車……」
「ここまで持てば上等だろ」
2人はマスクを脱ぎ捨て、汗まみれの髪をかき上げた。
「
「可能性はあるが、あんだけ電撃を食らったらオシャカだろ」
「どの道捨てるしかないけどな。とにかく移動しよう」
「ああ。家に帰るまでが犯罪だしな」
いくら「命がけの鬼ごっこ」の後で疲れ果てていても、証拠隠滅を抜かすわけにはいかなかった。車内であちこちにぶつけた痛みに顔をしかめながら、彼らは手分けして触れた部分すべてに塩素をふりかけ、車を捨てた。
逃走用の車に向かって歩きながら、2人は小声で会話を交わす。札束の詰まったショルダーバッグが容赦なく肩に食い込む。
「やっぱりセキュリティの錬度が上がり始めているな……」
「例の『コンサルタント』の入れ知恵だろ」面白くもなさそうに崇が吐き捨てる。「奴さんも商売なんだろうが、それで俺たちの生業がやりにくくなるんじゃいただけねえ。こりゃ『積極的防御策』の出番かもな」
龍一は思わず足を止めてしまった。崇の言う『積極的防衛策』とは、体のいい『先制攻撃』の言い換えであるからだ。
龍一の顔を見て、崇は肩を軽く小突いてきた。「おい、商売の心配なんて自分のだけにしとけよ。共栄共存なんて、どこぞの腐れヒッピーに任せとけ」
違うと言いかけて、龍一は足を止める。よほど妙な顔をしたのか、崇が顔を覗きこんでくる。「どうした?」
「……まただ」また、あの視線だ。気のせいではない。あの倉庫内で感じた視線が、またも注がれている。他でもない、この自分を。
しかし誰が? そもそもどうやって? 追手は完全に撒いたはずなのに。あの視線の主は、それすら読んで先回りしたとでも言うのだろうか。
「……百メートル後方、パールホワイトのレクサスか」
崇がささやく。龍一は驚いたが、すぐ驚く必要がないことに気づいた。考えてみれば、龍一が気づいているものに崇が気づかないはずがない。
「用があるのはお前か」
「……たぶんな」それは間違いない。「あの筋肉ダルマどもは完全に撒いたはずだ。何度か確かめてみたが、ここ数日着けてきているのはあの一台だけだ」
「となると、イスラエルの線はナシだな。連中なら複数車を用意してローテーションを組むだろうし」
「確かめてくる。預っててくれ」龍一は札束の詰まったショルダーバッグを崇に手渡した。受け取りながら崇がにやりと笑う。「『積極的防御策』は気が進まないんじゃなかったのか」
「場合にもよる」確かに疲労困憊はしていた。だが、あの視線に無反応でいられるほどではない。
一つ深呼吸する。もう一度だけ軽く息を吸い込み、一挙動で手近なコンテナの陰に滑り込んだ。
「……気づかれた?」
「おそらくは。この暗闇と距離で気づかれるなんて、獣並みの勘の良さですよ」明かりを落とした運転席でハンドルを握る若い男の声。
「……被観測者に気づかれるようじゃ、今夜のデータ収集は失敗ね」わずかに悔しさを含んだ若い女――というより少女の声。
「どうなさいます?」
「あのおじさんの方を追って」
オペラを鑑賞するように暗視スコープに目を凝らす。バッグを両肩にかついだ年かさの男が、緊張感のない――あるいはそれを装った足取りでゆっくりと歩き出す。運転席から青年の声。
「こちらも動きます」
「お願い」
滑るように車が動き出した。
「露骨に誘っているわね……」
「あの男、おそらく囮です」
車は前方の男と、一定の距離を保ちながらじりじりと進む。男は一度も振り返らない。
「追っているのはどっちなのかしら?私たち、それとも彼らの方?」
「あの男が囮なら、後者の方でしょう。もう一人が背後からこの車を……」
「付き合ってくれるのね。それでこそよ。滝川、振り切って」
「かしこまりました」
青年の手が熟練の手品師のようにハンドルを操作する。車が生命を吹き込まれたように震える。ほとんど横滑りするような挙動で、車体は倉庫が作る路地に滑り込んだ。年かさの男が初めてこちらを向く。その驚愕の表情に、彼女はやや溜飲を下げた。
「……追ってこない?」
青年も違和感を感じたように、車のスピードをわずかに落とす。
「あれで本当に振り切れたのなら、ちょっと肩すかしなんだけど……」続けようとした声が止まる。
少女は暗視スコープを傍らのクッションに放り投げ、代わりに膝上のノートPCを猛然と叩き始めた。「違う……向こうはこっちの先の先まで読んだ。滝川、上よ、真上!」
――人間一人分の重さの重量物が、車の屋根に飛び降りる鈍い音が車内に響いた。
エンジン音が静かだからといって、急速な発進に伴う反動まで優しくなるわけがない。獣のように身を震わせて走り出した車の屋根に、龍一は必死でしがみつく。周囲の光景が水で溶いたように後方へ流れ去り、耳元で唸る空気の流れはすでに轟音だ。
「停めろ!」我ながら間抜けな怒鳴りだと思った――もちろん運転手がそれを聞くはずもない。どころか車は蛇行し、車体から龍一を振り落とそうとし始めた。わずかな凹凸に絡ませた指が千切れそうに痛む。このスピードで路面に落下したら、と考えただけで血が凍りそうになる。
車のウィンドウは濃いスモークフィルムに覆われ、中の人間の顔は見えない。だが龍一は、確かにこちらを見る視線を感じた。
もう運転席のウィンドウをぶち破って運転手を引きずり出すしかない――覚悟を決めた瞬間、内臓が裏返るような感触。しまった、と思った時には宙に放り出されていた。車が急停車したのだ。
「糞ったれが……!」
身体が勝手に受身を取る。何千回何万回と身体に叩き込んだ挙動。勢いよく三回転半してようやく止まる。全身に鈍い痛みが走り、打ちすえた箇所がひりひりと痛んだが、少なくとも生きてはいた。それに意外にも、衝撃は予想よりずっと穏やかだった。
用心しいしい身を起こした龍一は、そこが草地であることに驚いた。農業プラント地帯と都市部の緩衝地帯にあたる人工の草原。あの運転手、振り落とす場所を選んだってことか?
龍一はハンズフリーで崇に呼びかける。
「どうだ、トレーサーは作動したか?」
【確認はしたが……何だと?】崇の驚愕の声。【信じられねえ……もう反応が消えた。無力化されるにしても早すぎる】
生身の足で自動車のエンジンに追いつけると思うほど――そして追いついたところで停められると思うほど、龍一も自信過剰ではない。たとえこの場では逃しても、相手のヤサを探り出す方が得策だ、そう思って崇と共に一芝居打ったのだが。
【油断したつもりはなかったんだが、それでも甘かったか】
初戦は完敗だな、と呟きながら龍一は立ち上がる。「ただ一つ、わかったことがある」
【何だ?】
龍一はあの時感じた視線を思い起こしながら言った。「あれは女だ」
【女ぁ?】
「ああ。運転手の他にもう一人。後部座席にいた奴、あれは女だ」
「……こちらが本命ですか。油断も隙もありませんね」傍目には1センチ四方の薄い金属板にしか見えないトレーサーを、運転手の青年は引き剥がした。掌に握り込んだレーザーで焼いて完全に無力化する。
「お嬢様。予想なされた通りです。やはり発信機が……お嬢様?」
後部座席で、彼女はノートPCをきつく抱きしめて小刻みに震えていた。まるでライナスの毛布にしがみつくように。
青年は痛ましげな面持ちでそれを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。「このあたりでおやめになってはいかがですか。次はこんなものでは済まないかも知れない。犯罪は……薔薇でもなければ、カトレアでもありませんよ。まして籠の中で、珍しい鳴き声を上げる南国の鳥ではない」
彼女は黙っていた。十数秒後、彼女は決然と顔を上げた。
「精度は上がり続けている。次から距離を2百メートルに。車種も変えて」
「……かしこまりました」青年は深々と一礼した。
――彼と彼女の、邂逅の時は近い。
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