第1話 Femme fatale

【時間だ】

 耳孔に差し込んだイヤホンの位置を調整していると、前触れなく崇の声が聞こえてきた。【準備はいいか?】

 返事の代わりに数度こつこつとイヤホンを指先で叩く。鼻孔から息を吸い、また鼻孔からゆっくりと吐き出す。肩甲骨を上下させ、背中全体の凝りをほぐすよう努める。背中どころか全身が無意識の内に強張っていたことに、龍一は初めて気づく。

 歩きながら崇の声を聴く。【エレベーターが降下を開始してから十秒以内、30階と29階の間で停電が起こる。時間はかっきり2分間。相手はボディガードを入れて4人。できるな?】

 またイヤホンを叩く。

 前方にエレベーターホールが見えてきた。空調が効いているはずの廊下の空気が、湿気を含んだようにじっとりと重く粘く感じる。敷き詰められた絨毯に足首が沈んでいくような錯覚。

 ホールには先客がいた。アタッシュケースを鎖で手首につないだ男と、それを囲む屈強な3人の男。一様に険しい表情。エレベーターのドアが開き、男たちが乗り込もうとする。

「すいません」

 龍一は軽く頭を下げ、乗り込んだ。男たちは嫌な顔をしたが、静止はしなかった。

 ドアが閉まり、ボックスが降下を開始する。龍一と男4人を詰め込んだ空間は、実際以上に狭く感じられた。仏頂面の大男3人はともかく、アタッシュケースの男――胃の弱そうな痩せぎすの男だった――は不機嫌さを隠せていない。

 沈黙の中、エレベーターの階数表示が目まぐるしく変わる。47階――35階――31階――

 男たちに気づかれないように、龍一は軽く鼻孔から息を吸い込む。

 30階。

 轟音と共にボックスが大きく揺れ、一瞬遅れて全ての照明が消えた。

 人の目が暗闇に慣れるまで数秒――鍛え抜かれたボディガードでも不意の停電に対する暗視訓練など受けてはいないだろう。しかも龍一は、停電の数秒前に目を閉じていた。

 男たちの狼狽を聴きながら、目をつぶったまま隣の男の胸板に肘を叩き込んだ。分厚い肉と骨を通して確かに内蔵へ打撃を伝えた感触。げっ、という苦鳴と微かな吐息。

 間髪入れず、左隣の男のネクタイをつかみ、引き寄せながら掌底突きを顎に見舞った。拳による直接的な打撃ではなく、頭蓋骨に包まれた「脳を揺らす」ための浸透的な打撃。どれほど屈強な男だろうと「脳を揺らされ」て立っていられるのは漫画かアニメのヒーローの話だ。

 眉間を銃で撃ち抜かれたように男の身体が崩れ落ちた。胸を押さえて呻いていた男の頭を抱え、前方に投げた。大柄な体躯が一回転し、大音響とともにボックスの床に叩きつけられる。

 だがさすがにプロのボディガード、最後の一人が掛け声とともに背後から組み付いてきた。龍一の体躯がきしむほどの力。

 しかし、それこそ龍一の狙ったポジションだった。組み付かれる寸前、龍一は前方を向いたまま自分から男に体当たりしていた。タイミングをずらせれば、タックルの効力は減じる。

 背後の男もろとも、壁に体当たりした。壁と龍一の背でサンドイッチになった男の、蛙の潰れたような呻き声。

 一気に腕を振りほどき、振り向きざま前のめりになった男の後頭部に思い切り肘を落とした。最後の一人が糸を切られたようにどっと倒れ込む。

 息を吐――こうとして、龍一は呆然とこちらを見上げる視線に気づいた。壁際に尻餅をついたアタッシュケースの男、きれいにプレスしたズボンの股間に、じわじわと黒い染みが広がっていく。

 笑う気にはなれなかった。市井の人々は、間近でこのような暴力の行使を見慣れていないのだ。

 やや反省しながら龍一は男の顔面を鷲掴みにし、できるだけ優しく背後の壁に叩きつけて昏倒させたのだった。


 照明が着き、一度軽く揺れてから再降下を始めた。チャイムと共にドアが開くと、作業服姿の崇が「よ」とだけ言って手を挙げた。すぐにエレベーターにずかずか入り込むと、手にしたボルトニッパーを使ってアタッシュケースの鎖を切断した。何百回と練習したような手際の良さだった。

「手伝うか?」

「いや。カメラは殺してあるから復旧する前にその足で玄関から出ろ。後から車で拾ってやるから先に行け」崇は目も合わせず、作業用ワゴンにアタッシュケースを放り込んだ。別段異論もないので龍一はその言葉に従うことにした。

 エレベーターを使わず、階段を下って直接フロントホールへ降りた。御影石作りの壁も床も顔が映るほど磨かれて黒く、昼なお暗かった。行き交う人々のシルエットもどこか影法師に似て黒く、夢の中を歩いているような気分だった。フロントカウンターの背後では世界各地の時計が時を刻んでいた。カウンターの東側に薄暗いカフェ。客の姿はまばらで、コーヒーを放置したまま船を漕いでいる営業マンか、歯の抜け落ちた口でトーストを咀嚼している老婆たちがほとんどだった。

 龍一の視線が、一対の座席の前で留まった。

 ――カップを持つ白い手が優雅きわまりない動きで桜色の唇に近づいていくのが、なぜか薄暗がりの中でもはっきりと見えた。

 龍一と同年代の若い女、というより少女だった。カフェの薄暗さに溶け込むような黒のワンピースに、色鮮やかな光沢のある青灰色のストールを合わせている。赤みがかった髪は束ねず、肩まで伸ばしている。口元までカップを運んだ手が止まった。アーモンド型の大きな瞳が、確かにこちらを見た。

 あの視線の主だ。理屈ではなく、そう感じた。

 真横を通り過ぎた瞬間、少女がすっと立ち上がった。レジを素通りしたのは電子決済で支払いを済ませたからだろう。確かに、小銭など持ち歩いていそうにない風情だ。

 龍一は背に意識を集中した。彼のものよりわずかに軽い足音が近づいてきた。意外に早い。

「強盗稼業はお気に召した? 

 愕然とした龍一を容易く追い抜き、少女は肩越しに振り返った。十代の少女にしか浮かべられない、恐ろしく意地の悪い微笑が唇に浮かんでいた。無意識の内に手を伸ばしたが、彼女はそれに気づかず、気づくつもりもないような足取りでそれをすり抜け、ホテル玄関に停車した黒塗りの車に乗り込んだ。

 ほっそりした立ち姿が車内に消え、音もなく車は発進した。

 白日夢から目を覚ましたばかりの人のように、龍一は立ち尽くした。

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