♢ それは自分との闘い

私にとって、発声練習は自分との闘いだ。ただの準備運動というか、ラジオ体操というか、そういう喉を鍛える為だけの練習だと思っている人も多いだろうけど。私にとって発声練習は、立派に自分自身との闘いである。


「あ、おはよー伊坂井いさかいさん」

「おはよう黄桜きざくら君」


同じ一年生の部員と適当に返事しておいて、これからの練習に意識を集中する。校庭と校舎の間には、生垣と歩道にベンチがいくつか置いてある。雨の日以外は、放送部員の中でも発声練習しないといけない読みの人たちはここで練習する。


忘れようもない、私がこの部活に入って間もない頃はひたすら恥ずかしかったものだ。何が恥しいかと言えば、練習中に通りがかる人たちが、物珍しそうにこちらをジロジロ見てくるのが恥ずかしかったのだ。


特にその頃は、新一年生からの目線がキツかった。二年生や三年生は既にすっかり放送部の練習に慣れているだろうけど、一緒にこの高校に入った同期たる新一年生達にとって、堂々と「あー」だか「おー」だか「東京特許許可局」だか叫ぶ放送部員はアレだ。オカルト研究会に見えたかも知れない。


同級生にも「ねえねえ、あの校庭の横で練習しているのって伊坂井さん?」とかよく言われて、その度に気恥ずかしく思いながら「うん」と返事をしていた。


でも、それは違う気もしていた。


この放送部でこうして決まった場所で練習している以上は、歴代の先輩達も似たような思いをしていたはずなのだ。いちいち他人の視線なんて気にしていては、練習にすらならなかったはず。


自分は他人の目線を気にしすぎてはいないだろうか。いわゆる自意識過剰――?


それが少しだけ怖くて、ある日たまたま隣で練習していた先輩に相談してみた。


その先輩は、放送部だというのに発声練習の合間に缶コーヒーを飲むような非常識な先輩だったけど、不思議とその人柄は部内でも人気だった。


私がその先輩に、同級生からの目線を気にしすぎている自分が嫌だ。と、素直に告げると先輩はアッハッハと愉快そうに笑ってからこう言った。


――放送部って読みの人はいくつかの大会に応募するものだけど、それで予選を通過しちゃったら実際に多くの人の前で発表するんだよ?発声練習する度に恥しい思いなんてしていたら、大会に作品出すなんて恐ろしい真似は出来ないね。だからさぁ……


先輩はこちらに身を乗り出し、私の目を真っ直ぐに覗き込んできた。その目は淹れたてのコーヒーのように真っ黒で、どこかに情熱を秘めている感じがした。


――君がもしも周囲のことを気にしてしまうのなら、それはちゃんと集中出来てない証拠だと思えばいい。実際には、人の目があるからこそ集中出来る人もいるんだけど。君の場合は、発声練習を「自分との闘い」と捉えるところから始めてみるというのはどうだろう。


「自分との闘い、ですか?」


――そう、「自分との闘い」だ。発声練習って奴は何も無いだだっ広い空間に向かってするものだろう?だから目標を持ちにくいんだ。よりいい声にしようという志さえ、広い空に吸い込まれて消えてしまいそうになる。だから、その場にいる自分自身を強く意識するんだ。そうすることで、周囲を気にせず練習に打ち込めるかも知れない。まあやってみればいいさ。


「……ありがとうございます、参考になりました」


コーヒーの先輩(名前は覚えていない)からのアドバイスは何となく見に染み渡るような心地がして、思わず礼を言ってしまった。




それからというもの、私は常に私自身をイメージしながら発声練習した。初めの頃は目を瞑って自分自身の姿を思い描きながら練習していたのだが、それでは声が遠くに飛ばないと気づいて目を開けたままでイメージするようになった。


昨日の自分を、今日の自分はどこまで超えることができるのか。

私は常にその事を考えていた。例えば、発声練習の中に息継ぎせずに「ハ行」を述べるというものがあって、私は肺活量が足りないのか途中で息切れしてしまうのだ。ハ行と言っても特殊な練習をする。


「はひふへほひふへほはふへほはひへほはひふほはひふへ」


……これを息継ぎせずに言うのは中々難しい。「はひふへほ」の順序を規則的に入れ替えて5回繰り返しているのだが、これこそ聞いている人にとっては妙な呪文にしか聞こえないだろう。


人の目を気にしている状態では3回目くらいで息切れしていた。


「お前、息切れ早すぎない?俺でも4回目まで行くんだけど」

冴霧さえぎり君、うるさい」


苦手なヤツにダメだしされて、心の中では少し落ち込んでいた。

自分との闘いを始めれば、息切れするタイミングは4回目辺りになり、次第に上達していった。


(私はあなた昨日の私より上手くなりたい)


それだけを考えて練習する毎日は、私自身を自覚なしに少しずつ変えていった。


「よお伊坂井。元気してるか?」

「アヤちゃん?久しぶりだねー」


春も終わりに近づく頃、私はアヤちゃんと偶然にも私鉄の改札口で再開した。時間がお互いに開いていたので、近所のファミレスで色々話した。

違う高校に進学した親友と、つもる話を沢山した。宿題のこと。勉強のこと。先生のこと。部活のこと。その他諸々。


さんざん近況報告して、喉が疲れたのでオレンジジュースを煽るとアヤちゃんがどこか遠い目をしていることに気づいた。


「どうしたのアヤちゃん。なんかボーッとしているみたいだけど。話疲れた?」

「ん……いやね。確かに色々話しているうちに疲れたんだけどさ。意外だなーって思っちゃって」

「え?どんなことに?」

「伊坂井さあ、昔は引っ込み思案だったじゃん。何をするにしても何だか臆病で、それこそダジャレじゃないけど、いさかいが起きるのを恐れている……みたいな」


アヤちゃんはストローでアイスティーの氷をカラリとかき混ぜる。


「でも久しぶりに会って、何だか変わったみたいで安心したわ。中学の時なんてもう私が保護者にならないと!って思っちゃうくらいにはビクビクしてたのに、今は堂々としちゃってさ。さっきもドリンクバー、ひとりで行ったじゃん。昔は私が付き添ってたのにさー」


その残念そうな感じに、思わず「ごめん」と謝ってしまう。


「いいってことよ、伊坂井。あんたはあんたで成長出来たってことでしょ。私は純粋に嬉しいんだよ。伊坂井が独り立ちしたなーって。これからも大変だろうけど、頑張れよ伊坂井」


その笑顔は私が今までに見たアヤちゃんの表情の中でもとびきり最高で、私は缶コーヒー先輩とこれまでの私自身に感謝した。


「ところで、どうしてそんなに変われたの?何か自覚ある?」

「うーーむ……それは乙女の秘密ですな」

「何それ」


私とアヤちゃんは顔を見合わせて、また笑い合った。

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