第四話:アンダーエージェント

 英二は驚きを露にしたが、やがてある事実に思い当たった。

「いや……でも確かに誰かに見られているような、そんな感覚はこれまでずっとあった……」

「さすが、勘が鋭いね。君の人生はこれまでずっと、誰かに影から視線を向けられていた。だがそれは決して君に危害を加えようとするものばかりではない。君を守ろうとするものも含まれていたんだ。そう、この私のようにね」

 英二の頭の中には今すぐ投げかけたい質問が洪水のようになだれ込んでいた。

「君を狙っているのは、知られざる秘密工作員、通称“アンダーエージェント”と呼ばれる人間達だ。そして、少々ややこしくて申し訳ないが、君を守ろうとしているこの私もそのアンダーエージェントの1人だ」

「アンダーエージェント……?」

 聞き覚えのないその単語を耳にし、英二は言葉に詰まった。

「ここからは君がこれまで培ってきた常識からは全く外れた話になる。簡単には受け入れられないだろうし、混乱もするだろうが全て現実だ。だからひとまずは私の話を落ち着いて聞いて欲しい」

 そう言うと慎は手元のコーヒーカップを手に取って一口含み、少し間を置いた後に話を続けた。

「アンダーエージェントとは、普通の人間には困難な課題や問題を解決するために存在する、いわば特殊技能集団だ。各エージェントは高い身体能力や知性、そして各々の特殊な能力を用いて、決して一般人には見られることなく影で任務を遂行する。この世界でその存在を知るものは一握りの限られた要人のみだ」

「一握りの人間にしか存在を知られていない……地下社会の人間ってこと……?」

「地下社会、それは半分正解で、半分不正解だ。確かにエージェントが生活基盤を置いているのは地下社会と呼べるだろう。だが君たちがイメージする地下社会とは大きく異なる。その言葉を使う時、地下とは抽象的な概念として用いられている言葉に過ぎないはずだ」

 英二は慎の言葉を何とか噛み砕いて理解しようとするのに必死だった。

「一般人が関与することのない、ヤクザやマフィアが生きる世界。それは地下社会とは言えど、確かにこの地上に存在する世界だ。あくまで概念としての地下であって、物理的な地下では決して無い。だがエージェントが暮らす世界は、本当に物理的に地下にある世界だ」

「どういうこと……?」

 いよいよ慎の語る内容が理解出来なくなってきた。

 地下に存在……抽象的概念……いったいこの男は何を言っているんだ……?

「この地上に存在せず、地表を隔てた地下にまた新しい世界が広がっているということだよ」

 すぐに飲み込むにはあまりに突飛な話だった。

 英二は俄かに目の前の慎に対する不信感を募らせ始めた。

「疑いの眼差しとは、このことを言うのだろうな。まあこちらもいきなり信じてくれなんて期待してもいない。ただ、その世界は現実に存在するし、私はちょうどそこからこちらの世界にやってきている。さて、君がこの話を信じるきっかけとなることを願って、1つ面白いものを見せてやろう。ちょっと目を閉じてもらってもいいかな?」

 相変わらず不信感は抱きながらも、英二はその言葉に思わず興味をかき立てられた。

 しばしの逡巡ののち、英二は素直にそっと目を閉じてみた。目の前が暗闇に包まれた。

 すると、前方の暗闇から慎の声が響いた。

「さあ、では君がこの世で一番親しいと思っている相手を思い浮かべてみてくれ。老若男女は問わないから、直感に素直に従ってくれればいい」

 英二の頭の中には自然と藍の顔が浮かんできた。

「オーケイ、じゃあ目を開けてごらん」

 再び前から慎の声がした。

 英二はゆっくりと目を開け、飛び込んできた目の前の光景に思わず驚きの声を漏らした。

 藍がそこに座っていた。

 いったいこれは――

 驚きの表情を浮かべる英二に向かって、目の前の藍が口を開く。

「びっくりしたかい?」

 その声は慎そのものだった。

 目から入る情報と耳から入る情報が余りに結び付かず、英二の脳は更に混乱を起こした。

「後ろを向いてごらん」

 再び慎の声で藍が話しかけてくる。

 英二は訳が分からないまま後ろを振り返った。

 そこには特段変わったものは何もなく、テーブルと椅子、その先には窓が見えた。

 何だ、別に何もないじゃないか……

 頭に疑問符を浮かべたまま再度前に向き直ると、そこには藍の姿はなく、直前までと全く同じ慎の姿があった。

 いったい今日はどれほどの理解不能な出来事と向き合えば良いのだろうか――

「びっくりしただろう。だが、我々エージェントの力を使えばこれくらいのことは朝飯前だ。君の常識を超えた世界があるということ、少しは分かってくれただろうか」

 慎が再びゆっくりとコーヒーを口に運んだ。

 カップをテーブルに戻し、英二の顔をひたと見据える。

「ふむ、疑いの眼差しから驚きの眼差しへと変わっているみたいだね。良い兆候だ」

 慎は口角を上げて顔に小さく笑みを浮かべた。

「私たちはこのような特殊能力を身につけている。能力は人それぞれで、生まれながらにしてほとんど決まっていることが多い。日々困難な任務を遂行するにあたり、不可欠なものでもあるし、この力を持っていることが地下世界に足を踏み入れる資格でもある。そして、驚かないで聞いて欲しいが、君もその能力を持って生まれてきた人間なんだ」

「そんな馬鹿な……そんな不思議な力、今まで一度だって感じたことないよ……」

「まだ君の中に眠っていて完全には覚醒していないだけだ。君が気付いていないだけで、目覚めようとする兆候はこれまで何度もあった。その度に私たちは君のことを注意深く監視していたわけだがね。こちらの世界でその力が暴走でもしたら大変だから」

 英二は両手を頭に当てて俯いた。

 自分が一体何者なのかが分からず、己の存在を不気味にさえ感じていた。

「その力って、何なの?」

「それは」

 その時唐突に慎が「失礼」と英二に断りを入れ、さっと額に右手を当てた。

「慎だ。どうした?」

 どうやらまた例の特殊な力でこの場にいない誰かと通信をしているようだ。

 しばらく慎は相槌を打ちながら発信者の話を聞いていた。

 しかし、話を聞く慎の顔は徐々に険しさを帯びていった。

「なるほど、それはまずいことになったな……」

 カフェの2階には徐々に不穏な空気が漂い始めていった。

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