第五話:追跡
「すぐに向かうよ。じゃあ、また後で」
そう言うと慎は額から手を離し、振り返って英二の目をまっすぐ見て口を開いた。
「……一ノ瀬藍が誘拐されたようだ」
英二は想像だにしない事態に思わず絶句した。
なぜ藍が標的に――
頭が真っ白になり、思うように言葉が出てこない。
「動揺するのも最もだ。とりあえず、外傷はないようだからそこは安心してくれ。彼女が街中を歩いている際に身柄を拘束され、連れ去られたようだ。犯行グループは、君を襲った男が属する集団だ」
「そんな……俺のせいで藍が……」
「落ち着け。もちろん君のせいなんかじゃないし、自分を責めたところで何も始まらない。彼女を無事に救い出すためにどうしたら良いか、それだけを考えよう」
蒼白な顔をした英二は慎の言葉にただ「ああ……」と掠れた声を出して頷くことしか出来なかった。
「犯行グループは車に乗って逃走しているようだ。私の仲間がしっかり後を追いかけているから姿を見失うことはない。彼には追跡を継続してもらうが、私たちはひとまずまた別の仲間と合流しよう」
「他にも仲間が……?」
英二は思わず問いかけた。
「ああ、私の他に2人がこの件で動いている」
自分の知らない所で多くの人間が関与していることに英二は驚きを覚えた。
「じゃあ急ごうか」
慎はすぐにその場から動いた。英二は慎について急いで階段を降り、カフェを出た。
藍のことを思うと胸が痛んだ。一刻も早く藍を助けたいという気持ちで一杯だった。
「こっちだ、着いて来い」
慎はカフェの前の路地を左に向かって走り出した。慌てて英二も後を追う。カフェで一息ついたため英二の体力は幾分かは回復していた。
慎は走りながらも器用に誰かと通信をして話し始めた。英二は着いて行くのに必死で慎が話す内容までは追い切れなかった。
慎に続いてしばらく走り続けると、狭い路地裏を抜けて大通りへと抜け出た。
大通りに出るとすぐ近くに黒塗りの車が停車しており、慎はその黒塗りの車へと駆け寄って行った。
「仲間の車だ。急いで乗り込め!」
慎はそう英二に呼びかけると、車の後部座席のドアを開け中に乗り込んだ。急いで英二も車に乗り込みドアを閉めた。
「ご苦労、
慎が運転席に座る男に声を掛けた。
「どうってことないですよ、ボス」
運転席の男はそう言ってこちらを振り返り、掛けていたサングラスを額の上にずらしてにこりと笑った。
「彼が、桜井英二だ」
慎は兵馬と呼んだその男に英二を紹介した。
「やっと会えて嬉しいよ。俺の名前は
兵馬は英二に向かって右手を差し出した。
「少年って……」
英二はしぶしぶその手を握り返した。
「お前と話したいことはたくさんあるんだがね、状況が状況だけにいったん後回しにさせてもらおうか」
「事態は緊急を要する。兵馬、奴らはどこへ?」
「海沿いの拠点へ向かっているようですね。一度拠点の中へ連れ込まれると厄介なことになるんで、それまでに彼女を奪い返したい」
「分かった。最短ルートでそこへ向かおう。奴らよりも先に到着して待ち伏せるぞ」
「ラジャ。ちょっくら飛ばしちゃいますから、ベルトはしっかり締めといてくださいね」
そう言うと兵馬はハンドルを握り直して周囲を確認すると、思い切りアクセルを踏み込んで車を急発進させた。その反動で英二の体は後ろへ仰け反った。
「まったく、相変わらずの飛ばし屋だな」
慎も思わず言葉を漏らす。
「安全運転の保証はないんでしっかり掴まっててくださいよ」
そう言うと兵馬はさらにアクセルを踏み込んだ。
車のスピードは体験したことのない領域に入っていた。周囲の景色は一瞬ではるか後方へと置き去りにされていく。その様は、想定外の出来事が怒涛の勢いで降りかかってきた今日の自分の境遇に重なるように思えた。
そんな英二の心境にお構いなく、車はさらにそのスピードを上げた。
しばらくして、目の前に海が見えるようになって来た。海岸沿いを数分走った後、兵馬は水際の駐車場に車を停めた。周囲にはショッピングモールなどの商業施設が立ち並んでいる。
「ボス、着きましたよ。奴らの到着まではもう少し時間があるようだ」
「ありがとう、さすがのドライビングだったな。さて、奴らを待ち受ける準備に取り掛かろうか」
「拠点はこのショッピングモールの中の2階のフロアに入り口があるようです」
「このショッピングモールの中に奴らの拠点が……?」
英二は兵馬のその言葉が俄かには信じられなかった。こんなにたくさんの人々が行き交う場所の中に、危険集団の拠点があるなんて想像も出来ない。
「これもまた君にとっては不思議な話だろうな。奴らは特殊能力を用いてその拠点の入り口を何ら変哲もない店のように見せかけている」
「驚くのも無理はねえよな、英二少年。だけどこんなのは氷山の一角に過ぎないのさ。ほとんどの人間が知りもしない世界がたくさんあるってことだ。目に見えるものだけが全てじゃねえ」
英二は自分の価値観が根底から覆されるような気持ちだった。自分がこれまでこの目で見ていた世界とは何だったのだろうか。この世界は自分が思っているよりもずっとずっと底が知れない場所のようだ。
「でもこんなにたくさん人が集まっている場所の中を、どうやって誘拐した藍を連れて進むのさ? どうやって進むにしたって絶対に怪しまれるに決まってる……」
「人の見えている景色を変えることが出来るくらいだ、人の姿を見えなくすることくらい訳ないさ。奴らは自分たちの姿を消した状態で拠点に辿り着こうとするだろう。その見えない相手を検知し、奇襲をかける。そして彼女を取り戻す。それが今回の私たちのミッションだ」
慎が答える。だが、まるで想像してみることさえ難しい。
ただ英二にも、絶対に藍を無事に取り返したいという強い気持ちがあることだけは確かだった。
「……俺に出来ることはある?」
この未知の状況の中でも、英二の心の中の火は消えてはいなかった。
「おっと、その気持ちは買うがまだお前はただの一般人だ、英二少年。ここで大人しくしていてくれれば、俺たちが無事に彼女を連れ帰ってくるから安心しろって」
「嫌だ。俺だけ遠くから指を咥えて見ているなんて……俺も一緒に連れて行ってくれ」
「おいおい……何とか言ってやってくださいよボス」
慎はじっと英二の顔を見つめた。しばらく英二の顔を見つめた後、慎は兵馬の方に向き直った。
「彼も連れて行くぞ。大丈夫、私がついているから心配はない」
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