落花

夏雨 ちや

落花

 兄さんは、私が剥いた林檎をんでいる。

 窓の外は夕間暮れ。陽射は赤くはげしい。カーテンを閉めようと立ち上がった私に、兄さんが問うた。

「こんな時分じぶんだったかな、あれは」

 なにが、と問い返す必要もない。あれはお互いに忘れられない記憶。幼かった頃の思い出。あの時、私達は幾つだったのだろう。

 お使いの途中なのか、遊びの帰りなのか。そのどちらでもないのか。私は兄さんと二人、手をつないで細い路地を歩いていた。

 セーターにマフラー、お互いの手のぬくみ、吐き出される白い息。影がずいぶん長かったように思う。

 のんびり歩いている矢先、不意に鮮やかな色が目の前に立塞たちふさがった。

 緑の樹。赤い花弁、黄色のしべ

 椿だよと、兄さんが教えてくれた。

 ぽたり、ぽたり、ぽたり――面白いように次々と根元からもげて落ちる赤い花を、なんとなく二人して眺めていた。落ちた花がつもって、足元はだんだんと赤くなっていく。

 不意に音がした。葉擦はずれを盛大にたてながら、木の上からが落ちてくる。

 花にしては大きい

 それは重い音を立てて地に当たり、点点と転げて、私と兄さんの足元までやって来た。

 それと見合うことしばし、兄さんは私を置いて駆け出した。

「あれは怖かったよ。いきなり上から猫の首が降って来たんだから」

 私はカーテンを閉める手を止めた。肩越しに振り向く。

 白い病室。白いベッド。トレイの上で林檎の皮は螺旋らせんを描く。まるで赤い蛇のようだ。

 枕を背に挟み、ベッドに上体を起こしている兄さんの顔から目をそむけ、私は粗いカーテンの布目を見つめた。

 兄さんとこの話をするのは初めてだったが、猫に見えていたというのは驚きだった。何故なら、私があの時見たのは、男の首だったのだから。

 見知らぬ男の首。青白く瘠せた、記憶の底に貼り付いてしがみつく、あれは誰かの

「なのに、お前はずっとあれを見ているんだからな。あわてたよ」

 半町ほど駆けてから私がいないのに気付いたらしい兄さんは、取って返すや否や、私を抱え上げてまた駆けた。昔から足だけは速い人だった。

 私はただじっと、あれと見合っていたわけではない。

 あれが告げる事に魅入みいられていたのだ。

 あの死顔は、いやらしい声で、いやらしい言葉を並べ立て、父さんの裏切り、母さんの自死、兄の夭折を私に告げた。そして――。

 ゆっくり振り向くと、兄さんが柔らかく笑った。笑みをかえし、私はカーテンを閉めた。

 赤い光は途切れ、ほんのりと病室は暗くなる。部屋を横切り、電気をつけた。

 白々したあかりの下の兄さんの顔は、死病にむしばまれていくほどに、あの死顔に似ていった。

 そう、あの死顔は、何一つ嘘をかなかった。あの罵りさえも、正しかった。

 両親も係累も無く、看護を必要とする兄さんは私の掌の内にある。

 兄さんを独占している今に、隠し切れない悦びをおぼえている私は、既に落ちているのだろう。

 兄に抱えられながら逃げ去ろうとする私へと投げられたあの薄っぺらい嗤いと厭らしい声が、耳の奥に聞こえる。

「畜生道」と叫ぶ声が――。

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