インターセプト5

 川沿いに下ると、子どもたちの腰の高さくらいの段差があった。大した高さではないので、順番にその段差を飛び降りる。


 しばらくすると、また段差がある。今度は先ほどよりもやや高低差があるものだ。


 手をついたり、膝をついたりしながら慎重に降りる。


 そうしていくつかの段差を越える。子供たちの隊列はその度に伸びたり縮んだりした。まるで尺取り虫の行進のようだ。


 先ほど一悶着あった二人だが、お互いに距離をとって歩いた事でそれ以上の衝突は起きなかった。まきなは先頭を進む赤沢教諭のすぐ側を、しずくは最後尾をのろのろと進む。


 少しの間気まずい空気が漂ったが長くは続かない。周囲の風景が森林限界を超えた岩肌ではなく、緑の濃い森林へと変化していく事で緊張も解けていったからだ。


 早く戻りたいと言う気持ちから、歩くペースも早まっていく。


 …………。


 再びもやが周囲を覆い、見通しの悪さから一行はいくつかのグループに分かれてしまう。


 お互いの姿も確認できない中、沢沿いに険しい岩や木の根を這うようにして下る。


 人が通る事を想定した登山道では無い。けもの道や、たまたま岩肌がむき出しになっただけの部分を、転ばないように気をつけて歩く。


 それでも、地上に、人里に近付いているという希望が子どもたちの足を進めた。


 ふと、濡れた服が熱を持っているように気が付いたのはまきなだった。


 先ほどまで凍えの原因だった服が温かく感じる。身体を動かしている事による発熱がもたらされたのか、何にしろ有り難いと思った。


 ……ちなみに、体温が一定まで下がると、それ以上の体温低下を防ぐために体表の血管が収縮をして、体の芯となる部位を守る現象があるのだが、その反作用として「寒かったはずが暖かく感じる」。


 当然、実際に暖かい訳ではなく、放置していると重篤な結果をもたらす。これが発展した行為として、「矛盾脱衣」と言うものがある。


 毛穴が閉じきって放熱がなされない状態でありながら、体は生命維持ほためどんどんと熱を発する。冷え切った体表と外気温の差が無くなることも錯覚を助長し、まるで灼熱の砂漠に投げ出されたように熱く感じてしまう。


 ここまで行ってしまうと、生命維持という面から見てもイエローシグナルが灯った状態と言える。


 幸い、今はまだその段階ではない。


 だがそれは時間の問題でもあった。


 沢沿いの道は所々袋小路のようになっていて、ときおり来た道を引き返さなくては行けなくなる。一度下った斜面を再び登るのは、体力的にも精神的にも負担が大きい。だがそうせざるを得ない。


 日が傾きかけて来たことを、靄が灰色にくすんで来たことから察した赤沢は腕時計を見遣る。


 これが平地であれば日没までまだ少し時間の余裕があるはずだが、太陽は既に山の陰に隠れてしまったのだろう。


 知識として知ってはいたことだが、こうして目の当たりにすると酷く消耗を早める事だと判る。


 ぼんやりとした、夢の中で抱くような焦りが彼女を包んだ。


 疲れから、状況を正しく認識することができない。


 一方、しずくのおぼつかない足取りに、横を歩くはつねは不安を覚えたが、実のところしずくの状態は子供たちの中ではかなりマシな方だった。


 山道を登る時も、渡渉の際も身体を濡らす事なく、下山の時に初めてビニール製の雨具に着替えているからだ。汗もあまりかいておらず、消耗も少ない。


 自身のコンディションを把握していないはつねのほうがよほど……。


 下に滝壺が見えるちいさな崖に行き着いた二人は、立ち止まって顔を見合わせた。


「ここ、降りたと思う?」


 前にも背後にも人の気配はない。随分と離されてしまったようだ。


 剥き出しになった岩肌にこびりついた泥を確認して、しずくが答える。


「多分、皆さん降りていったのだと思います……でも」


「やっぱり、戻った方がいいんじゃないかって……」


「まだそんなこと言ってるの? みんなもう行っちゃったんだよ?」


 せっかく待ってあげていたのにしずくがそんなことを言うものだから、はつねは少しだけいら立ちを含んだ言葉を返す。


 赤沢教諭が山を下ると決めたのに、何故この娘はその逆を行こうとするのだろう。


 しずくのことは放っておいて、はつねは濡れた岩を踏んだ。ほんとうは四つん這いになった方が安全だったが、怒っていますというアピールも兼ねて、力強く足を叩きつけたのだ。


 瞬間、


 はつねの視界はくるんと回転した。


 グリップを失った靴が勢いよく跳ね上がり、空を切る。


 岩場にどしんと尻餅をつくと、斜面に沿って身体が滑って行く。先にあるのは崖と、滝壺だ。


「あっ、やっ、ああっ!」


 ばたばたと手を振り回して近くのものを掴み、宙ぶらりんになりながらも、からくも滑落するのを回避する。


 とっさに手が届いたか細い枝のようなものは、はつねの腕をぐっと握り返してきた。


「あ」


「掴まってください!」


 間一髪、しずくの右手が届いていた。


 左手はしっかりと岩場を支えることが出来ており、二人とも一緒に落ちてしまうことはなさそうだ。


 だが、そこから事態が好転することはない。


 しずく自身も大きく斜面に身を乗り出しているし、安全なところに戻る為二人分の身体を引き上げることはかなわない。


 第一、はつねの身体はしずくより一回り以上大きいのだ。


 このまま、ずっと滑落しないよう支えていられるわけではない。じりじりとその体は滑り落ちて行く。


 はつねの両足は完全に地を捉えておらず、何とか這い上がろうともがくと、逆に滝つぼへ近づいて行ってしまう。


 水深はあまりなさそうだ。それはつまり、落ちれば川底にしたたかに身体を打ち付けることを意味していた。


 ぞっとする。


「は、離さないで……」


「離しません、ぜったい!」


 そうは言っても、現状を打破する手段は無い。


 二人で助けを求めて叫んだりしてみるも、他の子ども達はずっと先を歩いており、霧の向こうからの反応は無かった。


 ただ、残された時間だけが目減りして行く。


 ……。


 …………。


「うぅぅ……」


 気がつけば、しずくは泣き出していた。


 鼻水まで垂らしてくしゃくしゃになった表情だが、こんな時でも絵になるのを、お互いの手首に指先がくい込んでみみず腫れができているのを、はつねはじっと見ていた。


「……」


 こうしてぶら下がっていられるのも、もう間も無く終わってしまうという確信がある。


 そしてその時は、程なく訪れた。


 しっかりと繋がれていた手が、解ける。


 慌てて差し出した左手は僅かに数センチ届かない。


「あぁっ!」


 ——その距離は、絶望的なまでに遠い。


 はつねは、真っ逆さまに落ちて——


 ——行かなかった。


 それは一瞬の事で、この場にいた二人にもよく分からない。


 ——落下の瞬間、しずに覆いかぶさるように「何か」が現れた。


 それがはつねの腕を掴むと、その身体を安全な場所まで引き上げたのだ。


 ほんの瞬きの間の出来事。


 でも、はつねは“見ていた”。


 なにも無い所から突然現れた真白い体躯を。


 セラミックのように硬く、ひやりとした感触。


 細く長い、大人のサイズの腕だった。


 だが、節くれだった球体関節は生身の人のモノではない。


 そして、その貌は……。


 ……。


 …………。


 気がつくと、二人は足場のしっかりした斜面に寝かされていた。


 先に目覚めたしずくは、しばし一点を見てボーっとしていたが、何かを決意したようで、はつねが眼を覚ますのを見計らって自分の意見を伝えた。


「……やっぱり、戻りましょう」


「理由は聞かせてもらえるの?」


「あの……この状況、私たちだけでは正しい判断はできないのです。だから大人の言うことを聞かないといけないと思うのです」


「それなら赤沢先生が判断したでしょ?」


「私は! ……私は……あの人の……先生の……言うことを信じています。だから、そちらの判断に従おうと思います」


「……もう、自分たちの力だけで下山は出来ないんじゃないかなって」


「先生は……そんな時は山は不用意に下りちゃダメって言ってました。見つかりやすい場所で……助けを待たないと」


「そんなの、来てくれるかなんてわからないじゃない」


「来てくれます。きっと」


「信じているってそういう事なのです。……だから、戻らないと」


「もし……皆さんが無事に下山できればそれで良いのです。私だけが……救助の手間をかけて怒られたって構いません」


「でも……皆さんが途中で立ち往生してしまったら? 誰かが分岐点で待っていないと……探すのにも時間が掛かってしまいます」


「そうなったら……」


 たどたどしくそう言うと、はつねはそれに感化されたのか、はたまた諦めているのか、先ほど助けてくれた彼女を立てるように、強い否定はしなかった。


 ただ最後に、「先に行ったみんなは無事に下りたかもしれない。戻った私たちは見捨てられるのかもしれない。それでも行くの?」と問いかけた。


「もしそうなったら、私と一緒に死んでください」


 その問いに、当然のように、そうあるべきというように、聖母のような微笑みでそう答えるしずくに、はつねは呑まれてしまった。


 ————


 来た道を再び戻るというのは、体力の消耗以上に精神力との戦いになる。


 闇に閉ざされた世界で、しずくのザックに入っていた小さなヘッドライトだけが世界を照らした。


 下るのに費やしたより多くの時間を掛けて登る。


 幸いな事に、濃い霧も、雨も、すぐに二人より下の標高に流れていき、雨具の必要は無くなった。


 街の灯から遠く隔離されたこの場所では、星がよく見える。


 しずくは夏の終わりに車のサンルーフ越しに見た流星群を思い出していた。


 あの時は、自分が何か特別な存在のように思えたが、今は……無数にある星の中のひとつの惑星の、更に無数にいる生き物の中のたったひとつ。自分が地表を蠢く虫のように思えてきてしまう。


 垂れてきた鼻をすする。


 今はただ、その虫にも五分の魂があると信じるしかない。


 ……。


 しばらく歩くと、はつねが膝をついた。


 もう歩けないという。ハンガーノックだ。


 食べ物なんて持ち合わせておらず途方に暮れかけたが、ザックから甘い匂いがすると言われ全てのポケットを改めると、底の方から2つ包装された羊羹が見つかった。


 真空のパックだ。匂いなんてあるはずもないのだが、研ぎ澄まされた嗅覚が探知を可能にしたのかもしれない。


 銀色のパッケージを捲って齧り付くと、稲妻のような甘さが駆け抜ける。糖分やミネラルが身体中に染み渡り、じんわりと温かさが広がっていく。


 二人で顔を見合わせて、今日はじめて少しの笑顔を見せた。


 そのおかげか、歩きはじめた足取りはやや力強い。


 だがそれも直ぐに辛くなってしまう。少し歩いて、立ち止まって。芋虫のように沢沿いを戻っていく。


 時計も無ければ、地図も方位磁針もない。


 自分達が何処にいるのかすらわからない。


 もしかしたら時間はとうに止まってしまっていて、永遠にこの暗闇を歩いて行かなくてはいけないのかもしれないと錯覚さえする。


 それでも、前には進んでいる。


 それだけを希望にして、二人は岩肌の剥き出しになったガレ場までたどり着いた。


 風を遮る木々の無いガレ場は、冷たい風が吹き荒れていた。


 はつねはここを更に登るのかと、絶望感に苛まれたが、しずくは黙ったまま歩を進めた。


 今度は、はつねが歩きながら涙する。


 家に帰りたいと。もうどうだっていいと。


 ぐずり出したはつねを背後から押しながら歩く。


 そうしていつのまにか稜線の近くまで来ていた二人は、風を遮ることが出来る岩の陰にうずくまり、抱き合って暖をとった。


 そのままでは寒いので、ピンク色の雨具もすっぽりと被る。


 とても体の休まるような状況に無かったが、精神的、肉体的な疲労から意識を失うように眠りにつく。


 空は、明るみはじめていた。

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