インターセプト4

 しとしと雨が降り始めた。


 幸い勢いはそれほどでも無い。


 びしょ濡れになる前に、ビニールのカッパを取り出してそれぞれ着込む。


 しずくは他の子供たちと同じようにそれを着るか、自前のセパレートタイプの雨具を着るか思案し、結局後者を選択した。


 視認性の高いピンク色の雨具は周囲に対して浮いていて気恥ずかしさもあるが、それよりも安全への配慮が勝まさった。


「わぁ、かわいいねーそれ」


「あはは、ありがとうございます」


 はつねから褒められて悪い気はしないしずくだったが、自分だけ良い装備をしている事に同時に申し訳なさも感じる。


 幸いなことに、この時はまだ、一人だけ違う格好をしている事を咎められたりはしなかった。


 良くも悪くも、施設の子供たちは他者への関心が薄い。


 しずく自身も知らない事だが、このセパレートタイプの雨具は、ビニール製に対して価格が数百倍の製品だ。それは性能の差として如実に現れる。


 有事の際には、文字通り生死を分ける程に。


 …………。


 改めて稜線を歩く。


 濡れた岩場は滑りやすく、子供たちは転んだり尻餅をつきながらゆっくりと進む。


 いつのまにか、子供たちはカッパの下をびしょびしょに濡らして行進をしていた。


 カッパに不良があるわけではない。


 ビニールは透湿性が無いため、体から出た汗がいつまでたっても蒸発せず、衣服の中に留まってしまうのだ。


 このまま運動を続けると首から下は雨に濡れるのと全く変わらない状態になってしまい、それは著しく体温を奪って体力の消耗を助長する。


 先ほどの休憩時に縮まった子供たちが歩くペースの差は、再び大きく離れてしまった。


 そのせいもあってか、今晩泊まる予定の山小屋までの歩みは遅々として進まない。


 雨足はだんだんと強くなっていく。


 体を隠す場所の無い稜線では、上から下から吹き付けるような風が吹くのだ。これ以上天候が悪化すればまっすぐ立っていられないほどになってしまう。


 一人だけ体を濡らさずに済んでいたしずくは、後方からその隊列を見ていた。


 鉛色の空の下を、枯れ草色の塊がうぞうぞと這っていく。


 このあいだしずくが「彼」と二人で登った山とは対照的だった。子供たちは言葉も無く、いつ終わるとも知れない道をただ歩き続ける。


 そこには充足感も幸福感も無い。


 稜線の先、空と山が交わる場所に本日の寝床である小屋が見えてくるはずだ。そこまで行けば、ようやく腰を落として休むことが出来る。


 濡れた衣服も乾かすことが出来るだろう。


 この時は、まだそのくらいの思考をする余裕もあった。


 ……。


 …………。


「川がある……」


 行く手を阻んだのは予想外のものだった。


 小さな峰と峰の間を川が流れていたのだ。


 本来はしっかりとした登山道がある場所なのだが、断続的に続いていた雨がそうさせたのか、ともかく一行は立ち往生する事になる。


 まきなが手近にあった枝を突き立ててみると、水深は彼女の膝上くらいで結構深い。取り巻きの子ども達と顔を見合わせる。


 赤沢教諭は思案した。


 このルート以外に目的地へ辿り着く道は無かったはずだ。これはお遊びではなく作戦任務で、きびすを返して下山というわけにはいかない。


 作戦を遂行できない指揮官には厳しい責が待っている。


 そのためどうしてもここを渡らねばならない。難しいことはない。


 いま必要なのは根性だけだ。


 根性……。まさに旧時代の軍隊じみていて好みでは無かったが、その選択をせざるを得ない。いや、そう仕組まれているのかも知れなかった。


 今回の遠足を計画した者、組織の上層に居るのがその旧時代から生きている人間なのだ。


 この辺りは致し方ない。


 下々の者は仕方なしに「やるしかない」のだ。


 川の流れはそれなりに速く、少し先に下って行くと急に視界から水面が消失する。


 赤沢が近づいて確認すると、小高い崖があり、そこへ滝のように吹き落ちているのがわかった。


 単独で渡渉するリスクは大きい。


「……これから、この川を渡ります。全員で手を繋いで順番に並んでください」


 そういう判断を下したのだった。


 これなら誰かが転んだとしても流されることはない。


 子供たちはやや戸惑いながらも従い、一列に並んで手を繋いだ。


 …………。


 赤沢が先陣をきってその川に足を入れると、氷水のような冷たさが運動靴を貫通し、突き刺さるような痛みとなって爪先を覆った。


 慌てて水面から足を引き抜きそうになるが、最終的には向こう岸に渡らねばならないのだと考え至って諦めたように川を漕ぎ始める。


 ざぶざぶと音を立てて進むと、子供たちが騒ぎ出した。


 全員が同じ装備だ。ボロの運動靴はあっという間に水を通すし、おそらく綿で出来ているだろうボトムスもよく水を吸う。


 足元の重量がかさむ。


 おまけに、定期的に川になるであろうこの場所では、転がって行かない程度の大きさの岩は軒並み苔生していた。


 それがたっぷりと水気を含んでいる状態。


 つまり、大変に足場が悪い。


 必然の流れで子供たちの誰かが転倒し、一行はドミノみたいに連鎖して尻餅をついた。


 悲鳴のような叫び声が上がる。


「落ち着いてください! 手を離さなければ流されたりしません!」


 冷たい水に腰まで浸かってしまった子供たちにその声は届かず、みな思い思いの行動をする。


 とにかく引き返そうとする者、その場で泣き出す者、急いで対岸まで行こうとする者、手を繋いだままバラバラに動くものだから、赤沢教諭の指示で対岸に渡るまでにも長い時間が掛かる。


 なんとか全員が無事に渡り終える事が出来たものの、もうこれから長い距離を歩いて行けるようなコンディションではない事は明白だった。


 赤沢も体幹まで冷やしてしまったようで、両手がぶるぶると震えてしまうのを止められない。


 歯がガチガチと鳴って噛み合わない口で「休憩しましょう」と一言発する事が精一杯だった。


 まきなは取り巻きの少女たちを壁にして、脱いだボトムスを絞った。それをしたところで乾きそうにも無かったが、水を吸って重たくなったままにしておくよりはずっとマシだ。


 また、周囲の子供たちもそれぞれの方法で水気を切っている。


 ……これは少し冗談ではなくなってきたのではないか?


 じっとりと濡れて冷たくなったボトムスを履き直しながら、だれともなくそんな空気を感じ取る。


 ぽつぽつとリタイアして下山する事を求める声が噴出し、それは瞬く間に広がった。


 多数派の意見は、その正誤に関わらず集団を動かしてしまう事がある。


 そして、立ち止まっているといたずらに体温の低下を招くだけだと気がついた時には、すっかり判断力が鈍ってしまっていたのだ。


「……下山しましょう」


 異を唱える者はいない。赤沢は子供たちを引き連れて、川沿いに斜面を下り始めた。


「えっ、降りるのですか? ここを?」


 素っ頓狂な声をあげたのはしずくだ。


 先を歩いていた幾人かが怪訝な顔で彼女を見やる。


「何?」


 まきながやや苛立ちを孕んだ声で返すと、しおしおと語尾をすぼめ、列の後方に引っ込んだ。


 確かに、別の道を下るより来た道をそのまま引き返すのが安全と言えるかもしれない。


 だが、今し方大変な思いをして川を渡りきったばかりだ。それを引き返せと言うのは……。


 この場にいる全員を説き伏せるほどの強い意見をしずくは持たなかった。


「登ってきたんだから、下れば帰れるでしょう?」


「それとも、また川を渡ってびしょ濡れになりたいの?」


 まきなは強い足取りでしずくのいるところまで詰め寄って、ピンク色の姿が人の陰に隠れようとするところを引っ掴む。


「そ、そんなことは」


 指先の感覚から、しずくの身に付けるそれが濡れていないことを察する。ほとんど全員が冷たい水に浸かったはずだ。


 これは一体どういうことなのか。


 しまったと言わんばかりのしずくの表情に、まきなは怒りをあらわにした。


 一人だけ良い装備で抜け駆けをして被害を免れたのだ。


「だいたい何? その格好。あなたは良いね、一人だけ特別扱いで!」


 ここぞとばかりに食って掛かると、しずくは大きな瞳の端に輝く粒を浮かべる。それがまきなの神経を逆なでするのだ。


「なによ! 気にくわない! 泣けばいいと思ってるの!?」


「まきなね、前から思ってたけどあなたの事きらい」


「ご、ごめんなさい」


「だれが謝れって言ったの!!」


 その様子をぼんやりと遠巻きに眺めていた赤沢は、大人が自分一人しかおらず、仲裁に入らねばならないのは自分だとしばらくしてから気が付いた。


「やめなさーい」


 その場に向かうのもしんどく、離れた場所からそう叫ぶ。


 意外にもまきなは抵抗せず、スッと身を翻して赤沢の元へ帰ってきた。


「さいあく!」


「ルール無視して配られたカード以外を切って良いなんて、それじゃあゲームにならないじゃない」


 まきなの言わんとする事はよく分かる。


 だが、そもそも子どもたちが自前の道具を持っているなんて想定していないので、赤沢はそれを身に付けてくる事を禁止してはいなかった。


 この辺りの決め事の「隙間」を突いてくるのは「彼」の得意とするところだが、その姑息な手段を当たり前のように享受する子どもになって欲しくないのが赤沢の持論であった。


 とりわけ少女たちは公平に扱われない事を嫌う。


 いつだって自分が勝ち抜けるチャンスを伺っているにも関わらず、表向きは足並みを揃えて同じペースで歩もうとするのだ。


 仕方がなく、赤沢はしずくを咎めた。


 着ていたピンクの雨具を脱がせてみんなと同じ透明の雨合羽を着せる。


 素晴らしき横並び主義。


 ボトムスと靴は替えがないためそのままで、周囲と違うままだったが、まきなの溜飲は下がったようだ。


 少々のトラブルはあったが、一行はふたたび斜面を下り始める。


 早く下山しなくては。


 濡れた体のままでは、日没前にどうにか対処しなければ命に関わる事態になる。

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