インターセプト2
夕方、しずくには予感があり学生寮の電話の前でずっと待機をしていた。
あまり人通りの多い場所ではないが、時折通りかかる子供たちは、階段の角に座布団を敷いてじっとしている白髪の少女を奇異の目で見ていた。
「彼」からの電話はまだ無い。
部屋で待っていて、連絡があれば教えてもらうのでも良いのでは無いか? とも思われるが、もし最初に電話に出たのが自分で無ければ、取り次いでもらえないかもしれないという危機感があった。
それに、一番最初に聞かせるは自分の声であって欲しかったし、一番最初に「彼」の声を聞くのも自分でありたかった。
この番号に掛けてくる保証なんてこれっぽっちも無かったのだけど、そのあたりは盲目な恋する乙女。
疑う事もなく真っ直ぐに、信じ切って待っているのである。
その単純さは読み易い。
少なくとも、親しい間柄の相手なら彼女の欲求を満たす可能性は高い。
そうして待つことしばし。
「彼」は期待通りにしずくの待つ黒電話に狙いをすまして連絡を掛けることになる。
第一声を聞いた少女の顔は、この世の春が来たと言わんばかりの表情だったが、誰も見ているものはいなかった。
すこしの談笑の後、話題は急遽決まった遠足の話になる。
「彼」はかなりいぶかしんでいる様子だったが、十分な注意を促して、しぶしぶという感じでしずくを送り出すことにしたようだ。
***
電話を切ると、しずくは再び職員宿舎へと向かう。先日の登山で使用したザックを回収するためだ。
暗くなると怖いので、日が沈む前に済ませておきたい。
持ち主の許可は得ている。
学校側から与えられた遠足用のリュックサックでは心許ないという「彼」の判断だ。
オリーブグリーンの麻袋に背負い紐を縫い付けただけの構造はいかにも頼りなく、不測の事態で自分の身を守る道具をしまうには力不足を感じる。
その点、登山用のザックは頑丈で背負い心地も良く、しかも軽い。防水機能まである。
売価が10倍もするのでそのくらいの性能差はあって当然なのだが、しずくには知る由もない。
ともかく、それを回収して自室に戻る。
中身をあらためて詰め直す。上下セパレートタイプの雨具、中身を真空に出来るビニール袋、真空の魔法瓶、そこに予備の雨ガッパとタオル類を詰め込んで封をする。
ほかにもポケットが沢山付いていて、そのいくつかは中身が入ってぱんぱんに膨らんでいたが、特にその中は気にすることなくそのままにした。
肩紐の長さを調整するために一度背負うと、側面に付いたちいさな鈴がちりんと鳴る。
遠足は、明日から1泊2日の日程で行われる。
それに備えて早めに寝てしまおうと、しずくは寝支度を済ませてベットに潜り込んだ。
正直なところ不安はある。
遠足の前日だからと言って寝られなくなるタイプではなかったが、もしかしたら眠れないかもしれない。
そんな心配もしたが、時計の分針が一周する前には静かな寝息が聞こえてきたのだった。
——。
————。
***
「ばりあんとの空間?」
積み石を背もたれにして、少女は聞き返した。
井戸の底にいる人の話は難しくて頻繁にわからないことがある。
分かりやすいよう噛み砕いた説明も、初めて聞く単語ばかりだった。
「なにか、図とかそういうものには出来ませんか?」
少女は指先をちゃかちゃかと切るように動かして、何もない空間にウグイス色をしたすりガラスのようなパネルを生み出した。
それは支えもないまま空中に浮かび、静止している。
この程度のオブジェクト生成は慣れたものだ。
井戸の底からも蛍火のような灯りが浮かび出して、そのパネルに一点、火を灯す。
何処からか声が聞こえた。
「空間と言うのは、その拡がりに応じて次元の違いというものが発生する」
「パネルを見てごらん? いまここにある点、これが0次元と呼ばれるもの」
その光がすぅと横一文字に伸び、一本の線になる。
「x軸ホリゾンタルの方向に空間が広がると1次元になる」
次に光は縦に伸び、それに応じてパネル内には四角い図形が現れた。
「y軸バーチカルの方向へも広がると、平面、つまり2次元が生まれる」
「その平面を引き伸ばしたものが、向こうの君がいる空間、3次元になる」
「むこうの私?」
「こっちの話」
「まぁ、向こうも厳密にはもう一つ上の次元を跨いだ状態ではある」
「次の次元なら聞いたことがありますよ。3次元に時間を足してあげると4次元になるのですよね?」
「厳密にはそれは3次元空間+1次元時間になるから正しくはないとされるんだけど、今は特に重要ではないからそれでも良いかもね」
「次元は、下位の次元に新たな方向への広がりを持つ空間が足されることでより上位に至ると定義されている」
「つまり、4次元に新たな広がりが付与されることによって5次元となる」
「ここで最初の話に戻ろうか」
「それがばりあんとの空間……ですか?」
「呼び方は一例に過ぎない、これは学問の中でも哲学に近い分野、未だ解明されていない神秘の領域になるからね」
「だけど、君はその空間を身近に“感じる”ことができるはずだ。眠った時に見る“夢”というカタチでね」
「……ゆめとは?」
「そうなるだろうね」
「夢は可能性の拡張だ。これは上位の次元に至るファクターとなる」
「そうなると、どうなるのでしょう」
「どうなるかは、君の記憶が知っているはずだよ」
「今この話をするまでに、本来行なっていたはずのいくつかの段階プロセスを飛ばしているんだ」
「これはバリアントの空間がなし得る事象のひとつ」
「具体的には島に自分以外の存在を認識するまで、それが知性であると理解するまで、ファーストコンタクトを試みるまで、こうして打ち解けるまで」
「なぜかって? 面倒臭かったからね」
「時間の流れが常に一定と言うわけではないことは相対性理論で提唱されているけど、この島ではまた別の方向に自由に移動することもできるんだ」
「思い出してごらん?」
「あ……」
——。
————。
喉の渇きを覚えて、少女は井戸を覗き込んだ。
中は真っ暗で底は見えない。水があるかどうかも分からなかった。
側に置かれている桶、そこには縄が括り付けられているが、その長さは井戸の底まで届くようには思えない。
では何のために?
じっと井戸の中を覗く。
少女がその深淵を覗き込む時、少女自身も深淵から覗かれている。
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