ディファレント2
「大丈夫、大丈夫。せっかくここまで描いたんだし、そのまま活かそう」
「出来るのですか?」
「任せてもらおう。放課後までは掛かっちゃうけどね」
今回の授業は、数度に分けて行われる。今日完成させる必要はないので大丈夫だろう。
————。
授業が終わった後、俺は濡れてしわしわになったしずくの絵を持って家庭科室に来た。
原状復帰に必要なものは、しわしわの画用紙、平らな板、レンガ、冷凍庫、水、フードプロセッサー、ヨーグルト、バナナ、蜂蜜である。
〜フローズンバナナヨーグルトドリンクの作り方〜
まずは、水を製氷機に。
バナナは皮を剥いてレモン汁を垂らしたらラップに包んで、ヨーグルトは容器のまま、揃って冷凍庫に入れます。
そのまま数時間放置して各素材が凍ったら、それらをまとめてフードプロセッサーに掛け、お好みで蜂蜜を加えて完成。
ついでに湿った画用紙を平らに均ならせる板のようなものに挟み、上からレンガで重石をして置いておきます。
ドリンクができる頃にはこちらも綺麗にシワが伸びているでしょう。
完。
「さてと……」
あとは、放課後を待つばかりである。
***
陽も傾きかけた午後、しずくは一人で家庭科室にやって来た。
おどおどとした感じが嗜虐心を掻き立てるが、今日はからかうために呼んでいるわけではない。
いたって普通に招き入れる。
「来たな」
「来ちゃいました」
先程までのハリネズミのような警戒心は霧散していて、いつもの炭酸の抜けたサイダーみたいなふにゃふにゃした物腰になっている。
……家庭科室は旧校舎にある。
この時間だと日が差し込まないので薄暗く不気味だ。心細かったのかもしれない。
だが俺はくだらない世間体を優先して、彼女を一人で来させたのだ。
実際、赤沢教諭などは俺としずくの関係に、女の勘を働かせているフシがあるので油断はならない。別にやましいことはないのでやめてほしい。
その証拠に、今並んで座る俺としずくも、早々にお互いの身体を弄り合ったりしないし、別に身体を密着させたりもしていない。
ほうら健全。
先程仕込んでおいた画用紙を冷凍庫から取り出して、テーブルに広げる。
水気の抜けた画用紙は凍りつくこともなく、ちょうど良い具合にひんやりとしており、気になっていた皺も綺麗に目立たなくなっていた。
「わっ、凄いです」
「100点満点とは行かないけどね」
「大丈夫です、0点か100点しか無いわけじゃないですから」
その考え方が愛おしい。
思わず、頭を引き寄せてわしゃわしゃと撫でてしまう。
しずくも嫌がる事なく、喉を鳴らす猫のようにして身を預けてくれる。
「つるつるに磨かれるまで撫でてやろう」
「あ、それはちょっと困ります……」
そう言いつつも、そばを離れようとはしない。
「普通」の子供たちがどのようなものか、ニセ教師である俺には知る由もないが、施設の子供たちは、思い通りに行かなければ投げ出してしまう子が多い。
それは0か100の考え方だ。
完璧ではないならやらないのと同じ。
それはある意味で正しいが、やり遂げたことの無い人間がある日突然100点を取れるのかといえば、そんな事はあり得ない。
数え切れない赤点を積み上げ、その地道な努力の結果として完全なものに近づくことができるのだ。大体は。
悩んだ末に出した答えなら、何点になったとしても褒めてあげたい。
それでも、できうる中で最大限の努力はしなければならないという前提はあるので、俺はこれからそれを示さないといけないのだ。
…………。
「さて、皺は無くなったけど、このケミカルな色合いはどうしたもんかな」
色水がブチまけられた画用紙には、鉛筆で土手のような下書きがされている。
「どんな絵を描く予定だったんだ?」
「えっと……花火……みたいな」
「なるほど」
それなら、手持ちの道具で何とかなりそうだ。
画材道具の中からクレヨンと水彩絵の具の一式を取り出す。
「クレヨンと絵の具を使った絵なら、この状態からでも綺麗に仕上げられる」
「手法は2つ。まずは、はじき絵というものだ」
「これは、花火をあらかじめクレヨンで描いておいて、その後水彩絵の具で周りを塗る。こうすると、クレヨンで塗られた部分は絵の具をはじいて鮮やかに発色する。周りは黒か藍色になるから、色水で変色した部分はだいぶ誤魔化せる」
「もう一つはけずり絵というもの」
「こっちは、クレヨンでカラフルに下地を作った後、上からアクリル絵の具で黒く塗り潰し、乾いてから表面を削って下地の色を出す技法だよ。これは色水の変色の形跡ごと消える」
「さぁ、どっちにしようか?」
問いかけると、しずくは黙り込んで悩み始めた。
少し時間が掛かりそうだ。
俺は飲み物を作るために席を立った。
「……先生、私、どうすれば良かったのでしょう?」
それはきっと身の振り方についての事。
「しずくは怒ってひどい事を言ったりしなかっただろう? それどころか、はつねのことを気遣って悩んでいる。立派な事だよ」
「でも……」
「泣かせたくなかった?」
「はい……」
「こればっかりはなぁ……問題が起きる前に何とかするのは凄く難しい」
それでも何とかしたかったのです。そんな言葉をしずくは呑み込んだように思えた。
フードプロセッサーで氷と半冷凍になった食材達を混ぜ合わせながら、俺は3次元時空の限界と不可逆の時の流れに意識を向けたが、その不毛の大地はちらりと横目に映すだけに留めた。
「出来るところから初めて行こう。まずは事が起きた後の慰め方から」
「でも私、先生みたく上手くは喋れないです……」
「それは相手のことをよく知ることから始めないといけないんだ」
テーブルに飲み物を置いて、しずくの隣にどっかりと座り込む。
「わ」
「だけど、よく知らなくても効果の期待できるものもある」
「それは、こう……」
しずくの腰に手を回して引き寄せると、小さな身体は滑るように俺の腕の中に収まった。
突然のスキンシップにも拒絶するような身体の強張りはなかったので安心して話を続ける。
「物理的な距離の近さは、心の距離も近付ける。近くに温もりがあれば、心が安らぐ」
「何も言葉が思い浮かばなければ、こんな事だって良いんだよ。きっと誰かの心を癒してあげられる」
「はひ……」
「ただしこれは誰にでも有効な手ではないんだ。使う相手はよく考えないといけないよ」
「相手が自分を嫌っていない確信があること、自分も相手を好ましく思っていること。この二つは絶対条件」
「異性に対して行う場合は特に注意しなきゃいけない。多用は禁物のここぞという時の強力な一撃だから気安く使っちゃいけない」
そう言いながら、俺自身がかなり気安くその行為を実践していることに気がつく。
しずくも自分がその強力な一撃を食らっていることに思い至ったか、赤面して俯いたまま、飲み物をちゅるちゅると吸っている。
黙っていると気まずい時間が流れそうだ。
「まぁ、それはそれとして、絵の方をどうするかだな」
強引な話題変更。
「あっ、はい、先生のバナナ美味しいです」
「えっ」
「あっ、これは……ちがくて……」
唐突な質問などがされた時、人は思考がそのまま口から出てしまうことがあるという。
~淫行教師! 生徒に強引に抱きつき自らのバナナを吸わせる!~
頭の中にそんな見出しが躍る。あわててかき消す。
しずくが一体何を考えていたのか気になるが。
この話題を掘り返すと泣かせてしまいそうなのでそっとしておこう。
「……」
「元の痕跡を残すならはじき絵なんだが、今回はなるべく失敗の痕跡を消した方が良さそうだから、けずり絵でやった方が良いかもな」
「じ、じゃあそれでおねがいしましゅ……」
――――。
その後の内容は特筆することなくスムーズに進んでいった。
***
後日、子供たちの絵は無事に完成した。
自由な作風を尊重したからか、珠玉混合といった感じで、平均化されたものを好む教師陣の評判はあまり良くなかった。
しかし表現力の多様性には眼を見張るものがあり、俺はこの授業をやってみて初めて、子供たちがその目を通してどんな世界を見ているのかの片鱗に少しだけ触れられた気がする。
廊下に飾られたそれらの中に、ひときわ美しく輝く絵が一枚あった。
俺が必要以上に真面目に教えた甲斐があって、つや消しの黒いキャンパスに浮かぶ七色の大輪の花は、ひときわ美しく輝いていた。
「やりすぎちゃったなぁ」
夏休みの自由研究に本気になってしまった父親はこんな気持ちを抱くのだろうか?
どうにも苦笑いが止まらなかった。
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