40 never change
補講のために一週間ほど学校に通った。そのあとは予備校の夏期講習。合計で20日に満たない日数だが、陽佳(あきよし)は明らかにむくれていた。
講習が終わる10分ほど前になると現れ、予備校の前で忠犬ハチ公よろしく俺を待つ陽佳の姿は、ほんの数日で予備校に通う女子生徒の注目の的になり、潤いを与えていた。窓から、ガードレールに腰掛けている陽佳を見下ろし、きゃらきゃらと楽しそうに笑い合う彼女たちを威嚇するように見ていたら、市谷(いちがや)にぽかんと頭を叩かれた。
「お前は、本当に、狭量だな」
「自分のものを勝手に鑑賞されるのは気に入らない」
「鑑賞くらいさせてやれ、減るもんじゃなし。受験勉強で疲れ切ったやつらの、一服の清涼剤だ」
「──減る」
俺の返事に、市谷が呆れたように溜め息をつく。帰り支度をしていたら、市谷が他校生に声をかけられた。大人しそうな女子生徒。長い髪を一つに結んで、薄手のボレロをひっかけたワンピース姿。夏らしく涼し気なその姿は、少し、目を引く。
市谷が何か受け取って、短く言葉を交わす。彼女は小さく頭を下げて去っていく。
「──告白か」
「らしいな。──受験対策のびっしり詰まったカリキュラムの中、よくそんな余裕があるものだ」
下手すると俺よりも女性に辛辣な市谷が、受け取ったものを鞄にしまった。白いシンプルな封筒は、ラブレターということだろう。なかなか古風だ。
「付き合わないんだろうな」
「興味がない」
「──そうか」
「なあ、夏基」
市谷は、まだ窓際に固まって陽佳を見下ろしている女子生徒たちを見つめながら、言った。
「俺はどこか異常か」
市谷の口から出た言葉とは思えない。俺は驚きのあまり目を見開いて、しばらく固まった。市谷はこちらを見ない。楽しそうに笑う女子生徒たちに視線を向けたままだ。
「なぜ」
ようやく言葉が出た。
「俺には恋愛感情がない。性欲もない。どんなに俺を好きだと言ってくれる女性にも、心が動かない」
「──異常だと、思っているのか?」
「多分」
市谷らしくない曖昧な返事だ。
「俺は無性愛者かもしれないな」
言葉だけは知っていた。異性愛者、同性愛者、両性愛者、そして、無性愛者。そんな人間が本当にこの世に存在しているのかどうかも分からないくらい、稀な例だろう。
「はっきりと言い切れるわけじゃないが、今までも、この先も、恋愛をしたいとは思わない。相手が女だろうが、男だろうが」
夏休みの、授業が終わったばかりの予備校の教室でする話ではない。俺たちの話に耳を傾けている人間はいないが、少なくともまるで日常会話のように交わすような内容ではないだろう。
「家族や友人を愛することはできる。でも、恋愛は別だ」
「市谷──」
俺はとりあえず市谷を黙らせようとした。話ならゆっくり聞いてやるが、ここでではない。
「なあ、夏基」
「何だ」
「愛してるぞ」
一瞬、頭が真っ白になった。けれど次に続いた言葉に、理解した。
「俺はお前を愛してる。お前も、小沢も、陽佳も」
「──そうか」
「けれど、今手紙をくれたあの子は愛せない」
市谷がようやく、くるりと背を向けて教室を出て行こうとした。俺は慌ててあとを追う。
「夏基」
追いついた俺に、市谷が問う。
「お前が陽佳を愛してるって気持ちは、俺がお前らを愛しているって気持ちと、どう違うんだ?」
俺は、すぐに答えられなかった。市谷もきっとそれを分かっていたのだろう。俺の返事を聞く前に、予備校の自動ドアを抜けた。ガードレールから身体を起こした陽佳が、嬉しそうにこちらにやってくるのが見えた。
「なっちゃん、市谷先輩、お疲れさまー」
「お前はよくまあ毎日飽きもせず迎えに来るな」
「だってなっちゃんと早く会いたいんです」
「暇なのか?」
「う、ひ、暇じゃないです」
「──暇なんだな」
陽佳が市谷の言葉にうなだれる。7月中に課題を、半ば無理矢理のようにスパルタの市谷指導の下終わらせた陽佳は、確かにいつもの夏休みよりも時間が余っているのだろう。俺が補講と予備校に通っている期間、短期アルバイトをしているが、俺の予備校終わりに間に合うようなシフトを組んでいることは明らかだ。
予備校の前で立ち止まったままの俺たちの頭上から、黄色い声が降ってきた。見上げると、さっき窓際に固まっていた女子生徒たちが、開いた窓から一斉に手を振った。陽佳はきょとんとして、市谷は呆れたような顔をして、それを見上げていた。
その中の1人が、また明日ねー、と声をかけてきた。
──図々しいだろ。
俺は2人に声をかけ、歩き出した。背後からばいばーい、と声が飛んできたのは、聞こえないフリをした。
並んで歩いていると、陽佳が俺の様子を窺うようにして首をひねる。そして、少しためらってから、
「なっちゃん、さっきの女の子たち、なっちゃんの友達?」
「違う」
「仲いい?」
「よくない」
「本当?」
俺は足を止め、陽佳を見上げる。
「俺が嘘をつくと思うか?」
「──思わない、けど」
「何だ」
「なっちゃん、モテモテ?」
情けない顔でそう訊ねてきた陽佳に、俺は、がくんと肩を落とした。
「さっきのはどう考えたって、お前に向かって声かけてただろう」
「えー、なっちゃんにじゃないの?」
陽佳は驚いたように声を上げる。
「俺はお前が思うほど女にモテない。──好かれるのはこいつの方だ」
隣にいた市谷の腕をつかんで言ってやる。
「女房妬くほど亭主モテもせず、か」
市谷がぼそりとつぶやき、おかしそうに笑った。よほど俺たちのやり取りがツボにはまったらしく、珍しく笑い続けている。
「──市谷先輩?」
陽佳が怪訝な顔をしている。
「ああ、悪い。──なるほど、嫉妬の応酬ってのは、結構面白い。よく分かった。──俺にはどう頑張っても無理だ、夏基」
「だろうな」
「違いすぎる。──俺には、絶対に無理だ」
ようやく笑いが止み、市谷が少しだけ悲しそうな表情をした。けれどそれはほんの一瞬で、すぐに普段の尊大な態度に戻る。
「やってられるか、馬鹿らしい。俺は帰る。勝手にいちゃついてろ」
俺がつかんだままだった腕を振りほどき、市谷はそう言って踵を返した。去っていく後ろ姿を見つめながら、陽佳がわたわたと慌てた。
「ど、どうしよう、なっちゃん。市谷先輩怒っちゃった?」
「──いや、違うよ、陽佳」
市谷は別に怒っているわけじゃない。それだけは断言できた。きっと去り際の態度も、わざとだろう。
市谷、お前が悩んでいるなら、力になる。いつだって。
けれど、そのためには、お前から手を伸ばせ。俺も、小沢も、絶対にその手をつかんでやるから。
俺は、いつもより少し寂しそうなその背中を見つめながら、そんな風に考えていた。
薄暗い照明と、低く流れるジャズ。夜になればバーに変わるこの店も、昼間の今はまだカフェ営業である。けれど明らかに高校生が入るには気後れするほど大人びた店であることは否めない。
俺は小さくきしむ扉を開けて店内に入った。半地下のその店は、きつくなりすぎない程度に冷房が入っていて、さすがの俺もほっと息をつく。いらっしゃい、と声をかけてきたのは小沢で、シンプルな白いシャツに黒のベスト、同じく黒のギャルソンエプロンという恰好で俺を迎えた。
きれいに整ったその顔に似合いすぎていて、いつも思わず感心する。普段より大人びて見えるのも、制服の力だろうか。
「一人か?」
俺はうなずく。空いてるテーブルに席を取ると、俺はカフェラテを注文した。お冷の入ったグラスを置いた小沢に、あとどのくらいで休憩かと訊ねると、30分ほど、と答える。待っている、と告げると、分かったと短く答える。
予備校の丁度中間休み、陽佳はアルバイト。市谷には声をかけずにやってきた。
このやたら大人びた雰囲気のカフェバーは、小沢の叔父さんが経営している店で、小沢は普段からここでアルバイトをしている。何度か来たことはあったが、1人で来たのは初めてだ。いつもは市谷と2人、奥のテーブルに腰を据える。
周りを見ると、客は落ち着いた大人ばかりで、さすがに1人では心細く感じた。
テーブルに置かれたカフェラテを一口飲んで、俺は持ってきた文庫本を開いた。ダウンライトの少ない明かりでも、ちゃんと文字は拾える。しばらく活字を追っていた。カップの中身が半分以上減り、冷めてしまった頃、小沢がやってきた。
「お待たせ」
小沢は昼飯らしいパスタをテーブルに置いた。叔父さんのおごり、と付け加えて、俺の前にも皿を置く。店の奥、観葉植物の陰になるこの席は、店内からはあまり目立たず。制服姿のままの小沢が食事をしていても見とがめられることはなさそうだ。
俺はカウンターのマスターに軽く頭を下げた。小沢の叔父だけあって、とても二枚目のそのマスターは、女性だったら一目で落ちてしまいそうな甘い笑みを浮かべて軽く右手を上げた。
「お前の家系は、二枚目だらけか」
「何言ってんだ」
小沢がおかしそうに笑う。
「女性には事欠かなそうだ」
「まあ、あの人、未だに独身だけどな」
小沢の話を聞いているに40代前半くらいだろうと見当はつくが、実年齢よりも若く見える。結婚できない、のではなく、典型的な結婚しない、というタイプ。
パスタはボンゴレ。パッと見はあさりとイタリアンパセリのみでシンプルだが、この店のレシピはアンチョビの入った、わずかにクセのある味。俺はこれが結構好きだ。多分それを覚えていてくれてたのだろう。
「一人で来るなんて珍しいな。どうした?」
小沢はスプーンとフォークで器用にあさりの殻を外しながらパスタを巻き付けていく。
「最近、市谷の様子で変わったことはないか?」
俺の問いに、小沢が手を止める。
元々は俺の友人だった市谷だが、今は俺よりきっと小沢といる時間の方が多い。気が合っているのか、いないのか、対照的なこの2人が、俺抜きでも会っていることを知っている。だからきっと、今では俺なんかよりも小沢の方が市谷を知っているはずだ。
「変わったこと?」
「この前、少し、変だったから」
「何があった?」
俺は予備校での会話を話してやった。小沢はしばらく黙って聞いていた。
「少し前に──同じことを言われたよ」
「そうか」
「でも、悩んでいるようには見えなかったな」
俺たちは食事を続けた。にんにくと白ワインの香りがふわりと立ち上がるそれは、とてもおいしい。皿が空になるまで無言で食べ続けた。フォークをかたんと皿に置いて、小沢は立ち上がる。空いた皿を運んで、戻ってくるときにはコーヒーカップを二つ、手にしていた。その片方を俺に渡してくれる。
「小沢」
ブラックコーヒーに口をつけた小沢は、目だけで俺を見る。
「どうして、最近彼女を作らない?」
俺の問いに、小沢が少し、眉をひそめた。
「俺には、お前がそうなってから、市谷が変わったと思える」
「──どうだろうな」
小沢がつぶやく。
「でも、もしかしたらそうなのかもな。──俺が彼女作らなくなったのは、お前を見ていて、考えることがあったからだよ、柴」
今度は俺が顔をしかめる番だった。
「なぜ」
「羨ましいと思ってしまったから」
小沢の言ってることがよく分からない。俺は、小沢に羨ましがられるようなことをしたのか? 俺からしてみれば、小沢の方がずっと、人に羨まれる要素があると思える。
「俺はさ、柴。──俺を好きだと言ってくれる人しか好きになれないんだよ」
「──それが?」
「俺が、自分から、自分の意志で誰かを好きになることは、今までなかったことに気付いたんだ」
「それは……」
「告白されて、俺はその相手を本気で好きになる。いつもそうだ。でも、気持ちが冷めるのはいつも向こうだ。俺を好きと言ったのに、俺を本気で好きになってはくれない」
意味が分からない。いつだって小沢は幸せそうだった。もちろん、彼女の方も。小沢は真摯で、見た目とは違い、真面目で一途だと思う。それはこの3年足らずの付き合いでよく分かっていた。
振られるのはいつも小沢の方。
あんなに大事にされているのに、あんなに愛されているのに、なぜだろう。小沢の元を去っていく彼女らを見るたび、いつもそう思っていた。
「今まので彼女はみんな、同じような理由で去って行ったよ。──俺は、完璧すぎる彼氏なんだってさ」
嫌味なくらい整った顔、180センチの身長、細すぎず適度に鍛えられたスタイル、県下有数の進学校に通う頭脳、気遣いや、優しさはさりげなく、そして誰とでも打ち解けるその社交性。
確かに、話だけ聞いていたら腹が立つほど嫌味だ。
けれど俺は小沢を知っている。だから、その評価は大げさでも何でもないと分かる。
「俺は、好きになっただけなんだよ。俺を好きだと言ってくれる人を」
ふっと、笑う。その顔すら、見とれるくらいに整っている。
「どうしたら、お前らみたいにお互い好きでいられるんだ」
「そんなの……」
答えようがない。俺は陽佳を愛している。それはもう理屈ではない。多分陽佳だってそうなのだろう。生まれたときから近くにいて、何の疑問もなく大事だと言い切れるくらい、俺たちは傍にいたのだ。
だからと言って、その距離だけが理由じゃないことは、分かっている。でも、それを説明することなんてできそうにない。
「──それを、市谷に言ったのか?」
「ああ」
小沢がうなずいてカップを傾ける。俺も、自分のカップに口をつけ、一口飲んだ。
「それでも、市谷は、俺が誰かと付き合うことを続けていくんだと思ってたみたいだ」
「……けど、お前はそれを辞めた」
「ああ。──少し、考えたくなった。今のままじゃ駄目なのかもしれないと思った。俺は、自分から誰かを好きになりたいんだ」
「それを──市谷は?」
「話したよ。──そうだな、もしかしたら、市谷がおかしいのは、俺のせいかもしれないな」
不変であることを、望んでいたのか、市谷?
小沢がふられ、また新しい彼女を作る。向こうの好意に応えるように本気になる小沢が、また、いつものようにふられる。
けして、それを喜んでいたわけではないだろう。けれど、市谷は、きっと、それが続くのだと思っていた。それが当たり前だと思っていた。だから、小沢の変化に、もしかしたら戸惑ったのかもしれない。
小沢が自分に好意を持ってくれた相手にしか心が動かないように、市谷は自分が誰も愛せないことは当然だと、そう思っていたのかもしれない。
均衡が崩れてしまったから──
「俺たちのせいか?」
俺は問う。
「違うよ、柴」
小沢が答える。
「いつかは気付いてた。それが今だっただけだ」
「本当に──?」
「本当に」
小沢は優しく笑った。
「市谷は、俺たちを愛してると言った」
「ああ」
「恋愛感情を持てない、性欲もない、けれど、俺たちのことは愛してるって」
無性愛者というものが本当に存在するのなら、きっとそれはとても寂しいんじゃないだろうか。
俺は自分自身よりも溺愛する大事な相手がいる。もし陽佳がこの世から消えてしまったら、俺は生きていけない。
俺は陽佳を愛している。
これは自分の意志だ。誰に言われたものでもない、自分の。
「知ってるよ」
小沢が静かに答えた。
「あいつが俺たちのことを特別だと思ってることなんて、知ってる」
家族や友人を愛することはできる、と市谷は言った。
そして、俺たちを愛している、と。
もし本当にお前が無性愛者だというのなら、俺たちにはどうしようもない。
けれど、俺たちもお前を愛してやれるんだ、市谷。
お前が俺たちを愛してくれているように、俺たちだってお前を愛してる。
「俺も好きだよ、柴」
ぐっと、俺はこみあげてくるものを抑え込む。
「俺だって自ら誰かを好きになることはなかったのに、お前らのことは、自分の意志で好きだと思ってる」
「小沢」
「お前も、市谷も、陽佳も、ちゃんと好きだ」
小沢は俺の頭に手を置いて、苦笑した。
「もちろん、恋愛感情ではないけどな」
冗談みたいにそう言って、小沢は俺の頭をくしゃりとかき混ぜたのだった。
了
夏基が作中で「稀な例」と言っていますが、わりといらっしゃるようです。全人口の1%は、無性愛者なのだそうです。
思ったよりも多いなあ、と思いました。
市谷は、自分が人を愛せないことを理解しています。小さい頃からそうなので、この先もそうだと割り切っています。
けれど、夏基や市谷と会ってから、その考えが少しずつ変わってきています。
無性愛者って、複雑ですね。
でも、結婚して家庭を持っている無性愛者の方はいらっしゃるようです。
恋愛として愛せなくても、家族として、配偶者や、子供を愛することはあるようです。
何だかとっても不思議です。
恋愛と、家族や友情と、その違いは何なんでしょう。
市谷の場合、それに、さらに性欲まであまり感じないので、無性愛なのか、非性愛なのか複雑なところですが、第三者に対して性欲を感じない、というだけだと……(濁しておこう)
だからこそ、友人を大事に思うんだろうなあ、と思うのです。
恋愛ではないその愛情こそ、強くなるものだと、考えます。
簡単に語れないことではありますが。
これで、全員の「悩み」と「傷」が出てきたかな。
ようやく、お話が進み始めるような気がします。
……長くてごめんなさい。
次は夏休みのいちゃこら夏基&陽佳です。
少し息抜きですね。
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