38 その先にあるもの~Disease another~

 廊下でばったりと顔を合わせた、別のクラスの友人が、俺を見つけるなり神妙な顔をして俺の両肩をつかんだ。そして、やけに深刻そうに、どうしちゃったんだ小沢、と言った。

 俺は歩きながら飲んでいた紙パックのコーヒー風味の豆乳をずず、と音を立ててストローですすった。

「────?」

 俺の怪訝そうな顔を見て、友人は続けた。

「お前、女の子からの告白、断ってるんだって? ──しかも、今、フリーだって話じゃないか!」

「ああ──そのことか」

 ストローから口を離して、俺はその友人の手を振り払った。

「別にどうもしねーよ。ちょっとした、心境の変化だ」

「お前が、女と付き合ってないなんて、一体どんな心境の変化だよ!」

 まるで慨嘆するように叫んだ。

 ──お前の俺に対するイメージは、どんなんだ?

「うっせーな。少し思うところがあるんだよ」

「思うところ!」

 そう言った驚愕の表情がまた不愉快である。

 1年の頃に同じクラスだったこの友人とは、市谷(いちがや)や柴を含めて6~7人でよく遊びに行ったりするほど仲が良かった。2年になってもその関係は続いていたが、3年になり、俺たちが特進、他の奴らが普通クラスになったことで最近は疎遠になっていた。

「とにかく、しばらく俺は誰とも付き合わないから」

 再び豆乳をストローで吸い込みながら、俺はさっさと歩き出した。俺の後ろで、しつこく、お前がそんなん無理だろー、と叫ぶその友人を振り返ることは、しなかった。

 もうすぐ夏休みになろうというこの時期に、俺が1人なのは確かに珍しい。夏休みをフリーで迎えるのは、ここ5~6年で初めてのことだった。

 俺の好みからは少し甘すぎる豆乳は、市谷のオススメだった。

 バランスが悪い。たんぱく質を採れ。と、昼飯には甘い菓子パンばかりを食っている自分を棚に上げて俺に投げつけてきたそれは、時々市谷が飲んでいるメーカーのものだった。市谷が好んで飲んでいたのはフルーツ系の甘ったるそうなものばかりだった。けれど、俺によこしたのは、コーヒー味。

 それなら飲めるだろう、と市谷が言った。

 だから、飲んでいる。

 味は、まあ、悪くなかった。


 放課後、昇降口で陽佳(あきよし)とかち合った。──と、いうより、陽佳が俺たちのクラスの下駄箱の前でしょぼんと立ち尽くしていた。女子生徒がくすくすと笑いながら、小声でかわいー、なんて言いながらその横を通り過ぎていく。陽佳は長身を縮こませ、見るからに落ち込んだようにうなだれ、へこんでいた。

 俺は近寄って、どうした、と声をかけた。ぐんと顔を上げて、陽佳はその整った顔を情けなくゆがませた。

「小沢先輩ー」

「何だよ」

 ふええええん、とまるで泣き出しそうな声を出して、陽佳が俺の制服の裾をつかむ。

「なっちゃんが、ひどいんですー」

 俺はつかまれたシャツの裾──きちんと制服のズボンにインしている市谷や柴とは違って、俺と陽佳はベルトの外にそれを出している──を見下ろした。男に触られたり、なつかれたりしても、嬉しくもなんともない。市谷は俺がそう思っているのを知って、よく頭を撫でてみたり、頬をつねったりして俺が嫌がるのをからかうようにして楽しんでいるが、俺は陽佳の手を振り払うことはしなかった。

 どういうわけか、陽佳に関しては、まるで弟か──本人に言ったら憤慨されそうだが、ペットみたいでつい甘やかしたくなるのである。柴がよく陽佳の頭を撫でているが、そうしたい気持ちがよくわかる。

 180センチある俺よりも、さらに5センチ以上高い身長は、馬鹿でかい。そんな図体なのに、どうしてこう、保護欲をそそるのだろう。

「何かあったのか」

 俺は靴を履き替えた。陽佳はこくんとうなずいて、昇降口を出る俺の制服をつかんだままとてとてとあとをついてくる。

 ──どうやら、陽佳が待っていたのは俺らしい。

「いいのか、柴と帰らなくて」

「だって、なっちゃん、市谷先輩と帰っちゃいました」

「珍し」

 いつもは市谷や俺なんかよりも断然陽佳を優先する柴らしくない。

「で、何があったんだよ」

「なっちゃん、夏休みは、市谷先輩と予備校の夏期講習に通うって言うんですー」

「ああ……そういや、市谷が今日、金払いに行くって言ってたな」

「一緒に行っちゃいましたー」

 ぐしぐしと口を尖らせながら情けない顔をしている陽佳を振り返り、俺は苦笑した。

 柴が市谷と予備校に料金を払いに行ったので、置いていかれたらしい。そして、それを愚痴りたくて、俺を待っていたのである。そう思ったら、ますますこの大型犬みたいな後輩がかわいく思えてきた。

「すねてんのか、陽佳」

「す、すねてないです」

「ははは」

 俺が笑うと、陽佳がますます口を尖らせた。アヒルみたいな口をして、しつこく俺の制服を放さない。

 夏期講習に通う、と市谷は言っていた。けれどそれは、短期集中コースで、夏休みいっぱい通うわけでも何でもない。元々成績のいいあの二人は、ちょっと本気で勉強すれば、簡単に国立大に合格できるだろう。

 第一、俺がその話を聞いたとき、市谷はにやりと意地が悪い──市谷の本性を知らない人間には優し気にも見える──笑みを浮かべて、こう言ったのだ。

 ──勉強に手を抜いてるなんて周りに因縁つけられても迷惑だからな。体裁として、予備校に通う必死さくらいは見せておかなきゃ、色々面倒だろう?

 ……俺は、時々、本気で市谷が怖い。

「だって、そうでなくても3年生は補習とかあるのにー」

 俺たち特進の人間は、夏休み中も学校の夏期講習がある。こちらも日数的には一週間ほどの短い期間だ。予備校の方は、それに重ならないようにスケジュールを組んだのだろう。

「お前なあ」

 俺は溜め息交じりに言った。

「朝から晩まで一緒なんだろ? 少しくらい離れたって、なんてことないだろうが。どうせ帰ってきたら、隣同士なんだろ? ──部屋の窓から行き来できるって聞いたぞ」

「そうですけど、高校入って初めての夏休みなのにー。なっちゃんといちゃいちゃしたいのに」

「いや、お前らは毎日してるからね」

 二人の関係を知らされてからというもの、柴は途端にそれを俺に隠すことをしなくなった。多分、今までは多少なりとも気を遣っていたのだろうけど、今じゃその気遣いは皆無である。くっつきたくてうずうずしている陽佳に簡単にそれを許し、こちらのことはお構いなしに、ぎゅうぎゅうと抱きついてくる陽佳を放置である。

「えー、あれは全然です」

「……お前らのいちゃいちゃって、どんなレベルだよ」

「だって、俺がなっちゃんにくっつくのはデフォルトですよ?」

 小首をかしげながら無邪気に答える陽佳に、毒気を抜かれた。俺は急に疲労し、肩を落とす。

「小沢先輩」

「何だよ」

 学校を出て、駅へと向かった。ようやく制服は放されたが、陽佳は俺についてくる。

「先輩は、寂しくないですか?」

「──は?」

「だって、なっちゃんと一緒じゃない夏休みなんて、俺には耐えられないです」

「別に俺は柴と一緒じゃなくても──」

「なっちゃんのことじゃないです。なっちゃんは俺のですから、小沢先輩にはあげません」

「いらねーよ」

 なっちゃんのことじゃない、と言われて浮かんだのは市谷だった。俺は思わず顔をしかめる。

「いや、あいつに関しては寂しいってより、せいせいする──」

 俺がそう言いかけたのを、陽佳が不思議そうに首をかしげて、

「小沢先輩が彼女のいない夏休みなんてすっごく珍しいって、なっちゃんも市谷先輩も言ってましたよ」

「──ああ、彼女、か」

 そうつぶやいて、俺は赤面した。

 なんて勘違いしてるんだ、俺。

「好きな人と一緒にいたいのは、当たり前ですよね?」

「──そうだな」

「俺、なっちゃんと夏休みにしたいこと、いっぱい考えてたんですよ」

「そうか」

 どうやら陽佳は俺を解放してくれる気はないらしい。だから、駅には入らず、仕方なく駅前のベンチに座った。陽佳はおとなしく隣に腰掛け、柴と夏休みにしたいこと、というのを一つずつ挙げている。俺は適当に相づちを打ちながら、必死に話す陽佳を見ていた。

 俺とこいつの違いは何だろう?

 こんなに、鬱陶しいくらい好きだ好きだと告げ、それを態度に表し、不満をひとつも持たないこいつと、俺とでは。

 きっと、陽佳はとても優しいのだろうな、と思った。

 普段の態度を見ていても、それは容易に想像できた。元々、悪いやつではないと知っている。

 柴の身体を抱き締め、嬉しそうに笑う陽佳。そんな2人を見て、羨ましいといつも思う。

 人を好きになるきっかけなんて、様々だ。

 俺は、自分から誰かを好きになったことが一度もない。いつも、好きだと言ってくれる人にだけ、その心が動く。

 気持と身体は別だという考えも、理解できない。

 少し前、市谷と二人きりになったとき、俺はそんな悩みを口にしてみた。市谷はのちに、まるで業務報告みたいにそっけなく、あまりにさりげなく、俺には性欲というものがほとんどない、と言った。

 恋愛したいと思うこともない。だから、俺にはきっとそんな感情が欠けているのだ、と。

 そんな言葉を、俺は、妙に泰然として聞いていた。

 見た目だけならやけに柔らかく、透き通るような色素の薄い髪や目はどこか頼りない。ふっと笑ったときの脆そうにも見えるその様子が、時々、本性をかすませる。

 落ち着いた物腰は、知的さも加わって、後輩にやたら頼られ、実際人気がある。俺や陽佳ほどではないが、市谷だって影ではモテていることを知っている。

 いつも、優し気なその笑みを武器に、相手を傷つけることなく、やんわりと告白を断る。

 そんな感情が欠けている。

 その言葉は、後々、俺を息苦しくさせていった。

 俺とはまるで、対極のようなやつだ、と今更のように気付いた。

 俺は、市谷のようにはなれない。

 けれど、陽佳のようにも、なれない。

 隣でしゅんとヘタレている陽佳を見て、俺は思った。

 自覚している。俺は女の子が好きだし、向こうからの一方的な告白は、それを受け入れてしまえばちゃんと相手を好きになれた。

 好きだ。

 そう思ったら、その感情を止める術を、俺は知らない。だからこそ、一途にその想いを向ける。

 それなのに、結果はいつも、散々だ。

 女の子はかわいいと思う。すべすべの肌も、柔らかい身体も、長いまつげも、うるんだ瞳も、甘い吐息も。触れるたびに、苦しくなるくらいに、その子を好きだ、と思う。

 抱き締めるたびに、一生離したくないと思う。

 けれど──

 どうしていつも、うまくいかないのだろう。どうしていつも、俺は一人になってしまうのだろう。

 いっそ、市谷のように興味がないと言えればいい。そんな感情が欠けていると、そう思えればいい。

「小沢、先輩」

 いつの間にかうつむいていた顔をはっと上げると、陽佳がどこか不安そうな顔をして俺を見ていた。

「大丈夫ですか?」

 俺を心配している。さっきまであんなに落ち込んだようにしょげていたのに。

「──寂しいな」

「?」

 陽佳が首を傾げる。

「寂しいと、思う、やっぱり。好きな人と一緒にいたいのは、当たり前だな」

「──はい」

 陽佳が微笑む。俺とは系統の違う、ワイルドにも見えるその顔は、やけに整っている。笑うと親しみやすくなるのは、きっと人柄が現れるからなのだろう。

 俺は手を伸ばし、陽佳の頭を撫でた。陽佳がくすぐったそうに笑う。

「どうしたんですか?」

「んー、何か、撫でてみたくなった」

「何ですか、それ」

「柴が、いつも、楽しそうに撫でてるからさ」

 陽佳はさらに嬉しそうに笑った。

「柴に撫でられてるお前も、嬉しそうだし」

「嬉しいですよ。──なっちゃんの手、すごく気持ちいいんです。好きな人に撫でてもらえたら、誰だって嬉しいですよ」

「──そっか」

 俺は最後にぐしゃぐしゃ、と髪をかき乱し、手を引いた。陽佳が情けない顔をして、ひどいですー、と髪を撫でつける。俺はそんな姿を見ながらはは、と笑った。

 好きな人の手っていうのは、そんなに気持ちがいいんだな。

 俺は、いつも、好きになった子に触れるときには胸が苦しくなるくらいに切ないと感じていた。

 好きだ、好きだ。

 そう思いながら、そっと触れる。柔らかいその身体を抱き締め、その胸の痛みごと、包み込む。

 相手も、そう感じていてくれたのだろうか?

 俺に触れられて、嬉しいと思ってくれていたのだろうか?

 好きでいるのは、いつも、俺ばかり。

 いつの間にか、俺は一人。

 あんなに俺を好きだと言ってくれた子たちはみんな、俺の前から去っていった。

 優しすぎるの。

 それがとても、不安なの。

 そんな台詞を残して。

 だから俺は、いつも、幸せが続くその先を、知らない。

 ──今までの女はみんな、見る目がなかっただけだと思ってろ。

 市谷が、くれた言葉は、俺を少し、慰めてくれた。

 俺は多分、また、誰かを好きになる。

 あの、柔らかくて小さな身体をこの腕の中に収めて、ふわりと甘い香りを吸い込む。

 好きだ、と思いながら。

 次にできる彼女は、俺から好きになれればいい。

 陽佳のポケットで、スマホがじゃかじゃかと音を立てた。その音に嬉しそうに笑顔になった陽佳が、急いで電話に出た。

「なっちゃん?」

 その声も、弾んでいる。

「──うん。──うん。──うん、分かった。──え? うん、一緒にいるよ」

 ちらりと俺を見て、陽佳がスマホを差し出した。俺はそれを受け取り、耳に当てた。

『今すぐ、来い』

 そこから聞こえてきたのは、柴の声ではなく、市谷の声だった。

『どうせ、暇なんだろ?』

「暇じゃねーよ」

 市谷が、電話の向こうで笑った。まるで見透かすみたいに。

『陽佳の相手してやってたんだろ? 褒美をやるよ』

 いつも通り尊大にも聞こえる物言いだ。

 と、言うか、俺が、柴に置いて行かれた陽佳に泣きつかれているであろうことを、市谷は分かっていたらしい。俺たちはいつだってこいつの手の上だ。俺は苦笑する。

 電話は柴に代わり、いつものそっけなくも聞こえる声が聞こえてきた。

『陽佳が迷惑をかけた』

「分かってるなら、ちゃんと御しとけよ」

 俺は笑いながらそう言って、陽佳にスマホを返した。

「今からすぐ行くね、なっちゃん」

 電話を切るのと、ベンチから立ち上がるのは同時だった。陽佳は俺の腕を引っ張り、急いで立たせようとした。

「小沢先輩、早く行きましょう! 早く!」

「分かったって。落ち着け」

「駄目です。早く」

 俺は陽佳に引きずられるようにして駅に向かった。

「夏休みは──」

 足早に俺を引っ張る陽佳が、俺を振り返る。

「みんなでどっか、行きましょう」

「みんな、でいいのか?」

「いいですよー。そしたら、小沢先輩も、少しは寂しくないでしょ?」

 そう言って笑ったこのかわいい後輩の頭を、俺はもう一度めちゃくちゃに撫で回してやりたい、と思った。


 了


 小沢には年の離れたお姉さんがいます。結婚しています。

 小さい頃は妹か弟がほしいなあ、と思っていたので、陽佳はどことなく弟のような存在だと思います。

 3兄弟の末っ子の市谷も、一人っ子の夏基と陽佳も、口にはしなくても、なんとなく小沢はお兄さんみたいな感じに思っています。そういう設定なのですが、市谷からの扱いがちょっとひどいので、小沢はまったく気付きません。

 悪魔な市谷に、こっちが構ってやらなきゃいけないような気がしてくる夏基、という二人なので、陽佳が小沢に懐くのは必然です。

 多分、しょっちゅう泣きついていると思います(笑)

 まあ、多分バレバレだと思うんですが、私、小沢ヒイキなので(笑)

 お話が進んでいくと明らかになっていくんですが、小沢は私の萌えが詰まっております。

 顔よくて、背が高くて、見た目完璧。優しくて、強くて、めちゃくちゃいい男──という設定の裏で、結構傷つきやすくて、逃げ場探してて、情けないところがあって。

 優しすぎて駄目すぎる、って感じで。


 市谷、絶対そいつを逃がすな!

 と思ってます、はい。

 ……くっつかないよ?(しつこい) 



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