35 stay~Disease another~


 時々夜中に飛び起きる。

 罵倒と嘲笑。蔑んだように俺を見下ろす視線。押さえつけられた身体は痣だらけで、踏みつけられた手足はきりきりと痛む。

 携帯電話のカメラのフラッシュ。

 にやにやと笑いを浮かべ、俺を辱める。

 多分、一生消えない傷。

 それを抱えて生きていく。

 少しぼやけた写真はネットにさらされ、いくら削除しても次々にその数を増やす。

 その年の始め、俺は無駄な抵抗も、努力もやめた。

 死んでしまえればよかった。けれど、できなかった。

 俺は結局、生きていくことを選んでしまったのだ。

 夜中に飛び起きる。

 身体中ががたがたと震え、上手く呼吸ができない。頭を抱え込み、叫びだしそうになるのを必死に堪える。

 あいつらがつけた傷は、身体だけじゃなく、俺の心も蝕む。

 あの人がつけた傷は、心の奥底で、今日も俺を縛る。

 俺は今日も生きている。


「広瀬、今日は一緒に昼ご飯食べられる?」

 休み時間、顔を突き合わせるように向かい合って座っていた沢村が、首を傾げて訊ねてきた。俺は英訳文をノートに書き写していた手を止めて顔を上げる。机に頬杖をついていた沢村の顔が、目の前にあった。やたら整ったその顔に、時々見とれる。

 本当に、かっこいい。

 別に恋愛感情があるわけではない。好みの顔というわけでもない。ただ、沢村は、女子生徒がこっそり噂するように、まるでどこかのアイドルか王子様みたいだ。全体的にパーツは大ぶりだが、一つ一つのバランスがよく、それが形のいい輪郭の中に丁寧に配置されている。高い鼻も、口角の上がる口も、くっきりとした目も、ここ以外にない、というベストバランスで並んでいる。

 長めの髪はクセっ毛で、ぴょんぴょんと好き勝手に跳ねているかのようなカッティングが、不自然にならずに最大の効果を上げている。日に当たるとわずかに茶色がかるその髪は、時々てっぺんで括られている。暑いからさー、と言いながらも、実はその髪型を柴崎さんがいるときにしかしないことを、俺は知っている。

「今日は生徒会室」

「またー? 広瀬、いっつも生徒会だね。こき使われてない?」

「ないよ。みんな優しいし」

「市谷先輩のせいでしょ。適材適所だとか言って、優秀な広瀬にみんな押し付けて引退したんじゃない?」

「市谷先輩は、俺が居やすくしてくれたんだよ」

 俺が笑ってそう言うと、沢村はふうん、とつぶやいて、少しすねたように口を尖らせた。

「でも、仕事多すぎるよ。ちっとも一緒にご飯食べられないし」

「沢村は、柴崎さんと食べてるから寂しくないでしょ」

「広瀬も一緒がいいー。なっちゃんも、市谷先輩も、小沢先輩も、みんな一緒がいい」

 見た目はやたら大人びている沢村だけど、その言動は時々子供っぽい。市谷先輩を始め、先輩3人が声を揃えて「ただの犬」と称していたが、確かにその通りだと俺も思った。

 柴崎さんに駆け寄る沢村には、時々ぶんぶんちぎれんばかりに振られている尻尾と、ぴくぴく動く耳が見えるような気がする。

「うん、仕事がないときにね」

「ううー」

 そう低くうなるところも、犬みたいだ。

 俺は英訳を写し終え、ノートを閉じて沢村に渡した。

「ごめんね、ありがとう。すっかり忘れちゃって」

「いいよ。いつもは俺がお世話になってるし。──広瀬に頼ってもらえるの、英語くらいだもん」

 完全文系の沢村が、理系教科で俺を頼ることは多々ある。うんうんうなりながら数式を解いている沢村の頭からは湯気が出てきそうで、俺は思わず笑いを堪える。

「広瀬、寝不足?」

「──どうして?」

「目、赤いし、クマできてる」

 沢村が人差し指を俺の左目の下に当てた。

 昨日、夜中に飛び起きた俺は、結局朝方まで眠りにつくことができなかった。小さく縮こまるようにして膝を抱え、震えながら布団をかぶっていた。目を閉じるとあの時のフラッシュがよみがえり、怖くて仕方なかった。

「大丈夫だよ。たまにあるんだ、眠れないこと」

「──そう」

 沢村が心配そうな顔をした。俺があの時のことを話してからと言うもの、時々沢村はこんな顔をする。本当に心配してくれているのだということは分かっていた。けれど、けして踏み込んではこない。俺が助けを求めない限り、きっと沢村は何も言わない。不安そうに俺を窺い、見守る。

 多分俺は、逃れたかったのだと思う。あの記憶から。あの苦しみから。

 誰かにそれを打ち明けることで、少しは楽になれるかもしれないと思った。けれど、思った通りの結果は得られなかった。俺は沢村に気分の悪くなるようなことを一方的に打ち明け、その重たい感情を沢村にまで伝染させた。沢村は黙ってそれを聞き、泣き出しそうな顔をして俺を見ていた。

 俺の言葉があまりにもあっさりと紡がれるから、まるで形式的な報告のように口にするから、きっと沢村はどんな反応をしていいのか迷っていたのだろう。

 泣かないでくれてよかった、と、思った。

 俺のためになんて泣かないでくれていい。俺は、結果的に、沢村を利用した。自分が楽になれるかもしれないという一縷の望みのために、沢村に俺のどろどろとした感情を押し付けた。俺は結局、沢村を傷つけただけだったのかもしれない、と思う。

 沢村は優しい。

 それだけで、俺は充分救われているのだ。


 あの人との出会いは中2の冬。冬期講習を受けた塾で講師をしていた大学生だったあの人は、数学を担当していた。背が高く、スタイルがよく、整った顔をしていた。塾の女子生徒たちがひそひそとその人の噂話をしている姿を見かけた。

 あの人は実際、よくモテた。塾に通う女子生徒だけではなく、事務の女性や、同じ講師のバイトをしていた女子大生にもしょっちゅう声をかけられ、誘われていた。あの人の周りはいつも女性でいっぱいで、あの人はいつもスマートに、優しくそれに対応していた。

 冬期講習が終わったあと、俺はその塾に通うことを決めた。

 成績は元々良い方だった。学校でもトップ3から落ちたことはなかったし、勉強することも嫌いじゃなかった。親はあっさりと入塾を許してくれて、冬休みが終わってからは週に2度、その塾に通うことになった。

 あの人は誰にでも優しかったが、数学の成績の良かった俺を、特にかわいがってくれた。分からないことがあれば丁寧に教えてくれたし、俺が声をかければ取り巻きのような女子生徒たちに断りを入れて俺を優先してくれた。

 多分、その頃から俺はあの人のことが好きだったのだと思う。見た目もよく、優しいあの人が俺を特別扱いしてくれるのが嬉しかったし、こんな地味な俺を構ってくれるあの人によくなついていた。

 3年になってからは、個人的に連絡先を交換するようになって、塾以外で会うことも増えていた。勉強を教わるだけでなく、一緒に出掛けたり、食事をしたりするようになり、夏の始まり頃、あの人が付き合おうかと言ってくれた。

 自分がゲイだということは幼い頃から気付いていた。女性に興味が持てない俺が好きになるのはいつも同性ばかりで、もちろんその想いは口にすることなく終わった。

 あの人は俺をかわいいと言ってくれた。

 付き合うことになったとき、俺は嬉しくて泣いた。あの人はそんな俺を抱き締めてくれた。だから、信じた。幸せだった。

 あの人の1人暮らしのアパートに通うようになって、その小さな部屋でキスをした。何も知らない俺が戸惑うくらいに性急に、その関係は進んだ。

 大好きだった。

 古いモルタルのアパートで声を押し殺すようにして何度も抱かれた。痛くて、苦しくて、時々泣き出してしまいたいくらい辛かったけれど、それでも俺は幸せだった。

 好きだったから。とても大好きだったから。

 初めて好きな人と思いが通じ合えたから。

 あの人はいつも、俺をかわいいと言った。その言葉が嬉しくて、俺はアパートに通った。

 夏休み、俺はあの人のアパートから夏期講習に通った。朝から晩まで一緒にいて、手を伸ばせばすぐに触れられる距離に好きな人がいて、とても幸せだと思った。あの人が俺を抱き締め、キスをし、俺を抱く。苦しくて泣きたいのに、幸せすぎて笑いたくなる。

 かわいい。

 苦しさを堪えるように口をふさいでいたら、そんな風に言っていつもキスをしてくれた。

 幸せだ、とても。幸せなんだ。

 俺はいつも、そう思っていた。

 夏休み明け、学校に行ったら、教室の雰囲気が変わった。俺の机は黒いインクで落書きされていた。

 死ね。

 まず目に飛び込んだのはそんな文字。

 俺は元々あまりクラスでも目立たない存在だった。多分、いてもいなくてもいい、くらいの地味で、その他大勢に区分されるような人間だった。淡々と過ぎる日常を、流れのままに過ごしていく、そんな存在だ。だから、何が起こったのか一瞬分からなかった。けれど、次の文字を目にした時、その理由が分かった。

 ホモ、死ね。

 誰かが、俺とあの人の関係を知ったのだ、と思った。

 キモイ。

 インクは水性だろうか、と、考えた。水性インクなら拭き取れるが、油性なら、落とせない。

 俺は自分の席に座り、鞄から取り出したウェットティッシュで机をこすってみた。インクは少しも滲むことなく、そのまま線を浮かび上がらせていた。

 俺はその文字を消すのを諦めた。

 ロッカーの私物が捨てられ、ジャージが切り裂かれ、給食はゴミまみれにされた。

 どうでもいい。何を言われても、何をされても、俺は平気。あの人がいれば、それで幸せ。

 俺はその日から、学校中から無視されることになった。

 あの人は俺を慰めるように抱き締め、抱いてくれた。それだけで耐えられるような気がした。

 夏が終わり、秋も半ばに差し掛かった頃、突然俺は男子生徒数名に体育倉庫へ連れ込まれた。きっと、いじめられても、無視されても何の反応も示さない俺にイラついていたのだろう。鍵のかかった倉庫で、俺は蹴り倒された。背中を打った俺が声を漏らすと、男子生徒が笑った。

 ──ようやく声出したな。

 倒れた俺を踏みつけて、次々に罵倒される。殴られ、蹴られ、ふらふらになった俺を放置して、彼らは去っていく。

 ──まだ、平気。まだ大丈夫。俺は幸せ。

 そう言い聞かせるようにつぶやいた。あの人がいれば、頑張れる。

 その日から俺はその体育倉庫で暴力を振るわれるようになった。向こうも分かっているもので、けして大怪我にならないよう、ギリギリの線を保つ。俺の身体はいつも殴られて、蹴られて、痣や傷ができていた。

 あの人は俺の身体を辛そうに見ていた。俺の身体を心配してか、俺を時々しか抱いてくれることはなくなったが、それでも一緒にいられれば幸せだった。

 俺はだから、黙って耐えた。体力は限界だったが、必死だった。

 耐えればいい。そのうち飽きて俺を置いて出ていく。それまで、ひたすら耐えればいい。

 そんな態度がますます彼らの癇に障るのだということが、あの頃の俺には分からなかった。声も上げずに黙って耐えている俺に、誰かが言った。

 ──お前、突っ込まれてんだろ。

 一瞬、倉庫がひやりとした空気に包まれた。けれどその言葉を発した男子生徒の嘲りが、周りの生徒たちにまるで伝染するように広がった。

 ──脱げよ。

 そう言われて、初めて恐怖を感じた。

 俺の身体が小さく震える。それに気付いた誰かが、ようやく俺を屈服させる材料を見つけたとばかりににやりと笑う。

 俺は鼻っ面を蹴られ、出血した。くらりとその場に倒れ、途切れそうな意識の中で、制服を脱がされていることに気付いた。抵抗しようとしたけれど、手足は踏みつけられ、動かせない。

 痣だらけの身体を見下ろして、彼らが息を飲んだのが分かった。

 痛い。

 どくどくと鼻から流れる血が、はぎとられた制服に沁み込んでいく。

 カメラのフラッシュに、目がくらみそうになった。

 どうして──?

 俺の股間を踏みつけて、そいつが言った。

 ──気持ち悪いんだよ。

 誰かが、俺を押さえつける。誰かがシャッターを切る。

 俺は無理矢理射精させられて、倉庫にあった何かを突っ込まれて、その姿もみんな、写真に収められた。

 その写真がネットに流れていると知ったのは、それから数日後のことだった。

 同じ塾の他校生が、恐る恐る俺に声をかけてきて、携帯を差し出した。どこかのサイトにアップされていたその写真は、間違いなく俺だった。ぼやけてはっきりとは分からないが、顔まで写っている。俺を知る人が見たら気付くレベルだった。

 多分、俺の人生は、狂っていたのだ。きっと初めから。

 あの人と出会ったことじゃない。同性愛者だったことじゃない。生まれてきたこと自体が、きっと。

 あの人のアパートで、俺はごめんなさい、と謝った。あの人は黙って俺を見ていた。

 ばれてしまったことも、写真をさらされたことも、きっと、あの人には頭の痛い問題だったのだろう。俺だけ苦しいのなら耐えられた。だって、俺はあの人と一緒にいられるだけで幸せだ。あの人がキスしてくれて、抱いてくれて、かわいいと言ってくれれば、何だって耐えられる。

 俺は逃げ出さずに学校に通い続けた。彼らは俺を体育倉庫へ連れ込むことがなくなり、また、無視されるだけの日々が始まった。

 俺はあの人のアパートに通う。あの人は黙っている。

 俺が謝ったあの日以来、あの人は俺に触れてくれることはなかった。キスも、セックスも、かわいいという言葉もないまま、時間だけが過ぎる。

 俺のことを怒っているのだろう、と思っていた。

 俺がちゃんと、上手に隠せなかったから。

 隣にいてくれるだけでいい。それだけで、俺は幸せだった。

 けれど、その年が明けてから、あの人が消えた。

 塾はいつの間にか辞めていた。アパートは空っぽだった。携帯は通じなかった。大学で訊ねまわったけれど、誰一人あの人のことを教えてはくれなかった。

 俺は、1人になった。


 死にたいと思ったのに、できなかった。

 俺にはもう何も残っていないのに、まだこんな世界に未練があるのかとおかしくなった。

 時々俺は夜中に飛び起きる。

 体育倉庫の記憶は、いつまでも俺を苦しめる。

 けれど、それより辛かったのは、あの人が消えてしまったことだ。 

 あの頃の夢を見て、苦しさに喘いで目を覚ますと、必然的にあの人を思い出す。胸が苦しくて、息ができなくなる。

 幸せだったのに。

 何でも耐えられると思っていたのに。

 俺は今も悪夢に飛び起き、あの人を思い出して、苦しむ。

 忘れたいと願っても、心に傷痕を残したその記憶は、けして消えることはないのだろうと分かっていた。

 俺は必死に勉強し、高校に入学した。俺がこの高校を選んだ理由はただひとつ。同じ中学からの志望者が1人もいなかったからだ。通うには遠すぎるくらいの距離だったが、成績に見合った高校だからという言葉を信じた教師も親も、反対しなかった。

 忘れることはできない。

 けれど、変わろうと努力しなければいけない。

 笑う。

 その笑顔を毎朝鏡の前で確認する。うまく笑えているか、不自然じゃないか。

 話す。

 できるだけ穏やかに、けして目立たず。

 死ぬことができなかった俺は、生きていかなければいけない。

 だから、忘れたフリをする。

 できるだけ冷静を装い、何でもないフリをする。

 幸せだと思っていた。

 けれど、俺は気付いてしまった。

 あの人は、俺をかわいいと言った。何度も。けれど、一度も俺を好きだとは言ってくれなかったのだ、と。


「ひーろせ」

 沢村に呼び止められて、俺は振り返る。生徒会室から教室に戻る途中の廊下で、沢村が足早に俺に追いついた。

「ナイスタイミングー。一緒に教室戻ろう」

 昼休み、俺は生徒会室へ、沢村はいつものように柴崎さんの元へとそれぞれ別れた。生徒会室で仕事の合間に弁当を食べ、いつものようにお菓子のパッケージを開けたら、会長が呆れたように俺を見ていた。

 甘いものが病気みたいに好きだ。

 甘いものは精神安定剤のように俺に溶け込み、落ち着かせてくれる。まるで麻薬のように、俺の辛い記憶を溶かし、その甘さで麻痺させる。だから俺はいつもお菓子を持ち歩いている。

 そう言えば、沢村と親しくなるきっかけも、一粒のチョコレートだった。

 廊下を並んで歩く。並んで話をしようと思ったら、俺より15センチほど背の高い沢村を見上げるような格好になる。俺と変わらない身長の柴崎さんもいつも、そうやって沢村と話している。

「ねえ、今日も甘いの持ってる?」

「あるよ」

 俺はポケットからキャンディを取り出す。小包装されたそれを渡してやると、沢村はありがと、と受け取った。

 沢村も、結構甘いものが好きだ。俺の持ってくるお菓子を、時々こうしてねだったり、ときには横から掻っ攫っていったりする。

 沢村が包装を開けてキャンディを口に放り込む。口の中で転がして、にこりと笑う。果汁入りのさわやかな甘さのこのフルーツキャンディは、俺のお気に入りでもある。俺もひとつ食べた。

「──ねえ、広瀬」

「んー?」

 からころと、俺も同じように口の中でキャンディを転がす。

「俺が力になれることがあるなら、言ってね」

 俺は、思わず足を止めた。沢村も立ち止まり、俺を見た。

「時々、辛そうな顔してるの、見たくない」

「…………」

「広瀬はいつも笑ってて、楽しそうで、すごく優しくて──でも、それが、たまに、すごく悲しい。──俺にとってはとても大事な友達だから」

 幸せだ、と思った。

「だから、俺のこと、頼ってね」

 あの人が俺をかわいいと言った。キスをしてくれた。抱いてくれた。

 あんなに好きだったあの人のことを考えるだけで、俺は幸せだった。

 なのに、終わりはとてもあっけなく、俺はその幸せをもう、忘れてしまった。

「眠れないくらい苦しいこと、俺に少し分けてね」

「沢村……」

 幸せだ。

 俺は、また、生きていける。

 あんなに辛くても、また、立ち直れる。

「広瀬」

 沢村が笑う。

「教室戻ろう。もうすぐ予鈴だよ」

 俺はうなずいて、歩き出す。沢村が隣を、俺のペースに合わせて歩く。

 俺は幸せだ。幸せだ。幸せだ。

 あんなに辛く、苦しい過去を、分け合ってくれようとする友達がいる。

 死にたいと思っていたのに、今は、死ななくてよかったと思える。

 俺は、いつも、何でもないフリをする。たいしたことじゃない、という感じで最悪だった思い出を口にする。

 けれど、本当はいつだって辛い。平気なフリをしていなければ、がらがらと足元から崩れて立ち上がれないと分かっていた。だから、必死で隠してきた。

 俺は幸せだ。

 もう、あの人を好きだった頃の幸せは、思い出せない。

 あの日、沢村がくれた一粒のチョコレートトリュフは、まるで夢みたいに甘く、おいしかった。

 俺は、一度も泣かなかった。

 泣いたらすべてが終わるような気がしていた。

 けれど──

 俺は奥歯をかみしめる。

 けれど、泣きたかったのだ。

 俺を大事だと言ってくれる人にすがって、泣いてしまいたかったのだ。

 あの人は結局、俺を好きだとも、大事だとも言ってくれることはなかったけれど。

 2人で分け合ったトリュフチョコ。3粒のうち、ひとつずつを食べた俺と沢村。残りの一個を、どうしよう、と考えて、沢村が出した答えは──

 大きな手で、沢村が小さなトリュフチョコを割ろうした。半分に、半分に、なんて呪文のようにつぶやきながら指先に力を入れた瞬間、それはぱきょっと音をたてて粉々になった。かけらが床に落ちて、俺と沢村は同時にそれを見下ろした。

 手に残ったのはつぶれた不格好なトリュフチョコ。

 沢村が、ごめん……とつぶやきながら、大きい方を、俺にくれた。

 砕けたトリュフチョコを食べながら、俺たちは笑った。

 もったいないなー、なんて言いながら、いつまでも笑っていた。

 俺はもう、その時には、幸せだと感じていたんだろう、と今更のように思ったのだった。


 了


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