34 しるし


 30度近い気温の中、俺は首元に包帯を巻いていた。

 陽佳(あきよし)につけられた歯形が残るそこを覆うように巻かれたそれは、じわじわと照り付ける日差しで肌に浮かぶ汗を吸い込んだ。少し湿った包帯の上から傷口を撫でたら、隣で陽佳がしゅんとしてヘタレた犬みたいに耳と尻尾をぐにゃんと垂らし、眉を八の字にして俺を見ていた。

 思わず頭を撫でると、一瞬にこりと笑顔を見せ、はっとして再び肩を落とす。

 そんなに落ち込むことはない、と言ってやったが、気休めにもならなかった。

 いつもは、制服で隠れる場所に注意してつける傷。それを考える余裕もなかったのだ、と思った。

 俺が、そうさせた。

 机の引き出しの中にあったカッターナイフの替え刃は、全部、捨てた。

 冷房の効いた部屋で放置されたコーヒーを飲む俺を抱き締めたまま、陽佳は、散らかった部屋を見ていた。

 ごめんね、とつぶやいて、俺の首に鼻を埋めた。

 散らばったカッターの替え刃を、黙って見ていた。二人で。そして、それから、陽佳がひっくり返した引き出しを片付け始めた。その時に、俺が自分の手で替え刃のケースを全部ゴミ箱に入れた。

 最後のひとつをゴミ箱に落としてその袋の口を縛ったら、陽佳が嬉しそうに笑っていた。

 1年以上もただそこに存在していただけの俺の心の支えだったものは、跡形もなくその姿を消した。

 冷えたコーヒーは、空になった。

 陽佳が俺の首につけた傷を何度も消毒し、丁寧に包帯を巻いた。どうしようどうしようとパニくっていたので、心配するな、と言ってやった。

 首にできた湿疹をかきむしってただれさせたという俺の言葉を、両親は信じた。日頃の行いが正しいと、親に疑われることは少ない。もちろん、クラスメイトもやや遠巻きに奇異の目を向けていたが、指摘してきた教師に同じ説明をしたら、初めから大した興味もなかったらしいクラスメイト達は一気にそれをどうでもいいことだと結論付けたようだった。

 だから、結局、俺がだませないのはただ一人である。

「別に俺はお前らがどんな行為にふけってようがどうでもいい」

 この暑い中、俺たちは相変わらず屋上にいた。座っている俺と陽佳を、見下ろすようにして市谷(いちがや)が続けた。

「しかし、首に包帯はないだろう。あんな馬鹿げた理由を信じるお前の親も、教師も、クラスの人間も、どうかしている」

「あー、やっぱ、あれ、嘘なんだ?」

 市谷の足元に座ってミネラルウォーターを飲んでいる小沢が言った。

「だまされてるんだからいいじゃないか」

「だったら、俺もだませるような嘘をつけ、ちゃんと」

「……お前をだますなんて、無理だろう」

「夏基(なつき)、お前はもう少し常識を持て」

 ようやく、市谷が腰を下ろした。ぶら下げたレジ袋にはミルクコーヒーとメロンパン。また、糖分の欠如だろうか。最近は、ただの甘いもの好きなんじゃないかと疑っている。

「陽佳」

 市谷は続いて、俺の隣でしゅんとしている陽佳を見た。陽佳はびくんと震えて恐る恐る市谷を見返す。

「お前はもう少し常識があると思っていたぞ。──こいつの暴走は、お前がしっかり止めろ」

 こいつ、と言いながら俺を指さす。

「こいつは、常識的に見えて、この中で一番簡単にそんなものを超越するんだ。そのくらい、分かるだろうが」

「うう……」

 陽佳はますますうなだれた。

「大体、そうでなくてもお前らは目立つんだ。首に包帯って──」

 市谷は頭を抱え込む。

「はは。明治から昭和初期の心中物語みたいだな」

 小沢が能天気に笑った。多分、小沢は俺の首がどんな状態なのかよく分かってはいないだろう。、それを問い詰めてこないのがいいところである。

「──興味本位で噂になるのは、もう煩わしいだろう?」

 その言葉に、ああ、と俺は思った。

 市谷は、どうやら、俺たちを心配しているらしい。ただ怒られているだけではなかったのだ。

「大丈夫だ」

「俺、が悪いです。すみません」

 陽佳がうなだれたまま謝る。

「次からは気を付けます」

「──やめるって選択肢はないんだな」

 呆れたように言った市谷が、深く溜め息をついてメロンパンをかじった。

「少し、気をつかえ」

 市谷はうなだれた陽佳の頭に手を伸ばし、がしがしと撫でた。陽佳はようやく少し元気を取り戻し、笑顔を作って、はい、とうなずいた。

「というか、一番気を付けるべきはお前だからな、夏基」

「そうだな」

 俺は包帯の巻かれた首をさする。痛みはだいぶ引いたが、湿った包帯がむずがゆい。

「次からは、気を付ける」

 陽佳の言葉をそのまま繰り返してやると、再び呆れたような顔をして、市谷は溜め息をついた。そして、八つ当たりのように小沢に食べかけのメロンパン──しかもホイップクリーム入り──を無理矢理食わせようとしている。甘いものがあまり好きではない小沢が、勘弁してくれ、と泣きそうな顔でそれを咀嚼していた。小沢の嫌がる顔を見るのが楽しいらしい市谷は、よく小沢をこうしていじっている。

 真夏の屋上は暑い。

 そして、真夏の包帯も、暑い。

 俺は首をさすりながら、もはやぬるくなってしまったオレンジジュースを飲んだ。


 部屋に入ると、まずエアコンのスイッチを入れた。一応窓は細く開けておいたが、部屋の中は蒸していた。窓を閉めてしばらくエアコンの送風口から出る冷風に身体を当てていた。

 俺は、あまり暑さを感じない方だと思われている。実際、夏でも身体はひんやりとしているので、暑がりの陽佳にはよくくっつかれる。なっちゃん冷たくて気持ちいー、なんて言いながら抱き締められるので、そうしているうちに陽佳の体温と同化して俺の体温も上がる。

 顔に出ないというだけで、実際は暑い。ただ、寒いと感じる温度が人より高いので、エアコンの室内温度設定は高めである。

 けれど俺は、その設定温度を、今日も下げた。もうすぐ陽佳がやってくるので、あいつが心地いいと感じる温度にしてやるためだ。

 俺は制服を脱ぎ、長袖のシンプルな綿のシャツに着替えた。ボタンを留めようとしたら、部屋のドアがノックされた。返事をすると、陽佳が扉を開いて入ってきた。

「なーっちゃん」

 入ってきた瞬間、後ろから抱き締められる。

「あー、ようやくくっつけたー」

「陽佳、まだ着替えてる」

「うん、知ってるー」

「ボタン、留められない」

「いいじゃん。外すし」

 くるんと俺の身体を自分に向き直らせて、俺の手を下した。ボタンはひとつも留まってない。

「消毒するんだから」

 俺をベッドに座らせて、着ていたシャツの襟元を開くようにして少し下し、首に巻いた包帯を外し始めた。

「やっぱりなっちゃんも汗かくんだねー」

「当たり前だ」

 湿った包帯を外すと、ぺりぺりとガーゼをはがす。露わになった傷口は、エアコンの風が冷たく感じた。

 陽佳は手慣れた様子で救急箱を開けて俺の傷の手当てをする。消毒液を染み込ませた脱脂綿で傷口を優しく消毒する。

「ちょっと、赤くなってるね。包帯にまけちゃった?」

 喉仏の下あたりを触りながら、陽佳が言った。

「汗で蒸れたのかもしれない」

「今日、暑かったもんね」

 精製水で湿らせたガーゼで、俺の首を拭う。掻痒感が薄れ、さっぱりとした。

「毎日巻いてたら、あせもになっちゃうかも」

「それは困るな」

「かゆいのって、我慢できないもんね。──なっちゃん、今日、ずっと首さすってたよ」

「そうか」

 確かに、気が付くと包帯の上から首を触っていた記憶がある。

「ごめんね、なっちゃん」

「お前のせいじゃない」

 陽佳は俺を抱き締め、首にキスをする。

「くすぐったい」

「気持ちいい?」

「──くすぐったい」

 俺が笑うと、陽佳は今度はぺろりと首を舐めた。思わず声が漏れた。

「うわー、なっちゃんの声エッチー」

「お前のせいだろ」

「んー、だって、これ、痛そうだから」

 俺には見えないが、よほど包帯まけしているのだろう。陽佳が赤くなっていると指摘したその場所を、再び舐める。

「馬鹿、くすぐったいって」

「うん、知ってるー」

「陽佳、やめ……」

 我慢できなくなって、俺は笑う。一度笑い出したら止まらなくなった。陽佳も調子に乗って何度も舐める。そして、いつの間にか抱き締められたまま、肩越しにその舌が、背後へと移動した。うなじの辺たりから背中に下がっていき、俺の笑いは止まった。

 ひゅっと息を飲むように吸い込んで、飛び出しそうになる声を必死で堪える。

「あき、よし」

「──しょっぱい」

 身体を起こして俺と向き合うと、陽佳がにこりと笑った。

「あ、当たり前だ。言っただろ、俺だって汗くらいかく」

「うん」

「包帯、巻け」

「うん」

 陽佳は苦笑し、傷口に薬を塗り、ガーゼを当ててから丁寧に包帯を巻き直した。

「──寒い」

 俺はシャツの襟元を直し、今度こそボタンを留めた。

「ねえ、なっちゃん」

 シャツを着た俺に寄りかかるようにくっついてきた陽佳が、手をつないで指を絡ませる。

「市谷先輩が言ってたでしょ。興味本位で噂になるのは、って」

「ああ」

「俺ね、ちゃんと分かってたんだよ。だって、それは俺が一番よく知ってるんだもん」

 入学してからしばらくして広まった陽佳に関する噂は、傍で聞いている俺ですら怒りを覚えるほどに適当な、真偽のほども分からないようなものばかりだった。

 市谷は、言った。

 全てが嘘ではなかった、と。

 けれど俺は、それを知ることを自ら拒否した。

「なのに、俺は、なっちゃんに同じ気持ちを味合わせちゃうとことろだった」

「別に、構わない」

「駄目だよ」

 俺は、陽佳のためならなんだって耐えられる。そう思っている。

 その噂の内容が本当であろうと、嘘であろうと、俺が叩かれることで陽佳を守れるなら、いくらだって。

 元々、俺は陽佳以外に誰かに執着することはない。どこにいても、誰といても、その場所を守ろうと思ったこともない。だから、陽佳以外の人間が俺を誤解しようと、嫌悪しようと、軽蔑しようと、別に構わないのだ。

 陽佳にさえ、そう思われなければ。

「俺、我慢できないから。どうしても、なっちゃんにくっつきたくなっちゃう。本当は、学校とか、人目のあるところでは、くっついちゃ駄目だって思ってるんだよ。──でも、俺、どうしてもなっちゃんの傍にいたいんだ」

「──いい。好きなだけくっつけ。そうじゃなきゃ──俺が寂しい」

「なっちゃん」

 陽佳の、泣き笑いみたいな顔が、くしゃりとゆがむ。

「俺ね」

 絡まった指に力が入り、陽佳の大きな手が俺の手を包み込む。

「不用意なことして、変な噂流して、なっちゃんのこと、汚したくない」

 首に巻かれた包帯。陽佳がつけた傷。そこから流れる血を飲み込み、無理だと分かっていても、それで一体化できないだろうかと感じる。

「もう、とっくに汚れてる」

 俺は言った。

「お前を巻き込んだ時から──お前を欲しいと思った時から」

 ジャングルジムから飛び降りた俺を見て、泣き出した陽佳。

 俺のせい?

 そう言いながら、俺のために泣いたあの姿を見たときには、もう。

「お前が俺を汚したんじゃない。俺が、お前を、汚した」

「違う──」

「違わない」

「違うよ。なっちゃんは──」

 陽佳の手が俺の手を離れ、角ばったその指が俺の首にそっと触れた。包帯の上を、ゆっくりとなぞるように動くその感触が、ゆるゆると快感に変わっていくような気がした。

「俺を救ってくれたんだよ」

「救う──?」

 目を細めた俺に、陽佳はにこりと笑った。

「なっちゃんに、触りたかった。ずっと。──昔からしてるみたいに、ただくっつきたいってことじゃないよ」

 俺はうなずく。それには性的な意味も含まれていると分かったから。

「なっちゃんのことめちゃくちゃに抱いて、俺のものにして、身体中にしるし刻んでやりたいと思ってた。なっちゃんはね、そんな俺を、解放してくれたんだよ」

 いつの間にか大きくなった手。俺の細い指とは比べ物にならないくらい骨ばった、四角い指先。けれどすっと伸びたその指はとて長くて、きれいで、男らしさの塊みたいな骨格に時々たじろぐ。

「なっちゃんが、触ってくれって、言ったんだよ」

 どうすればいい?

 陽佳が、俺を見つめて、そう問う。

 触って。

 俺は答える。

 お前に、めちゃくちゃにされたいんだよ、陽佳。

「俺がずっと抱え込んでた汚い欲望は、そのときに昇華されたような気がしたんだ」

 陽佳が指の動きを止め、包み込むように俺の首から後頭部にかけて抱き寄せる。

「ああ、俺、なっちゃんに触れていいんだ、って思ったんだよ」

 そのまま優しく抱き締められた。

 陽佳はいつも、俺を大事に扱う。壊れないように、柔らかに。

 それを不満に感じるだなんて、贅沢すぎる。

「そんなに昔から──俺のこと抱きたかった?」

「うん。もう、ずっと。子供の頃から」

「マセガキ」

「言ったでしょ。俺の初夢精はなっちゃんだもん」

 それは小学生の高学年くらいだろうか。俺自身は小5だった。口にはしなかったが、俺のそれは、陽佳が泣きながら俺の傷に触れる夢だった。

 痛い。

 そう言った俺に、陽佳がぼろぼろと涙をこぼして、その傷に指を這わせる。

 痛い? 痛い? 痛い?

 何度もそう問いかけながら、その指が傷口を抉る。

 そんな、夢。

「きっと、そのときにはもう、俺はなっちゃんのこと自分のものにしたかったんだよ」

「そうか」

「そうだよ」

 陽佳の片手は優しく、俺の後頭部を撫でていた。背中に回された片手が、しっかりと俺を包み込む。

「ごめんね、なっちゃん」

「謝られるようなことはされてない」

「首。今度からは絶対に気を付けるから」

「──ん」

 俺はうなずき、陽佳にもたれるような格好のまま目を閉じた。冷たい風を身体に感じているせいで、俺の体温は普段よりも下がっている。長袖を選んだのは、設定された温度が俺には低すぎるからだ。けれど、陽佳の身体は熱く、俺の冷えた身体をゆっくりと温める。

「なっちゃんが望むなら、ちゃんと痛くするから──それ以外のときは、優しくさせて」

「──ん」

 断らなくたって、いつだってお前は優しいじゃないか。そう思ったけれど、黙っていた。

 陽佳が本当にしたいことは、そっちなんだな。

 俺がそうさせないだけで。

 分かり切っているのに、なぜか、いまさらのようにそう思った。

「なっちゃん、大好き」

 俺の首筋に、小さな音を立ててキスをする。

 セックスのあと、陽佳はいつも、一か所だけ俺にしるしを残す。

 それは、注意しないと気付かないような場所に、ひっそりとつけられる。

 昨日のしるしは、右の肩甲骨の下に、ぽつんとついていた。入浴しようと服を脱いだ俺は、脱衣所の鏡でそれを見つけた。

 いつしか、そのしるしがどこにつけられたのか、探してしまう自分がいた。

「俺も好きだ」

 俺の溺愛するこの幼馴染みは、いつも俺を優しく扱う。

 俺の髪を撫でる陽佳の指。それを、とても好きだと思った。

 毎日、毎秒、目につく場所すべて、俺の知るところすべて、陽佳のことなら何もかもを好きになる。その指先も、この体温も。

 俺の冷たかった身体はいつの間にか熱を持ち、抱き締められた陽佳の胸の中で、それはゆっくりと陽佳と同化していく。

 陽佳の心臓の音が聞こえた。

 少しだけ汗のにおいのするその身体にすがりつき、俺はずっと、その音を聞いていたいと思っていた。


 了


 次は、広瀬。

 初広瀬ですね。

 多分、一番重いものを抱えている子です。

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