33 curb~different~


 安心していた。

 だから、その瞬間、俺の背中にひやりと冷たいものが走ったのを感じた。

 俺は右手で引いたその引き出しを、閉じることができなった。見てはいけない、と分かっていたのに、どうしても。

 しばらく、俺はその場を動けなかった。まるで凍り付いたようにそれに釘付けになり、それから、自分の身体が小さく震えているのに気付いた。

 これはきっと、冷房のせいだけじゃない。

 暑がりな俺に合わせて設定温度をいつもより低めにしてくれた夏基(なつき)は、Tシャツの上から薄手のガーディガンを羽織っていた。多分、元々あまり暑さを感じない夏基には、その温度設定は低すぎるのだろう。

 物理と数学。それは俺の苦手な科目である。2年になったら、絶対に理数クラスにだけは進まない、と決めていた。1年の段階でつまずいている時点で、希望したところで弾かれるに違いないが。

 そんなわけで、今日も、夏基の部屋に押し掛けて勉強を教えてもらっていた。

 梅雨明けは結局ずるずると引きずられるように伸び、今年はもうその宣言を聞くことはないだろうと思われた。暑いー、とうなだれる俺に苦笑して、夏基は上着を着こみ、エアコンの温度を下げた。ようやく人心地つき、真面目に勉強を始めて小一時間、夏基が飲み物を持ってくる、と席を外した。

 俺はその間も一人で勉強を続けていたが、シャープペンの芯が切れたことに気付いた。ペンケースの中にも控えはなかった。だから、夏基の机の引き出しを、開けた。

 そして、俺は、そこにあったものを見つけ、硬直したのだ。

 それは、おびただしいほどの数のカッターナイフの替え刃だった。

 プラスチックのケースに入った、銀紙に包まれたそれが、数え切れないほどそこに詰まっている。多分、このケースひとつにつき10枚の替え刃が包まれているはずだ。だから、ざっと見ただけでも500枚以上。

 そして、その替え刃と一緒に、アルミでできたシャープなデザインのカッターナイフがひとつ、しまわれていた。

 約1年前、あれはまだ、梅雨に入る前のことだった。

 お互いの部屋を行き来するのは日常的だったのに、いつの間にか夏基は俺の部屋に来る回数を減らしていた。だから俺の方が夏基の部屋に押し掛けることが多くなっていた。

 いつも、ノックをして、返事が返ってきたら入って来い、と言われていた。けれど俺は、ノックとともに扉を開けることをやめなかった。すぐにでも夏基に会いたくて、待てをしていることなんてできなかったからだ。

 その日も、同じように素早くノックをしてすぐ、扉を開いた。がたん、と音がしたのには気付いたが、何の音かは分からなかった。夏基は素早く俺に背を向けて、なぜかまくっていたらしい袖を下した。

 部屋の中の空気が、どこかいつもと違うように感じた。

 夏基の、気まずそうな背中も。

 夏基の耳は赤く染まっていた。首筋から上気したように。その後ろ姿がやけに色っぽいと思った。だから、瞬間的に、俺は夏基が自慰をしていたのかもしれない、と思った。

 背中から抱きつくと、いつもはひやりと冷たく感じる夏基の身体が熱を持っていた。そして、不自然にシャツを引っ張り、俺の目にそれが入らないようにした。

 1人エッチしてた、という俺の問いを、夏基は否定も肯定もしなかった。

 やばい。

 俺は、夏基を抱き締める腕に力を入れないように必死で耐えようとした。そうしたらきっと、離せなくなる。そして、戻れなくなる。

 でも、無理だった。

 俺は夏基に抱きついたまま、今度はその首筋にかじりつきたくなるのを堪えていた。そのために、他愛もない話をした。俺の昂ぶりが夏基に気付かれてしまわないように。

 そしてそのあと、夏基のシャツに滲んだ血に、気付いたのだ。

 二の腕にすっと走った細い傷。

 あの日から、俺と夏基の関係は一変した。

 俺が、望んでいた。

 そして、夏基も。

「陽佳(あきよし)、お前は冷たいので良かったんだよ──」

 ドアが開いて、俺ははっと振り返った。夏基が片手にコーヒーカップと炭酸飲料のペットボトルを器用に持って入ってきた。

「……何、してる」

 俺の姿を見て、夏基の表情が陰った。

「なっちゃん」

 夏基はゆっくりと俺の傍までやってきて、カップとペットボトルを机に置き、引き出しにかけたままでいた俺の手をそっと外した。そして、そのまま引き出しを閉めようとした。だから、俺は急いでその腕をつかんだ。

「なっちゃん、待って」

「──なぜ」

「これ、何? どういうこと?」

「分かるだろう」

 10や20じゃ足りないくらいの替え刃のプラスチックケース。新品のそれは、今もまだ、この机の引き出しに眠ったままだったのだ。

「傷……つけてないよね?」

 俺はつかんだ夏基の腕を持ち上げて、自分に引き寄せた。体勢を崩した夏基の身体が俺の身体にこつんとぶつかる。

「ない」

「本当に?」

「お前が一番よく分かってるだろう? 俺の身体、隅々まで知ってるんだから」

 確かに、夏基の身体のどこにも、カッターで作った傷は見当たらない。夏基自身が見えない場所だって、俺は全部、把握している。

「じゃあ、どうして」

「────」

 夏基は眉をひそめた。そらした目が、その答えを物語る。

「また、必要になると思った?」

 安心していた。

 だって、夏基はもう、自分じゃ自分を傷つけない、そう思っていたから。

「また、いつか必要になるって思ってたの?」

 夏基に乞われて、何度も傷を作った。流血し、その傷を舐めた。痛みに涙を滲ませるその姿を、いつも苦しいくらい後悔しながら抱き締めた。

「そうじゃ……ない」

 夏基の答えは歯切れが悪い。

「俺が作った傷じゃなきゃ駄目って言ったのに」

「そうだ」

「なっちゃんが自分のこと傷つけるなんて嫌なのに」

「分かってる」

「俺がなんでもしてあげるのに」

「だから」

 夏基がようやく、俺を見上げた。伸ばした手で、俺の頬に触れた。

「だから、あれから一度も手にしてない」

 細身のカッターナイフは、無駄のないデザイン。ひやりと冷たい、アルミ。

「だったらこれは」

「陽佳」

 夏基の指先が、俺の頬を滑る。昔は丸みのあったそこは、いつの間にかそげ、輪郭をシャープに浮き上がらせる。夏基がそれをなぞるようにして、笑う。まるでそのラインに見とれるように。

「俺はね、陽佳」

 夏基の手がゆっくりと下り、引き出しの中のカッターナイフを手にした。よく見れば、そこに刃は入っていない。

 夏基は適当なケースを手に取り、中の銀紙で包まれた替え刃を取り出した。かさりと音を立てて開いた銀紙の中に、薄く鋭い替え刃が重なっていた。夏基はその1枚を手にして、アルミのカッターナイフ本体にセットした。

 かちかちかち。

 先から覗いた刃が、鈍く光っていた。

「まだ、足りない」

「……なっちゃん」

「本当は、お前にもっとひどいことをしてほしいと思ってる」

 多分、錆びないようにするための加工なのだろう。重なった替え刃は、薄くぬるりと油のようなものが塗られている。夏基の指先も、その油で濡れたように光っていた。

「俺の身体を切り裂いて、内臓抉り出して、どろどろにしてほしいとか」

 夏基。

 その刃を、しまって。

「血管を切りつけて、俺の中の血を一滴残らず飲み尽くしてほしいとか」

 頼むから。

「身体中に鋭い刃物でお前の名前を刻みつけてほしいとか……」

「なっちゃん」

 俺は、カッターを持った夏基の手をつかんだ。あっけないほど簡単に、夏基はそれを放した。机の上に落ちたそれを、俺は拾った。そして刃を戻す。

「今も──」

 夏基が、俺の胸に顔を押し付けた。

「今も、そんな風に考える」

 俺のTシャツをきゅっとつかんたその手が小さく震える。俺は夏基を抱き締める。

「お前が、優しすぎるから」

 俺は、机の上の、重なった替え刃を見つめた。

「時々、ひどくしてほしいと思う……」

「内臓抉り出したら、なっちゃん死んじゃうよ」

「ん」

「血を飲み干しても、死んじゃう」

「ん」

「身体中に俺の名前なんて刻んだら、一生人前で肌出せないよ」

「ん」

 夏基は俺の胸に顔を押し付けたまま、短い返事を繰り返す。俺はようやく替え刃の塊から目をそらす。

「それでも、そう望むときがある。だから、すごく、怖い」

「怖い?」

「俺が死んだら──俺を殺したら、陽佳は、一生苦しい」

「うん、そうだよ」

「そんなの、嫌なのに」

「うん」

「でも、心のどこかで、そうして欲しいと思う自分がいる──」

 ああ、葛藤しているんだ。

 そう思った。

「なっちゃん」

「────」

「なっちゃんは、俺のこと、大好きなんだね」

 夏基が顔を上げた。赤く染まった目元と、潤んだ瞳。泣きたいくらい、苦しいんだと分かった。

「俺を苦しめたくないんだね」

「ない」

「でも、痛くしてほしいんだ」

「──あき、よし」

「けど、これは、許せない」

 俺は片手で夏基を抱き締めたまま、もう片方の手で引き出しを引き抜いた。そしてそのまま床にひっくり返す。ものすごい音がして、引き出しの中身が床に散らばった。数え切れないほどの替え刃のケースが、あちこちに飛ぶ。

「こんなの、ただの保険でしょ。それを、自分にかけてるところが、許せないんだよ」

「陽佳──」

「俺にかけてよ。なっちゃんは、俺のものでしょ。なっちゃんがいつか耐えきれなくなったら、それをしてあげられるのは俺だけでしょ?」

 ぼろぼろと、夏基の目から涙がこぼれた。

「自分自身で幕引こうなんて、絶対に許さない」

 俺は夏基の身体を引きはがす。夏基が一瞬、戸惑ったような目をした。俺はそのまま、夏基の首筋に噛みついた。容赦はしなかった。力一杯、皮膚が引きつり、ぷつりと音を立てるまで。

 夏基が、声にならない声を上げた。堪える隙は与えなかったから、息を吸い込むのと、その痛みに叫ぼうとしたのが同時になり、次の瞬間、むせかえる。咳き込む夏基の喉が、そのたびにひくひくと動く。

 俺は流血したその噛み痕を舐め、上下する喉仏に親指で触れた。

「陽佳……」

「本当に──」

 俺は、ようやく咳が止まった夏基の、涙に濡れた目を見つめて、ぐらりと理性が揺らぐのを感じた。

「本当にそうしてほしいと望むなら──」

 まだ息を乱した夏基の喉は、忙しなく動く。俺の親指の腹を、何度も何度も、まるで撫でるように喉仏が上下する。

「してあげる」

 夏基の唇を奪い、そのままずるずると床に崩れた。さっきひっくり返した引き出しの中身が散らばる床で、俺は何度も夏基にキスを繰り返す。差し込んだ舌に応える夏基の舌を吸い込むように導き、それに歯を立てる。血の混じる唾液を、残らず飲み干す。

「でも、まだ今じゃないでしょ」

「陽佳……」

「今は駄目。絶対駄目。痛いのがいいなら、いくらだって痛くしてあげるから」

 俺は、夏基をきつく抱き締める。

「せっかくなっちゃんのこと手に入れたのに──」

「あきよし」

「離したくない──」

 夏基の手が、俺の髪に触れた。ゆっくりと、優しく、撫でる。

「今すぐどうかしてほしいなんて、思ってない」

「なっちゃん──」

「俺だって、お前を離したくない」

 耳元でささやく声は、涙声だった。泣きながら、夏基が俺をまるで慰めるように続けた。

「確かに保険だったかもしれない。──でも、二度とそこに戻らないように戒めとして残していただけだ」

 それが本当なのかは判断できなかった。俺を落ち着かせるために嘘をついている可能性もあった。

「お前が好きだ」

 俺の後頭部を撫でる夏基の手が、ゆるやかに動く。

「大好きだ」

「俺も、大好き、なっちゃん」

「──痛くなくても」

 夏基が、俺から少し離れた。俺は思わず離れたくなくて力を入れたが、夏基が身体を離したのはほんの少しだけで、俺の顔を覗き込むように見上げながら、その泣き顔を笑顔に変えた。

「お前にされるなら、何でもいい」

 夏基の唇が俺のそれに重なる。俺はもう一度夏基を抱き締める。

 俺が噛んだ首筋にはひどい傷ができている。俺はゆっくりとその傷を指でなぞった。夏基の身体がびくんとはねた。

「ごめん……なっちゃん」

「痛い──」

 夏基の吐息は熱く、いつの間にかその目は欲望が滲む。

「痛いの、は──気持ち、いい」

「うん、知ってる」

 俺はその傷に舌を這わせる。唾液が染みるのか、夏基が小さく震えた。

「俺からの、痛みだけが、だよね」

「ん──」

 夏基がうなずく。けれどそれは、俺への返事だったのか、それとも耐えきれずに漏れた声だったのか、もう分からなかった。

 俺は夏基を抱えてベッドに押し倒す。

「ねえ、なっちゃん」

 俺が触れると、夏基はもう、涙目で俺を見返すだけだった。

「好きだよ。大好き」

「俺、も」

「うん」

 服を脱がせたら、俺がつけた傷があちこちに残っていた。

 けれど、夏基自身がつけた傷は、どこにもない。

 鋭いナイフの先を滑らせ、細い細い線を描くようなあの傷は、どこにも。

 俺の手が肌を撫でるたび、夏基が反応する。

「ねえ──」

 俺は、多分、もう俺の声に答える余裕などない夏基にそっと、ささやいた。

「いつか本当にそれを望むなら──」

 熱に浮かされたように、ぼんやりと。揺らぐ瞳が俺を見返す。

「俺の苦しみなんて、考えなくてもいいからね」

 今は、まだ。

 けれど、いつか。

 夏基がそれを我慢できなくなってしまったなら。

 俺が苦しむから、なんて理由で、それを自分や、他の誰かに望んだりしないで。

 俺以外にはそれを、させないで。

「好きだよ、夏基」

 喘ぐ。

 繰り返し、途切れ途切れの呼吸を続ける夏基に、俺は深くキスをした。


 事後、意識を飛ばしていた夏基が、目を覚ましてから、コーヒーがすっかり冷めた、と文句を言った。

 その口調も、態度も、もういつもの夏基と変わらなくて、俺は笑いながら、その冷たくなったコーヒーを飲む夏基を再び抱き締めたのだった。


 了

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