30 ほんとのきもち~different~


 市谷(いちがや)先輩に呼び出されたのは、裏庭の銀杏の木の下だった。

 この木の下で、ある女生徒に夏基(なつき)との事を否定されるような言葉を吐かれて以来、あまりいい印象がない。木の下に市谷先輩が立っていて、俺は少しだけ、緊張して近付いた。

 夏基の言う「本性」をさらけ出した市谷先輩と2人きりになるのは、初めてだったからだ。

「悪いな」

 俺がやってくると、市谷先輩はまず、そう言った。

「夏基には気付かれなかったか」

「教室から来たので、大丈夫だと思います」

 気付かれる心配ならば、市谷先輩の方だろう。同じクラスで、しょっちゅう一緒にいるのだから。

「これ」

 市谷先輩が、俺の胸に折り畳んだメモ用紙を押し付けた。

「何ですか?」

「噂流した犯人」

「え?」

 俺は驚いて、そのメモに目をやった。4つ折りにされたそれに、うっすらとボールペンの文字が透けていた。手のひらの上のそれを、俺はすぐに開くことができなかった。

「どうやって」

「それは企業秘密。──ちなみに、俺はそいつがどうして噂を流したのかも知ってる」

「──俺の知ってるやつですか」

「確認してみればいい」

「────」

 荒っぽく、角も揃えずに無造作に折り畳まれたそれを、俺は見つめた。

「見ないのか」

 噂はほとんど消えて去っていた。気付ばものすごいスピードで。その一端を、目の前の先輩が担っていることを、俺は知っている。

「市谷先輩」

「ん?」

「どうして、ここまでしてくれるんですか?」

 先輩は少し意外そうな顔をして俺を見、それから、そうだな、と少し笑った。

「俺は夏基のことも、お前のことも気に入っている。俺は基本的に普段はいいやつを演じているが、この姿を見せたのは夏基と、小沢と、お前だけだ。俺のこっち側を知っても、それを受け入れている人間はものすごく少ないだろうと思っている。──俺は俺なりに、お前らのことが大事なんだが……そんな答えは駄目か?」

「よく出来すぎてて、あんまり面白くない答えです」

「かわいくないな」

 市谷先輩はおかしそうに笑った。

「嘘じゃない。──俺は、夏基も小沢もかわいくて仕方ない。もちろん、お前もな」

 確かに、嘘をついている目ではない。いつも俺たちを見下すように鼻で笑う姿も見慣れてきたが、基本的にこの人の言葉には嘘がない。

「──俺、噂が辛くて泣いたんじゃないんです」

「知ってるよ」

 俺は驚いたが、夏基がいつもこの人に向かって「人外」と憎たらしそうに言うのを見ていたから、このことなのかと思った。

「夏基に会えなくて寂しくてぐずってたことなんてどうでもいい。俺には関係ないからな」

「う……」

 はっきり言われると、やはり恥ずかしく、そして悔しかった。

「そうですけど……でも、夏基は勘違いしてるから──この犯人のこと知ったら、きっと夏基は俺のためにそいつを許さないと思うんです」

「だろうな」

「だから、夏基には、言わないでください」

「──分かった」

 市谷先輩が、少しだけ、ためらったように見えた。けれど、俺はその返事にほっとした。

「噂のことは、もういいんです。先輩たちのおかげで今は誰も信じてないみたいだし──」

「でも、お前は気にならないか」

「──何が、ですか?」

「そいつが、どうしてそんな噂を流したか」

 と、市谷先輩が俺の手のひらのメモを指差した。

「中学時代のことを引っ張り出してきた理由、とか」

 どくんと心臓が大きく音を立てた。

「俺は、お前が夏基にくっついて、犬みたいに尻尾振って喜んでる姿しか知らなかったから、お前は誰かに恨まれたりするようなタイプじゃないと思ってた」

 市谷先輩は、黙っていればとても穏やかに、柔和で、とても大人びた優しい印象を与える。けれどその口から出てくるのは、少し荒っぽく、ぞんざいな言葉だ。

「お前は疑わなかったのか? 担任とは言え、何度も密室で2人きりになっていたら、誰かは気づくんじゃないかって」

 ひやりと、俺の背中に冷たいものが触れたような感覚を覚えた。多分、俺の顔は蒼白していたのだろう。膝から下に力が入らない。小さく震える両足を、俺はなんとか踏ん張った。

「初めは、お前がヒイキされてるんじゃないかって思ってたみたいだ」

 市谷先輩は続けた。

「個人的に勉強を教わってるのかとか、内申上げるための算段してるのかとか、そんな風に思って、探ってたらしい」

 足が震える。俺は拳を握り締め、力を入れた。

「お前の成績の上がり方が、異常なほどだったから」

 それは、俺が死に物狂いで勉強したからだ。

 すべては、夏基のために。夏基と同じ高校に通うために。

「けど、その密室の中で、お前たちがやっていたことは勉強なんかじゃなかった」

「市谷先輩──」

 俺の声も、震えていた。

「もう、いいです……」

 先輩は、小さく溜め息をついた。

「お前はさらっとここに合格して、あんなに親密だった担任を簡単に切り捨てた。利用するだけ利用して」

「違います」

「──そいつは、そう思ってたんだよ」

 俺の手のひらメモ。それは握り締められた拳の中で、めちゃくちゃになっていた。

「高校に入ったお前は、毎日楽しそうに見える。大好きな幼馴染みにべったりで、しかもしょっちゅう女の子に囲まれて、何度も告白されている」

「そん、なの……」

「世の中にはさ」

 市谷先輩が俺の手を取って、握り締めた手を開かせた。

「何をしても上手くいかない人間ってのがいるんだよ。──そういうやつは、大抵、自分とは真逆の人間に、その不満をぶつける」

 俺の手のひらから、小さくつぶれたメモを取り上げた。ゆっくりとそれを開く。

「俺だって、もっといい人生が送れるはずなんだ。あいつばかりがいい目を見てるなんて、許せない。──そんな風に」

「────」

「見ないんだな」

 市谷先輩がメモを持ち上げた。俺は黙っていた。どうしていいか分からなかった。

 先輩はポケットから出したライターで、そのメモに火をつけた。ふわりと燃えたそれが宙に舞い、地面に落ちた。その一瞬で、俺はそこに書かれていた文字を、無意識のうちに読んでいた。

 名前も顔も一致しない、同じ中学からこの高校に入学した2人の生徒。その片方の名前だった。

 地面に落ちた黒く燃えた紙片を、市谷先輩が踏みつけた。

「夏基には──」

 俺は、まだ震える声で、言った。

「夏基には、言わないで──」

「言わない」

 市谷先輩が、俺を見つめていた。俺より10センチほど低い身長なのに、その存在感や、態度は俺なんかよりもずっと大きくて、まるで俺がちっぽけな人間に思える。

「どうせ、お前のしてることはみんな、夏基のため──なんだろう?」

 数ヶ月、俺が我慢すればいい。

 問題を起こすわけにはいかなかった。成績を上げ、部活にも必死で取り組み、生活態度だって気をつけた。夏基に追いつくために。夏基のために。

 あの密室で、俺が耐えたのは、全部夏基のためだ。

 それ以外の方法を思いつけなったから。

「夏基に知られたら、俺──」

「言わない。信じろ」

 がくんと膝から力が抜けた。俺はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

「一生、誰にも言わない」

 市谷先輩を見上げると、昔のような優しい笑顔が、俺を見下ろしていた。

「なあ、陽佳」

 俺はぐすりと鼻をすすった。鼻の奥が、さっきから痛い。

「俺からしたら、そんなのはたいしたことじゃない」

「────?」

「もっと最低なことしてるやつは沢山いる。──たいしたことじゃない」

 それでも、俺の全ては夏基のものだ。他の誰にも、俺自身を与えたいとは思わない。

「馬鹿正直で、純粋すぎんだよ、お前も夏基も」

 市谷先輩は踏みつけていた紙片の燃えカスから足をよけた。粉々になったそれは、もう書かれていた文字を読み取ることは出来ない。

「──市谷先輩」

「何だよ」

「そのライター、どうしたんですか」

「さっき、この辺で煙草を吸おうとしていたやつらから、穏便な話し合いの結果、譲り受けた」

 どうだか。

 この優しそうな顔の裏に、有無を言わせない迫力があることを、俺は知っている。丁寧な言葉遣いと、柔らかな物腰にだまされて、毒気を抜かれていると思っているのは、そいつらの勘違いだ。この人は全部計算ずくに違いないのだから。

 俺は鼻をすすり、目元に触れた。涙はこぼれていない。

「知ってるか。夏基、お前を泣かせたやつを見つけて、息の根止めたいって言ったんだぜ」

 俺は再び鼻をすすりながら、苦笑した。

「本当に、しちゃいそうです」

「そうだな。あいつはお前に甘すぎる」

「なっちゃんはかっこいいです」

「──ようやく、なっちゃん、になった」

「え?」

「お前、ずっと、夏基って呼んでたよ」

 それは無意識だった。いつだって、俺は自分の中で、そう呼んでいた。

 けれど、実際に夏基を目の前にすると、子供の頃から変わらず「なっちゃん」と呼ぶ。

 深い意味があってのことじゃない。それが自然だからだ。

「そっちの方が、お前らしい。いつもみたいになっちゃんなっちゃん言いながら、尻尾振って、夏基にまとわりついてろ」

「──俺、犬じゃないですからね、市谷先輩」

 ごしごし目元を擦って、俺は立ち上がる、

「何言ってる。どう見たって、犬にしか見えない」

 市谷先輩がおかしそうに笑った。


 夏基の身体を背中から抱き締めたら、制服のシャツを脱ぎかけていたその手を止め、少し顔をしかめた。

「着替えるまで待て」

「やだ」

 俺はぎゅうっと力を入れて、夏基の腕を動かせないように固定した。

 俺もまだ、制服姿のままだ。夏服になったばかりの、エンブレムのついた白いシャツ。首にぶら下がった濃紺のネクタイ。帰宅後、俺は自分の家に帰らず、そのまま夏基の家に押しかけた。玄関から夏基の部屋までがすごく遠く感じた。部屋に入った瞬間に、夏基の背中に我慢できずに抱きついた。

「陽佳──」

「ずっと、なっちゃんに触りたかったんだよ」

「だから、着替えるまで──」

「やだ」

 一分一秒すら、惜おしいと思った。

 夏基は諦めたように溜め息をついて、俺の腕の中で身をよじり、身体の角度を変えようとした。最初、俺から逃げようとしているのかと思ってさらに力を入れたら、夏基が馬鹿、とつぶやいて、俺の腕をつねった。

 俺が渋々腕を緩めると、夏基はその中で半回転して、俺を見上げた。

「ちゃんと、かまってやるから」

「なっちゃん」

 夏基の手は俺の顔に伸び、引き寄せられるようにキスをされた。

「──何か、あったか」

 夏基の声は、優しく、俺に入り込む。

 少しぞんざいに、そっけないその口調は、昔から俺にはとても心地がいい。

「──なにも」

 俺は答える。

「そうか」

「うん。──なっちゃん、大好き」

 俺はぎゅうぎゅうと夏基を抱き締める。夏基が待て、と言い、今度はぴしっと俺の額を指で弾いた。思ったより痛くて、俺は自分の額を押さえた。その隙に夏基は俺の腕をすり抜け、制服を脱いだ。いつも通り、一糸の乱れもなくハンガーに整え、壁のフックにけた。

 カットソーをかぶって、コットンのルームパンツを履いた。夏基の部屋着はいつもかわいい。

「ほら。いいぞ」

 夏基が両手を伸ばした。俺はほにゃらと笑い、ようやく安心して夏基を抱き締めた。待てをされないって、嬉しい。

「なっちゃん」

 俺は夏基の首筋に鼻先を擦り付ける。夏基がいつも、笑いながら、マーキングみたいだ、と言う。

「なっちゃんは俺のだもん」

「そんなことしなくたって、俺はお前のもんだよ」

 夏基がくすぐったそうに笑った。

 市谷先輩の言うように、俺がしていることは、すべて夏基のためだ。

 それが俺の免罪符。

 夏基のために。

 そう思い込んで、なんとか耐え切った。

 そして、そう思うことで、何もかも許されると思い込んでいる。

 ──夏基のために。

「なっちゃん」

「何だ?」

「俺に、して欲しいことはある?」

 夏基が不思議そうな顔をした。

「痛いことでもいいよ。──なっちゃんのためなら、何でもする」

「陽佳──」

 夏基が目を細めた。少しだけ開いた唇が、わずかに震える。

 キスを。

 そして抱擁を。

 俺の望みはみんな、夏基のすべてを自分のものにすること。

「何でもするよ」

 俺は夏基の手を持ち上げて、指先にキスをする。

「だから、言って」

「俺──は」

 夏基の頬が赤く染まっていく。

「何でも──?」

「うん、何でも」

 俺はうなずく。

 そう、何でも。

「なっちゃんのために──」

 すべては、夏基のために。

 俺は、少し考えてからそ願いを口にした夏基の望みを叶えるべく、抱き上げたその身体を優しくベッドに押し倒したのだった。


 了



 知らなくていい、と決意した夏基と、一生隠していくつもりの陽佳のお話。

 やっぱり、微妙にかみ合わない2人。

 お互い思い合ってるのに、いまいち確認できずです。

 きっと市谷、もどかしくてたまらんでしょう。「話し合え!」とか、内心思っていることでしょう。

 頑張れ市谷、負けるな市谷。

 君は大事なツッコミ要員なんだぜー。


 次回はちょっと休憩。

 そんな市谷のanotherです。

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