29 resolve


 市谷俊介(いちがや しゅんすけ)という男は、俺の中学からの友人である。

 その存在を意識したのは、わりと早い段階だった。名前だけは、廊下に貼り出されたテストの順位表で知っていた。1位の俺と2位の市谷は、僅差。俺とほんの数点しか変わらないその点数は、3位以下を大きく引き離し、ほとんど満点に近かった。

 市谷はとても目立つ生徒だった。見た目はどちらかというと地味なのに、その優しそうな笑顔と、いつも穏やかな佇まいが、周りの雰囲気を和やかにさせる。教師や、生徒からも信頼が厚く、一年から生徒会に所属し、いつも誰かに囲まれていいた。

 1年生の終わり、俺はたまたま通った生徒会室の前で、その話し声を聞いた。今よりも幾分高いそのかわいい声が、気遣うようなトーンで誰かに話しかけていた。

 ──お疲れなら、無理しないでください。俺で役に立つなら、お手伝いします。期待に沿えるかどうかは分かりませんけれど。

 多分、相手は、3年生と代替わりで会長になった2年生だったのだろう。市谷の言葉に感動した様子で何度もありがとう、と言っていた。

 ずいぶんと親切なんだな、と思った。

 きっとあの穏やかな笑みで、生徒会でも癒しの存在なのだろう。俺が見かける市谷は、いつもやつを頼る誰かに囲まれていたが、迷惑そうにしている表情など一度も見たことはなかった。

 2年になって同じクラスになった。市谷はあの優しげな笑みを浮かべて話しかけてきたが、俺はいつも通り、そっけない返事をした。そんな俺の態度にも、市谷が気を悪くした風はなかった。

 そんなある日、放課後の廊下で、俺は市谷が万年3位の生徒にからまれているのを見かけた。そいつには、俺も時々、謂れのない言葉を吐きかけられることがよくあった。

 いつもどおり、やんわりとそいつをあしらっていた市谷だが、その攻撃は俺に対するものよりもしつこい。人のいい、争いごとを好まなそうな市谷に強気に出ていることは明らかだ。俺は市谷が気の毒に思えて、その場に割り込んだ。

 多分、油断していたのだろう。いきなり現れた俺に、市谷が戸惑うような顔をした、と思った。だから、きっと、ほんのわずかな隙だった。

 市谷はすぐにいつもの穏やかな顔に戻ろうとした。けれど、俺の言葉に逃げるように去って行った生徒を見つめていた俺を呼んだ市谷の顔は、もうあの優しげなものではなかった。

 目には光が宿り、俺の思考を読むかのような、鋭さを持つ。一瞬で、何もかもを見透かすような、そんな目をしていた。

 なぜか、その表情を、俺は受け入れていた。

 俺が口元をゆがめると、市谷も笑った。もう、穏やかさなんて、どこにも見えなかった。

 ──あの日から、俺は、市谷の本性を知る一人目になった。


「だからって、まさかこんなだとは思わないだろー」

 小沢が頭を抱え込み、うなだれた。

「うるさい」

 市谷が冷たく言い放ち、プラスチックのスプーンをアイスに差し込んだ。サーティーワンのレギュラーダブル。カップに入っているのは、ナッツトゥーユーとロッキーロード。もちろん小沢のおごりだ。

「物理ごときで俺を頼るお前が悪い」

 市谷の本性を知る2人目の小沢は、時々こうして市谷に貢ぐ。忘れた宿題を見せてもらっては貢ぎ、分からないところを教えてもらっては貢ぎ、見ているこちらが呆れるくらいだ。

「次からは夏基(なつき)に頼むか?」

「──柴が優しいのは陽佳(あきよし)限定だし」

 確かに、俺は面倒ごとを好まない。というより、小沢に関わっている時間があったら、陽佳と一緒にいたい。同じ勉強を教えるなら、断然小沢よりも陽佳である。

「教えてもいいが、一度で理解するか?」

「…………」

 小沢が恨めしげに俺を見た。どうしてこいつが理数の特進クラスにいるのか、いつも不思議だ。

「俺の方が優しいだろ、小沢」

 市谷がまるで悪魔のような笑みを見せた。

 市谷は、俺と同様面倒なことが嫌いなわりには、面倒見は悪くない。宿題は写させてやるし、勉強だってきちんと教えてやる。ただし、地獄のようなスパルタではあるが。

 俺はチョコレートミントを食べながら、そんな2人を見て溜め息をついた。男子高校生が3人、カップに入ったアイスを食べながら歩いているだけでも目立つのに、見た目だけならやけに二枚目な小沢と、おっとりほのぼの柔らかい雰囲気の市谷が、傍からはただじゃれついているように見えているはずである。おまけに、そんな2人の隣を、無愛想な俺が歩いているのだ。目立つことこの上ない。

 甘いものは大して好きじゃない、という小沢が選んだのはジャモカコーヒー。それも、横から市谷にスプーンを差し込まれ、半分近く掻っ攫われている。

「俺は、お前はもっと優しいやつだと思ってたのに──ていうか、最初はめちゃくちゃいいやつだったのに」

「知らないな」

「いっそ、一生その本性隠しててくれればよかったのに」

 今さら市谷の本性のことをどうこう言っても仕方がない。俺と親しくなって、その流れで市谷とも話すようになった小沢が、打ち解けるのは早かった。そして、なぜか、市谷も、さらりとその本性を露にして見せた。さすがに小沢も初めのうちは驚愕していたが、慣れるのも早かった。──つまり、小沢は、順応性が高いのだろう。俺と陽佳の関係を知っても、あっさりとしたものだった。

「ああ? お前はよそ行きの俺がいいのか?」

 その声の凄みに、小沢がひくりと頬を引きつらせる。

「──いや、今の方がいいです」

 言わされているな。

 俺はおかしくなって小さく笑った。2人が俺を振り返る。

「笑ってんなよ、柴」

「それもよこせ」

 市谷が俺のアイスを一口奪っていく。市谷はよく甘いものを食べている。本人曰く、頭を使うと糖分を欲するのは当然、だそうで、定期的に糖分補給をしないと色々支障をきたすらしい。

 駅ビルから駅前にやってきた俺たちは、ベンチに腰掛けた。ほんの数ヶ月前まで、陽佳が俺を待っていたベンチだった。

 今日、珍しく俺が陽佳と一緒に帰宅していないのは、帰り際、市谷に話がある、と声をかけられたからだ。昇降口で待っていた陽佳にその旨を告げ、一応俺たちの利用する駅までは一緒に電車に乗って帰って来たものの、そこで別れた。後ろ髪引かれる思いで、そこから1人とぼとぼ帰っていく陽佳を見送った。

 小沢にペナルティを払わせるから、とアイスクリームを奢らせ──俺の分は、もちろん自腹である──市谷はようやく本題に入った。

「噂を流してたやつ、見つけたぞ」

 あまりにもさらりと言われたので、俺は一瞬困惑した。

「マジ?」

 俺より先に、小沢が食いつく。

「──どうやって」

「ちょっと本気出しただけだ」

 その言葉を、俺は思い知らされた。市谷がその件について動いてくれるのだろう、とは思っていた。だから黙って任せた。確かに、市谷にできないことはなさそうだ。けれど、こんな短期間でやってのけるとは思わなかった。

「俺の人脈だな」

 表向きの、人のよさそうな笑み。誰にでも優しく、頼りにされている市谷が、中学の頃からその才能を駆使してあらゆる関係性を築いていたのは知っていた。多分、こいつは幼い頃からすでに将来を見据えて、基盤を固めているのだろう。

「──誰だ」

「いきなりか、夏基」

「誰だった」

「──落ち着け」

 市谷はカップのアイスクリームを空にして、スプーンをくわえたまま溜め息をついた。

「なあ、夏基」

 スプーンをカップに戻した市谷が、真剣な目をしていた。

「お前は、どんなことも知りたいと思うか?」

「──どういう意味だ」

「お前にとって、知りたくないと思うことを、知る勇気はあるか?」

 市谷の質問の意図が分からなかった。陽佳に対する信憑性もない、下世話な噂を流した犯人を知るだけのことに、一体何の勇気がいるというのだ?

「そんなのは関係ない」

「関係ない、じゃない。その勇気があるかと聞いている」

「意味が分からない」

「そうだな」

 市谷は俺の手からアイスの入ったカップを奪った。まだ少し残っていたそれはほとんど溶けかかっている。市谷は黙ってそれを食べた。足元に置かれた自分のカップは空っぽで、俺のカップもすぐに空になった。

 頭を使うと糖分を欲する。

 市谷が俺のチョコレートミントを食べてしまった。

「息の根止めたいか?」

 確かに、俺は陽佳を泣かせたやつを見つけ出し、息の根を止めたい、と言った。その思いは今も変わらない。実際、その相手を仕留めるのは無理だろう。けれど、少なくともそうしたことを後悔させてやりたいと思う。

「ああ」

「犯罪者の友人ってのは、まだいないから、興味はあるが──」

 市谷の言葉に、小沢が不謹慎だ、と短く抗議した。

「市谷」

 俺は我慢できずに言った。

「いい加減にしろ。一体何なんだ。教えろ」

「噂は、全部が嘘というわけじゃじゃなかった」

「──な、に?」

「まあ、これに関しては本人たちにしか分からないから、真偽は定かじゃないとも言えるが──それでも、一部は、嘘じゃなかった」

 あれから、陽佳に関して流れていた噂をすべてかき集めてみた。10には満たないが、軽いものから重いものまで、すべてが女がらみ。そのほとんどは悪意さえ感じるほどだった。

「二股かけてるとか、三股かけてるとか、そんなのはかわいいもんだな」

 市谷が苦笑した。

「多分、そっちは途中で派生したんだろうな」

 一体何が嘘なんだ?

 そして、一体何が、嘘じゃなかったんだ?

 俺は噂をひとつずつ、思い出す。

 ──どれだっていい。どれだって、俺にとっては寝耳に水であることは間違いない。

 俺、してないよ。

 俺に抱きついて泣いた陽佳が、言った。

 全部、本当じゃないよ。

 俺に向かって、苦しそうに。

 市谷の言うことが正しいなら、陽佳のあの言葉は嘘になる。

 信じられなかった。

「あいつが俺に嘘をついたり──」

「そうだな」

 市谷がうなずく。

「俺もそう思うよ、夏基」

「だったら」

「だから、陽佳の言葉が嘘かもしれない、と疑う勇気はあるか?」

「────」

 市谷がさっきから問うているのは、そういうことなのだ。

 俺は、陽佳を疑わなければいけないのだ。

 ──陽佳が、何か隠していることは知っていた。だから俺は、それに気付かないフリをすると決めた。

 けれど。

「知りたくない」

 俺に言わないと決めたなら。

 陽佳自身が、そう決めたなら。

「──知りたくない」

 俺は、だまされてやると、そう、決めたのだ。

 市谷はしばらく黙って俺を見ていた。

 そう答えてはみたものの、どうしようもなく心が揺れていた。悔しくて、泣きたくなった。

「分かった」

 市谷がつぶやいた。

「じゃあ、この話は終わりだ」

 市谷は立ち上がり、足元のカップを持ち上げた。

「ゴミ、捨ててくる」

 小沢の持っていたカップも受け取って、市谷は離れたところにあるゴミ箱へ歩いていった。ベンチに残った俺は、膝の上で握り締めていた拳が震えているのに気付いた。

「柴」

 隣で、小沢が言った。

「俺は──よく分からないけど、聞かなくてよかったんじゃないかって思うよ」

「──なぜ」

「疑うの、嫌だろ」

 俺の顔を覗きこむように、小沢が首を傾げた。

「陽佳がお前に向ける愛情って、いつも100%のメーター振り切って、あり得ない数値たたき出してるように見えるんだ。──そういうとこ、傍から見ててもなんかかわいいしさ、お前だっていつもめちゃくちゃ嬉しそうじゃん。陽佳相手だと素直に笑って、喜んで、幸せそうだ」

「……ん」

「俺の願望かもな。──柴には、あいつの気持ち、疑って欲しくないって思う」

 小沢が俺の肩をつかんで抱き寄せた。

「多分、俺がふざけてこういうことしたらさ、あいつ、泣きそうな顔で『なっちゃんは俺のだよー』とか言いそうじゃん」

 小沢が手を離して、俺の身体が軽くなる。いつの間にか、俺の拳は緩み、震えも止まっていた。

「陽佳がさ、たとえ嘘ついてたとしても、それって、きっと、お前のためなんだと思うんだよ」

「俺の?」

「なんとなく、そう思った」

「──ん」

「だから、だまされてやればいいと、思う。──俺なんかに言われたくないかもしれないけどさ」

 小沢がそう言って笑った。陽佳とはタイプの違う、少し気障な二枚目。笑うと優しくなるその目に、女に向けるのとは違う親愛を感じた。

「いいやつだな、小沢」

 戻ってきた市谷が、にやにやと笑いながら言った。褒められたはずなのに、小沢がぎくりとしたのがおかしかった。思わず吹き出すと、市谷も小沢も少し安心したような顔をした。

「夏基」

「何だ」

「──俺がちゃんと墓まで持っていくから、心配するな」

 多分、陽佳の嘘を。

 噂に混じった、ほんの少しの真実を。

「ん」

 俺はうなずいた。

「それから──」

 市谷はにやりと、黒い笑みを浮かべた。

「犯人は、俺の方で、秘密裏に始末しておく」

 まさか本当に消したりはしないだろう。けれど、市谷の本気は底知れない。きっと、社会的制裁なのだろうな、とは想像できた。

「お前って、敵に回すと本気で恐いな……」

「お前はそんなことしないよな、小沢」

「…………」

 小沢が迷惑そうに眉を寄せた。市谷は楽しそうに笑った。

 小沢は市谷の家に寄って、今日出された宿題を片付けていくことになったらしく、俺たちは駅前で別れた。

「早く行ってやれ。きっと寂しくてきゅんきゅん鳴いてるぞ」

 泣いている、ではなく、鳴いている、と聞こえたのは俺の気のせいではないだろう。相変わらずの犬扱いだ。俺は市谷に向かっていーっと顔をしかめてやると、その顔に笑い出した2人に短く手を振って、急いで走り出した。

 後ろで、小沢がまた明日なー、と言ったのが聞こえた。

 俺は走りながら、陽佳、陽佳、と何度もその名を心で唱えた。

 俺に話すつもりがない秘密があっても構わない。小沢の言うとおり、きっと、それは、俺のためについた嘘で、俺のためを思ってのことだろうから。

 生まれてからずっと傍にいて、誰よりも俺を好きだと口にする陽佳が、俺のことを考えてついた嘘ならば。

 きっと苦しいのは、俺じゃない。

 あんなにも俺を好きな、陽佳自身だ。

 俺は息を切らせて、足を止めた。

「なっちゃん──」

 通りの向こう、私服姿の陽佳が、俺を見つけて手を振った。嬉しそうに。

 片手にはレジ袋。足元は紺色のクロックス。あの冬の日、俺を迎えに来た陽佳が、裸足に突っかけていたそれを、思い出す。

 ──真冬の冷たい空気の中、靴を選ぶ余裕もなく、陽佳は俺のために駆けて来てくれたのだ。

「陽佳」

 俺は通りを渡り、走る。そのまま勢いよく陽佳に飛びついた。

「なっちゃん?」

 陽佳は少しよろけたが、ちゃんと俺を受け止めた。俺よりも15センチ以上高い身長で、いつの間にかがっしりと筋肉のついたその身体に、俺は抱きつく。

「な、なっちゃん、ここ、外だよ?」

「知ってる」

「──なっちゃん?」

「帰ろう、陽佳」

 俺は顔を上げ、笑ってみせる。陽佳は不思議そうにきょとんとして首を傾げ、それからこくんとうなずいた。

「なっちゃん、今ね、お母さんがブルーベリージャム作ってるよ」

 片手に下げたレジ袋を持ち上げて、中身を指差す。

「レモン買い忘れたから、お使いなんだ」

「そうか」

「明日の朝のトーストは、新しいジャムだよー」

 俺の好きなブルーベリージャム。市販のものよりすっぱいそれは空き瓶に詰められ、俺の家へとやってくる。

「陽佳」

「何、なっちゃん」

「明日はちゃんと、一緒に帰ろう」

 陽佳はにこりと笑ってうなずいた。

「市谷が、お前が寂しくてきゅんきゅん鳴いてるんじゃないかってさ」

「えー、ひどいよ、市谷先輩」

「鳴いてなかったか?」

 俺がいたずらっぽく問いかけると、陽佳は笑顔になった。

「少しだけねー」

 そう言って楽しそうに、前を向いた。

「でも今はもう平気だよー。なっちゃんがいるからねー」

 まるで歌うみたいに言いながら、陽佳が嬉しそうに歩いている。

 苦しい。

 決心したのはついさっきなのに、俺の心はまだ揺れている。

 けれど。

 俺はそんな陽佳を見つめながら、陽佳の隠し事には一生気付かないフリをし続けようと決意したのだった。


 了



 はっきりしない!って思われた方ごめんなさい。

 抱えるものって、人によって様々です。

 すべてを知りたいと願う人もいれば、そうじゃない人もいる。

 知ったうえで黙っているという人もいれば、知ったからこそはっきりさせたいと思う人もいる。

 知らずにいたいと願っても、その方が余計なことを考えないで済むからと思う人もいれば、そうすることで踏みとどまれる人もいる。

 そう思うので。

 そういう選択を、あとから死ぬほど後悔することもあると思うですが、それは自分の責任です。

 後悔するかもしれない、ということを想定したうえで、選択してきたのなら、その後悔すら飲み込むべきだと私は思います。


 次は陽佳。

 噂をめぐるお話は、次でおしまいです。

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