28 黒い夢~different~
俺の目覚めはいつも突然で、はっと気付いた時にはもう目を開いている。
黒い夢を見ていた。
俺はよく、夢を見る。そのほとんどはちゃんと記憶に残っていて、夢だと分かっているのにやたらリアルに絡みつく。
黒い夢。
俺の見たくないそれは、俺の意志に反してしょっちゅう俺の眠りを苦痛に変える。
隣に、夏基(なつき)が眠っていた。時々、まるで死んでるんじゃないかと不安になるくらい静かに眠る夏基の心臓にそっと触れてみる。鼓動を感じ、ほっとする。
枕元のスマホを持ち上げたら、昨日眠る前にアラームをセットした時間よりも早かった。いつもより30分ほど早くセットしたのは、夏基を家族に気付かれないように部屋に戻すためだ。
俺はスマホを戻し、夏基に抱きついた。薄目を開けて俺を見た夏基が、焦点の合わない目視線をまるで泳がせるようにしている。
「まだ寝てていいよ、なっちゃん」
「ん」
夏基はまたすぐ目を閉じる。
夏基の首筋に顔をうずめて、その匂いを吸い込む。
昔から、夏基がそばにいてくれるだけで、すべて安心できた。
小学校の低学年くらいまで、俺はとにかくチビで泣き虫だった。今からは想像もつかないが、夏基はいつでもやんちゃで、活発で、とても元気な子供だった。俺はいつも夏基のあとを追いかけては、置いていかれらり、途中でついていけなくなって泣いていた。
夏基はそんな俺をいつも慰めてくれた。
俺がわんわん泣いて、夏基に抱きつく。夏基が馬鹿だな、と笑いながら俺の頭を撫でる。
それだけで、俺は簡単に泣き止んで、笑顔になれた。
今日学校の高学年くらいになった頃から、夏基が今のようにクールになっていった。それまでのようによく笑い、走り回り、はしゃぐことをしなくなった。
多分、あのジャングルジムの一件以来。
その代わり、やたらと怪我が増えた。活発さはそのままだったせいか、口数だけが減っていき、傷も増える。そんな姿を、俺はとても不思議に思っていたものだ。
俺は夏基の髪を指先ですくった。さらりと額に落ちていく黒髪が、とてもきれいだと思った。
──多分、夏基は、俺が泣いた理由を、勘違いしている。
俺が夏基に抱きついて泣いたのは、噂が辛かったからではない。その身に覚えのない噂に振り回されるのは面倒だし、クラスメイトやすれ違う生徒たちからの訝し気な視線は確かに辛いと感じていたが、それはきっと耐えられた。
俺に降りかかる問題は、別にどうってことはない。それよりもずっと大事なのは、それに夏基を巻き込んで、傷つけてしまわないようにすることだ。俺に向けられるあの視線が、夏基にも向けられるかもしれない、と思うだけで、我慢できそうになかった。
だから夏基と距離を置かなきゃいけないと思った。
あんな噂を立てられるような俺と一緒にいるだけで、夏基にも被害が広がってしまうから。
俺は手のひらをそっと首筋に当て、ゆっくりと夏基の肌を撫でおろしていく。
華奢な身体には無駄な肉は一切なく、平たい。あまり日に焼けない体質なのか、夏の盛りでもその肌はうっすらと赤く色付くだけで、またすぐにその白さを際立たせる。
夏基を守らなきゃいけない、と思っていたのに。
それなのに、俺は、結局、夏基から離れることなどできなかった。ほんの数時間ですら。
俺は弱い。
情けなくて、悔しくて、どうしようもなかった。
あんなに息を切らせて走ってまで夏基に会いに行ってしまうくらい、俺の意志は弱かった。
夏基の姿を見たとき、その声を聞いたとき、涙腺が、緩んだ。
──俺、いざとなったら、夏基を守ることなんて、できないのかもしれない。
そう思ったら、情けなくて、自分の弱さに呆れた。だから悔しくて、泣いた。
胸元、わき腹、腰、太腿、と手のひらを動かしていく。夏基が身を動かした。目を開けるまではしなかった。
夏基がいなきゃ、駄目なんだ。
俺、弱いね。
俺はそっとかけていた布団を持ち上げて、触れている個所を見つめた。右足の付け根、腰骨の近く、昨日、俺がつけたキスマークが残っている。
俺はいつも、たったひとつだけ、痕を残す。
毎回場所を変えて、夏基の白い肌に、小さな刷毛で短く塗ったような、赤い痕を。
俺は指先でその痕に触れた。ゆるゆると撫でていたら、夏基が小さく震えて、ゆっくりと目を開けた。
「朝から──そんな触り方、するな」
熱っぽい息を吐いて、夏基が言った。
「おはよう、なっちゃん」
俺は夏基の唇にキスをした。
もうすぐ、アラームが鳴る時間だった。
何度も2人きりになった進路指導室。あの小さな部屋で、俺は担任に好き勝手に触られていた。
初めは顔や、手を。
俺が抵抗しないのを知ると、その行為はどんどんエスカレートしていって、いつの間にか制服の内側にまでその指が入り込む。
キスは、もう数え切れないくらいされた。
俺は女の子と付き合ったことがない。告白だけは山ほどされたが、いつも返事はごめんなさい、だ。
俺のすべては夏基のためにある。
小さい頃から、俺は夏基のことが好きだった。子供の頃はその好意は純粋なものだった。けれど、年を重ねるたびに、俺は自分が他の人と違うことに気付いた。
夏基を好きだと思う気持ちを、誰かに否定されるのが怖かった。
だから、俺が夏基をそういう目で見ていることを、誰にも知られないように生きてきた。
子供の頃から毎日、なっちゃん好き好きと繰り返す。けれどその言葉の端に、態度に、少しでも性的なものを含まないように注意した。
俺の気持ちは純粋で、隣に住む幼馴染みを慕うそれでなければならない。
だから、俺は内心では夏基を抱きたいと思いつつ、表向きは無邪気に、子供のように、何の曇りもなくその好意を夏基にぶつけ続けた。その陰で、1人になった俺は、夏基を想像しながら自慰を繰り返す。そうやってなんとかバランスを取り続けた。
けれどあの日、俺は知った。
夏基が、俺に欲情することを。
夏基の思いを知ってからも、俺は必死で耐えた。夏基が大事で、俺の欲望で汚すことを避けたかったからだ。夏基の願いはいくらでも叶えたいと思った。けれど、俺の願いは、夏基の望むそれとは違うのだと思っていた。
夏基が満足できれば、それでいい。
俺の昂りは自分自身で鎮めた。それでも、俺は充分幸せだった。
──そして、あの進路指導室。
俺に触れる担任の指、唇、匂い。
すべてが夏基と違った。
吐きそうだ、と思った。
実際、解放された俺は何度か嘔吐した。
彼女はいない。初めて好きになったのも、始めてキスしたのも、夏基だった。
担任からのキスは絡みつくように甘ったるく、気持ちが悪かった。俺の肌に触れ、キスを落とし、物欲しそうに俺を見る。
セックスはしていない。
それだけはどうにか踏みとどまっていた。
ただ、俺をくわえた担任の口の中で、射精した。
俺の意思を無視して、乱れる息も、紅潮する頬も、どうしようもなかった。
セックスじゃない。
でも、一体、どう違うんだろう?
あの噂が、一体どこから流れたのかは知らない。
けれど、その沢山の噂の中に、真実の断片くらいは、混ざっているような気がしてならなかった。
俺はまだ、時々、あの甘ったるい匂いに包まれて、息苦しくて喘ぐ夢を見る。
苦しくて、泣きたくなるくらい辛いのに、その黒い夢はいつまでも俺の元を去ってはくれないのだ。
学校生活はいつも通り、噂に多少振り回されてはいるが、だいぶマジにはなってきた。
人の噂も75日、と言うが、まだほんのひと月足らずなのに、なぜか急激に収束に向かっているように感じた。
教室では、また前のように俺の挨拶に笑顔を返してくれる人が増えていた。
広瀬も相変わらず、俺の傍にいてくれる。
どうやら、噂を鎮めてくれているのは、市谷先輩を始めとする生徒会の人たち、それに小沢先輩とその知り合いらしい。2人の先輩にお礼を言ったら、気にするな、と言われた。生徒会は、学校生活を円滑にするための組織だからな、などと市谷先輩に言われて、何と返事をすればいいのか、一瞬困ってしまった。まあ、これは市谷先輩なりの優しさなんだろう。
驚いたのは小沢先輩で、どういう関係で仲がいいのかよく分からないが、文芸部の女の子たちと一緒に、俺に告白してくれた子たちと協力して、俺がその告白にちゃんと理由を言って真面目に返事をしたということを、誤解している人に説明してくれたらしい。
その代わりに、どういうわけか、一度一緒にご飯が食べたいです、などと言われ、俺と夏基、広瀬、それに2人の先輩と一緒に、文芸部の部室で、女子部員に囲まれてお弁当を食べたりもした。俺たちはただ普段通りにお昼を食べていたのだが、部員の子たちは何やら楽しそうに俺たちの様子を窺っているだけだった。
何が楽しいのかな、と俺が疑問を口にすると、小沢先輩もさあ、と首を傾げた。2人で考えていると、いつも何でも分かっているらしい市谷先輩が鼻で笑っていた。夏基はもちろん、我関せず、といった感じである。
付き合わせてごめんね、と言うと、広瀬は構わないよ、と言ってくれた。
それから、時々、俺は広瀬と2人でお昼ご飯を食べることも多くなった。もちろん、夏基たちとのランチタイムに、広瀬が混ざることも増えた。
そんなわけで、最近の俺の周りは、たまに時々賑やかで、ほんの数日前までの憂いはいつの間にか消えてしまっている。
「なっちゃん」
俺は机に向かって問題集を説いている夏基の背中に抱きついた。
「まだー?」
「あと3問」
宿題があるときは、優先。先に終わらせてしまえば、あとは思う存分くっついていられる。
俺の方は、英訳の宿題があっただけだ。理数系でなければ苦にはならない。わずかな時間で、俺はそれを夏基の部屋のベッドの上で終わらせた。そしてそのまましばらくそこに横になって携帯ゲームをやっていた。それにも飽きて、夏基の宿題が終わるのをうずうずしながら待っている。
夏基の部屋はとてもシンプルだ。俺の部屋のように、無駄なものが一切ない。机とベッド、クローゼット。部屋の片隅に置かれた木製のシェルフにテレビ。そして本棚がひとつ。見慣れたその部屋では、時間をつぶせるものはテレビくらいしか見当たらない。
夏基の読む小説は俺には難しすぎるし、ゲーム機のひとつもない。だから俺はいつも、携帯ゲームを持参するか、スマホのアプリを立ち上げる。
壁に掛けられた制服は、乱れなくきちんと整えられていた。
問題集を覗き込んだら、最後の答えを書き込んでいるところだった。だから俺は少しうつむくような格好になっている夏基のうなじにキスをした。ぴくりと夏基が身体を揺らし、持っていたシャープペンが止まる。
「陽佳──」
「早く」
夏基は止めていたペン先を素早く走らせ、答えを書き込んだ。夏基の手からペンが落ちたのを確認して、俺はぐるんと夏基の身体を椅子ごと自分に向けた。キャスターのついた椅子が、勢いよく回って、夏基の身体がぐらりと揺れる。
「なっちゃーん」
俺はその場に跪くようにして、座った夏基の腰に抱きついた。
「────」
夏基は少し呆れたように溜め息をついて、ぎゅっと抱きつく俺の頭をゆっくりと撫でた。
「なっちゃん、好き」
「ん」
「ぎゅってしたい」
俺は顔を上げ、夏基の手を引っ張った。椅子から腰が浮いた夏基が、俺の胸に倒れ込んだ。
「危ないな。怪我したらどうする」
「ちゃんと支えるよ」
「俺が、じゃなくて、お前が、だ」
夏基は少しだけ怒ったフリをして、それから笑顔になった。床に足を伸ばして座り込んだ俺にまたがるように向かい合って抱き合うと、俺の肩に額をつける。俺は夏基を抱き締め、その体温を感じていた。
俺よりも低いその体温が、じわりと俺に同化する。平熱の高い俺の温度を、夏基がゆっくりと吸収していくように熱を持つ。
俺は夏基の後頭部に手を当て、そのさらりとした髪を撫でた。俺の大きな手に収まってしまいそうな小さい頭が、少し、揺れた。顔を上げた夏基が俺を見つめる。
「なっちゃん」
「何だ」
「俺の初恋は、なっちゃん」
「────?」
夏基が目を細め、不思議そうに首を傾げた。
「いつ自覚したのか分からないくらい、ずーっと前から、なっちゃんしか好きじゃない」
物心ついたときにはもう、きっと、俺は夏基しか見えていなかった。ほかの誰かが、俺の心を奪うことなどあり得ないとすら思っていた。
「俺が小学生のときに見た初めてのエッチな夢も、なっちゃん」
「──マセガキだな」
「なっちゃんが悪いんだよ」
「俺のせいか」
「つまり、俺の初夢精はなっちゃんでした」
夏基がぷっと吹き出した。おかしそうに笑う。
「俺、夢の中でどんなことしたんだ?」
「とても言えないよー」
俺の答えに、夏基が声を上げて笑った。
「初めてのキスもなっちゃん」
俺の言葉に、夏基が笑うのをやめ、俺を見た。すぐ側にある夏基の唇が、少しだけ開いた。薄いその唇に、俺はキスをした。
「俺のファーストキスは、危なく血の味になっちゃうところだったけど」
「──悪いな」
夏基が腕につけた傷。あの傷のおかげで、俺と夏基はこうしてお互いの気持ちを打ち明けることができたようなものだ。
「いいよ」
血の味だって、構わなかった。
夏基が相手だ、ということに意味があるのだ。
「俺も──同じだよ、陽佳」
「なっちゃんのファーストキスは、俺のもの?」
「ああ」
俺はにこりと笑って、もう一度夏基にキスをした。
もう、数え切れないくらいしているのに、未だに胸が熱くなる。
「俺の初体験も、なっちゃん」
「──ああ」
俺は夏基を抱き締める。その胸に顔を押し付け、強く。夏基の両手が俺の頭を抱えるように抱き寄せる。
「なっちゃん、大好き」
「ん」
夏基の指が俺の髪に差し込まれる。頭のてっぺんに、夏基の唇が触れたのがわかった。短くちゅっと音がして、俺は目を閉じる。
「──なっちゃん」
「ん?」
「俺、黒い夢を見るんだ」
「黒い、夢?」
「うん。──すごく嫌な夢。昔から、怖いものとか、嫌なものをいっぱい見るんだ。今も見る。──それはね、とってもリアルで、俺が気付いていなかったような細かいところまではっきりと俺の意識下に潜り込んで、絡みつくんだ」
「そうか」
「匂いとか、感触とか、そのときの気分とか、みんな再現してるみたいに」
夏基が俺の髪を撫でる。ゆっくりと、優しく。
「でもね、それはいつも真っ黒なんだ。あんなにはっきりとすべてを映し出してるのに、夢の世界はみんな黒く塗りつぶされていて、とっても嫌な感じになるんだ」
だから俺は、それを、黒い夢と呼ぶ。
「怖いんだ、すごく」
「陽佳……」
「黒いんだよ、全部」
「──どうしてやればいい?」
「分かんない」
俺の答えに、夏基は少し困ったようだった。俺を撫でていた手が止まった。俺は顔を上げ、夏基を見つめる。
「分かんないけど、なっちゃんとくっついていたら、薄れていくような気がする」
「なら、くっついていればいい」
「うん」
夏基が笑い、俺の頬にキスをする。俺もにこりと笑った。
黒く塗りつぶされた夢の中で、思い出したくもない感触が俺を襲う。
担任の指先、体温、俺に絡みつく舌の感触。
ぞくりと、俺の意志とは反して、その衝動は収まらなかった。
一度だって、俺はあの担任に触れたいとは思わなかった。
「なっちゃん、大好き」
多分、永遠に、俺はその夢を見るのだろう、と思った。
ほんの数か月だけ。夏基と想いが通じたあの日から間を置かずして始まった。密室でのあの、甘ったるい匂いと声の襲撃。
罪悪感と、後ろめたさ。
俺が一生夏基に告げることのない、秘密。
「陽佳」
夏基の声が、俺に響く。
俺の「初めて」は、全て、夏基が相手だ。
たったひとつの、嘘を隠して。
俺は夏基の身体をきつく抱き締め、息苦しくなるほどの後悔を抱えて、荒っぽく夏基の唇を奪う。
「あきよし──」
苦しそうに息を継いだ夏基の、細めた目を見つめたまま、俺はこのまま一生、夏基とくっついてひとつになれたらいいのに、と考えていた。
了
後悔なんて、消えませんよ。
一生抱えて生きていくものです。
もう少しだけ、噂にまつわるお話が続きます。
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