27 scars


 俺の陽佳(あきよし)を傷つけるやつは、たとえ誰であろうと許さない。

 俺に抱きついて泣き出した陽佳が、俺を呼んだ。何度も、何度も。

 なっちゃん、なっちゃん、なっちゃん、なっちゃん──

 小さい頃、あんなに小さくて泣き虫だった陽佳が、いつの頃からか俺よりでかくなり、涙を見せなくなった。俺が少しきついことを言うとすぐにしゅんとヘタレはするが、あの頃のようにわんわん泣きながらなっちゃーん、と抱きついてくることはなくなっていた。

 それなのに。

 廊下で、俺は陽佳の身体を支えきれなくてそのまま崩れ落ちた。ひっくり返らずに済んだのは、寸でのところで市谷と小沢が支えてくれたからだ。小さい頃のように泣きわめいたりはしなかったが、陽佳は俺にぎゅうっと抱きついたまま、ぐずぐずと鼻をすすっていた。

 廊下には人だかりが出来、俺たちを興味本位で覗き込む生徒たちでいっぱいになった。そいつらを片っ端から追い払ってくれたのも、市谷と小沢である。

 時間にしてほんの数分。しばらくして俺から身体を離した陽佳の目は真っ赤で、俺は胸がずきずきと痛むのを感じた。もう一度抱き締めて、その頭を撫で、思う存分甘やかしてやりたいと思った。

「俺、してないよ」

 陽佳が言った。

「ひとつも、本当じゃないからね」

「そんなのは分かってる」

 俺がそう答えると、ようやく安心したように、陽佳が笑った。

 昔から、俺が慰めると、陽佳はすぐに泣き止んで笑った。

 騒ぎを聞きつけた教師が数名、やってきた。廊下にしゃがみ込んだままの俺たちを見て、神妙な顔をして、陽佳を呼んだ。話がある、と短く言って、有無を言わせずに陽佳を立たせ、連れて行こうとした。

「陽佳」

 俺が呼びかけると、少し心細そうな顔をして振り返った陽佳が、無理矢理笑顔を作った。

「大丈夫だよ、なっちゃん」

 そう言って、教師たちと一緒に、その場から去って行く。

「平気か、柴」

 小沢が俺に手を伸ばしていた。俺はその手をつかんで立ち上がる。

「──無理だ」

 俺のつぶやきを、市谷と小沢が聞き逃すはずはなかった。

「柴?」

「あいつを泣かせるやつを、俺が許すはずがないだろう」

「夏基──」

「見つけ出して、息の根止めてやる」

「ちょ、ちょっと待て、柴。落ち着け」

「俺は冷静だ」

「──確かに、冷静にキレてるな」

「市谷! そんなのん気なこと言ってる場合か」

 チャイムが鳴り響き、2人に促されて教室には戻ったが、そのあとの6限目はとても授業どころではなかった。小沢が言うには、俺の背中に青白い炎がゆらゆら揺れているのが見えていたらしい。

 怒りの炎って具現化するのか、と市谷がまたのん気に言って、小沢に珍しく怒られていた。

 放課後、昇降口のところで、陽佳が待っていた。隣には俺と変わらない身長の、人の好さそうな男子生徒が立っていた。

「なっちゃん、一緒に帰っていい?」

 聞くまでもないことを、陽佳が訊ねてきた。

「当たり前だ」

「迷惑かけない?」

「あり得ない」

 そう言うと、陽佳はにこりと笑った。それから隣の生徒を見て、

「ごめんね、広瀬。ありがとう」

 ああ、彼が広瀬か、と思った。陽佳の口からはその名前を聞いていた。しばらくクラスの中での友人関係にしっくりきていなかった陽佳が、珍しく自分から友達になったことを楽しそうに話していた。

「あー、例の友達?」

 俺の背後からひょこりと顔を出した小沢が、にっと笑った。

「俺、小沢。こっち、一見人が良さそうで実は悪魔の市谷。で、こっちの仏頂面は柴崎」

「広瀬です」

 ぺこりと丁寧にお辞儀をした。柔らかな笑顔は、なるほど、猫かぶっているときの市谷と重ならなくもない。

 駅まで、5人で連れ立って歩いた。小沢と広瀬は逆方向の電車だというので、ホームで別れた。線路を挟んで向こう側のホームに現れた小沢が、大きく手を振った。隣で広瀬が落ち着かない様子で立っている。市谷が呆れたような目を向け、陽佳が笑顔でそれに手を振り返す。電車が来たのは向こうが早かった。電車が出ると、向かいのホームは空っぽになった。

 教師に解放されたのは30分ほど経ってからだったらしいが、職員室で、散々噂について問い詰められた、と陽佳は言った。これだけ広がっていれば、教師の耳にもいくつかの噂が届くのは当然だ。しばらく様子を見るつもりだったらしいが、廊下での騒ぎを聞きつけ、問いただすことにしたと言われたのだと言う。

「全部嘘だって言ったよ」

「そうか」

「何でこんな噂が流れたのかも分からないって」

 陽佳はまだ少ししゅんとして、そのでかい身体を縮めるようにうなだれている。

「信用してくれたのかどうかは分からない……」

 口を開くと、陽佳は結構幼い。俺と話すときは特に、その言葉の端々に甘えが見える。俺自身が散々甘やかしてきたせいなのか、見た目とのギャップは結構大きい。

 俺たちはやってきた電車に乗り込んだ。

「付き合ってる相手はいるのかってしつこく聞かれた。──俺、言ってないからね、なっちゃん」

「別に言ってもいい」

「夏基」

 市谷がぺしんと俺の頭を叩く。

「面倒ごとを増やすな」

 本音だった。それで陽佳の疑いが晴れるなら、俺との関係を公にして蔑まれる方がよっぽどましだ。少なくとも陽佳1人ではなく、2人で矢面に立てる。

「言わないよ。──なっちゃんのこと、大事だから」

 やけにしんみりと、そんなことを言った。俺は何だかとてももどかしさを感じた。俺だって、同じだ。だからこそ、お前ひとりを悲しませたくない。

 けれど、陽佳は、俺に少しでもその苦しみを味合わせ宅ないと思っている。

 ああ、どうしてこう、うまくいかないんだろう。

 俺も陽佳も、黙ってしまった。市谷が、その様子を見て溜め息をつく。

「──少し、本気出すか」

 そうぽつりとつぶやいた。陽佳が不思議そうに首を傾げたが、俺はその意味を問わなかった。なんとなく、想像はついていた。

 そのあと、俺たちは当たり障りのない会話をして、駅前で別れた。

 並んで歩きながら、陽佳はまだ少し、俺に遠慮するように周りを気にしている。

「俺だけ見てろ」

 陽佳のネクタイを引っ張ると、陽佳が赤くなった。

「な、なっちゃんって時々すごく男前だよねえ」

「お前がよそ見するからだ」

「してないよ」

「現に、今、してた」

 陽佳が言葉に詰まる。自覚はしているらしい。

「なっちゃん、苦しい」

 俺の手はまだ陽佳のネクタイを引っ張ったままだ。

「こっち見てれば苦しくないはずだ」

「うう……犬みたいだよね、これ」

「首輪とリード、買うか?」

 俺が笑うと、陽佳はふくれっ面で口を尖らせた。

「犬じゃないもん」

「なら、こっち見てろ」

 俺がネクタイを離すと、陽佳はうん、とうなずいた。そして本当に、俺の方を見ながらにこにこと歩き続けた。

 極端なんだよ、お前は。

 俺は苦笑した。

 家の前で、別れ際、俺は陽佳を呼び止める。何? とかわいく首を傾げる陽佳を抱き締めてやりたくなるのを抑えつつ、

「夜、行く」

「うん」

 陽佳はにっこり笑ってうなずき、家に帰った。

 俺も玄関の鍵を開け、とりあえず、ただいま、と声をかけた。母親は留守だった。週に何度か、趣味で色々な教室に通っていて、そんな日は帰り際に寄り道してくるので遅くなる。

 ダイニングにメモが1枚。

 おやつは冷蔵庫。大きい方はあきちゃんのです。

 などと書かれている。この年になっても、きちんとおやつが用意されていて、尚且つ陽佳の分まで当たり前のように準備されている。きっと、陽佳の家でも、同じような状態なのだろうと簡単に想像できた。陽佳とそっくりなおばさんが、そのおやつはナツくんと2人でね! なんてちゃきちゃき喋っているのが目に浮かぶ。

 昔からそうなのだ。

 昔から、俺たちは、一緒にいる。それが当たり前なのだ。

 俺たち自身だけでなく、互いの家族すらも。

 今更、離れられるはずがない。

 嫌というくらい自覚していた。

 俺は自室に入り、制服を着替えてベッドに身体を倒した。窓の向こうで、陽佳も同じように着替えをし、休んでいるのだろう。曇りガラスを隔てた、ほんの数十センチの距離。いつだって、手を伸ばせばすぐに届くところに、陽佳はいる。

 俺の指先に、もう消えかけた傷。薄くなり、そのうち姿を消してしまうだろうそれを、俺は撫でてみる。

 陽佳の歯が噛み切り、血を流した、傷。

 俺の身体のあちこちにはそんな傷がたくさんついている。そのほとんどは跡形もなく消えてしまうが、いくつかは肌に違う色で線を残している。

 俺の傷は、こうしていつか消えていく。わずかに残る痕も、傍目には気付かないくらいに薄くなる。

「陽佳」

 お前が俺を頼るなら、いつだって全力で俺はお前を守ってやりたい。

 1人で抱え込んで、1人で泣くなんて、させたくない。

 陽佳の心の傷を癒す術を、俺は思いつけない。

 ただ、優しくしてやりたい。甘えさせてやりたい。望むなら、いつまでだって抱き締めて、その名を呼んで、安心させてやりたい。

 陽佳を傷つけるやつは、絶対に許さない。

 俺はベッドに寝転がったまま膝を抱え込む。

 学校の廊下で、俺を呼び、まっすぐに駆け寄ってきた陽佳の姿を思い出す。

 俺に抱きつき、泣いていた。陽佳の姿を。

 膝に額を押し付けて、俺は、悔しく、少しだけ1人で泣いた。


 家族が寝静まったのを確認して、俺は窓を開けた。ガラスの向こう、明かりがついている。

 俺は手を伸ばしてもうひとつの窓を開けた。机に向かっていた陽佳が顔を上げて、こちらを見た。

「勉強か?」

「うん、数学、最悪」

 俺は窓を乗り越えて、陽佳の部屋に入った。着地するとき、椅子から立ち上がっていた陽佳がまるで抱きとめるように俺を支えた。小さい頃から何度も出入りしているのだから、慣れている。けれど陽佳はいつも、俺をこうして迎え入れる。

「分からないところは、聞け」

「うん。──自分でできるところまでは、ちゃんとやる」

「そうか」

 陽佳は机に戻って教科書とノートを閉じた。それから、手を伸ばして、俺の部屋の窓と、自室の窓を閉め、カーテンを引く。

「おじさんとおばさんは?」

「もう寝てるよ」

「──陽佳」

 俺は両手を伸ばして、広げた。

「来い」

「なっちゃん」

「朝までいてやる」

 陽佳は一瞬、何かを堪えるような顔をした。けれど黙って俺の前までやって来て、そっと俺を抱き締めた。俺は伸ばしていた手を陽佳の背中に回した。

「1人で抱えるな」

「うん」

「頼れよ」

「──うん」

「そうじゃなきゃ、俺が辛い」

「うん、ごめんね、なっちゃん」

 お前が謝ることなどひとつもない。それに気付けなかった俺が、謝るべきだ。

「陽佳」

「何、なっちゃん」

「もう、二度と離れるな」

 陽佳が首を傾げた。

「今朝、学校で、すごく寂しかった」

「──ごめん」

「お前が、いつもみたいにつっくいてこないから」

「うん、ごめん」

「距離置こうなんて考えるな」

「ごめん」

「次にやったら、絶対に許さないからな」

「うん」

「一生お前に貼りついて、離れてやらないからな」

「──うん」

 俺は陽佳を見上げる。また、泣きそうな顔をしていた。赤くなった目元が、小さい頃の陽佳を思い出させた。ちょっとしたことですぐに泣いて、俺にすがりついていたあの小さな幼馴染みは、いつの間にか俺を簡単に追い越して、馬鹿みたいに大きくなっている。

 けれど、この泣き顔だけは、変わらない。

「好きだよ、陽佳」

「なっちゃん、大好き」

 ぎゅっと抱きしめられた。

「電気」

 俺は耳元で囁く。

「消せ」

 陽佳がゆっくり俺の顔を見下ろして、恥ずかしそうに笑った。

「うん」

 陽佳は名残惜しそうに俺から離れて、ドアの横にあるスイッチをぱちんと音を立てて消した。

 俺は暗闇の中で、その気配が近づいてくるのを待った。

 陽佳の体温が、すぐそばで、熱を伝える。

 小さな頃から、体温の高い陽佳を、湯たんぽ代わりにしていた。冬になると、ぬくぬくと暖かい陽佳の横にもぐり込み、一緒に眠った。ぐっすりと眠りについた頃、父親が俺たちをそれぞれの部屋に運ぶ。朝、目を覚ますと、俺は1人、自分のベッドに寝ていた。隣にいたはずの陽佳の姿がなく、寂しく思っていた。

「なっちゃん」

 俺を捕まえて、陽佳が言った。

「一生貼りついて、離れないで」

 再びぎゅうっと抱き締められた。

「離れないで。お願い」

 暗闇に慣れてきた目が、陽佳の輪郭を捉える。その目を覗き込んで、俺は笑った。

「離れない」

「なっちゃん──」

 陽佳も、笑った。

 俺は次の瞬間陽佳に抱えられ、そのままベッドに押し倒される。

「大好き」

 優しく落ちてきたキスに、俺は目を閉じる。

 泣き虫で、小さかった幼馴染み。

 いつの間にか成長して、俺よりもずっと高くなった身長。

 俺を守ることを覚え、1人で傷つこうとするようになっていた。

 おまけに──

「手まで早くなった」

 俺はくくっと笑った。陽佳の手は俺の肌を滑り、唇は首筋を下りていた。

「……駄目?」

 陽佳が、その言葉に、まるでお預けをくらった犬のような顔をして俺を見下ろした。

 馬鹿だな。

 朝までいてやるって意味、ちゃんと分かってるんだろう?

 俺は陽佳の首に両腕を絡ませ、自分に引き寄せ、キスをした。

「──もっと、言え」

 陽佳の指先が、俺の肌をなぞる。

「好き、って」

 手のひらが熱く、俺の意識が揺らぐ。

「大好きだよ、なっちゃん」

 その声はゆらゆらと、俺にゆっくりと浸透する。

 俺の口から漏れた吐息は、再び重ねられた陽佳の唇で、ふさがれた。


 了



 夏基は、陽佳溺愛なんで、陽佳を傷つける相手の息の根くらい止めます。

 あんまり人の目も気にしません。

 市谷ににらまれ、陽佳の良心があるので、なんとか常識的範囲内で生活してますが、歯止めがなくなれば駄々漏れです。

 まあ、実は、陽佳が泣いていたのは噂が辛かったからというわけではないんですが……。

 それは、この続きのお話で。

 

 次は陽佳です。

 この続き。次の日の朝から。

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