25 波紋
陽佳(あきよし)の様子がおかしい。
登校中、電車に乗り込んだ辺りから急に言葉少なになり、学校に着く頃にはいつもより俺と距離を開いて隣を歩く。昇降口で別れるときに、いつもならしつこいくらいになっちゃーんしばらく離ればなれだねー、などとぎゅうぎゅう抱きついてくるくせに、今日はそそくさと自分の下駄箱に向かい、控えめに手を振っただけだった。
俺はゆらゆらと陽佳に手を振り返しながら、首を傾げた。
「何してる、夏基(なつき)」
後ろからぺちんと頭を叩かれて、俺は振り返る。まあ、俺に対してこんなことをするのは1人しかいない。予想通り市谷(いちがや)が靴を履き替えていた。
「同じ電車だったみたいだな」
「今日は遅かったな」
「生徒会の仕事がなかったからな」
いつもは俺たちより数本早い電車で登校している市谷は、生徒会で会計を担当している。初めは会長を打診されたらしいが、やんわりと穏やかな笑みでそれをお断りしたらしい。自分には荷が重いので、というのは表向きの理由。実際は面倒を避けただけである。
俺や小沢、陽佳の前では腹黒く計算高く口が悪いという性格が丸出しなのに、なぜ俺たち以外にこの本性がばれていないのか不思議だ。きっと世の中の人間には、見たくないものは見ないという都合のよいフィルターでもかかっているのだろう。
「で、どうしたんだ」
並んで教室に向かいながら、市谷が訊ねた。
「変な顔してるぞ」
「──陽佳がおかしい」
「いつもだろう」
その言い草はどうにかならないものだろうか。
「いつもより、おかしい」
俺は言い直す。市谷に逆らうだけ無駄である。
「昨日の夜も、今朝も、あれだけべたべたひっついていたのに、急によそよそしくなった」
「捨てられたか」
「違う」
俺の答えに市谷が愉快そうに笑った。
教室に入ると、一瞬、クラスメイトが静まり返り、俺たちを見た。普段から遠巻きにされている俺たちだが、こんな反応は初めてである。俺たちは別段、気にするわけでもなく自分の席に着いた。市谷の後ろの席に座っている小沢が、市谷に話しかけていた。
静まり返ったのは一瞬で、そのあとは何かひそやかに、教室のあちこちでこそこそと顔を突き合わせて話すクラスメイトたちが、時々俺に視線を向けた。
──俺、か。
どうやら市谷ではなく、俺の方に理由があるらしい。ちらりと市谷たちを見ると、まだ2人で何か話していた。
ホームルームまでは10分ほど。陽佳の教室まで行って、さっきのよそよそしい態度を問いただしてくるべきか、と考えた。一限目の現国の教科書を机の上に立て、その上に手のひらを置いて手持無沙汰に左右に揺らしていると、クラスメイトの声が聞こえた。
──あの1年が、な。
──柴崎、知ってるのか?
俺は、その声の方に視線を向けた。話していたクラスメイトが、はっとしたように口を閉ざした。俺はそのクラスメイトたちに声をかけようとして、市谷に名前を呼ばれ、止められた。
「夏基、あとで、話がある」
市谷がいつの間にか俺の席の傍まで来ていて、静かに言った。
「今言え」
「いや、あとだ」
始業まであと数分。時間がないと判断したのだろう。市谷はそう言って自分の席に戻って行った。
1年。
つまり、陽佳のことだと分かった。
俺ははやる心を抑え、休み時間を待つことになった。
普段なら休み時間になるとやってくる陽佳の姿が、今日はない。もちろん、毎時間やって来ていたわけではないので、たまたまかもしれない。そう思いつつ、俺は市谷と小沢に連れられ、屋上に向かった。
誰もいないのを確認して、小沢がフェンスに寄りかかるようにしてその場にしゃがみ込んだ。
「お前、陽佳から何か聞いてるか?」
市谷の問いに、俺は首を振った。
「噂、流れてるんだ。あいつの」
小沢が言った。
「結構、やばい噂」
「やばい?」
「なあ、あいつ、付き合ってる相手、いんの?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。もしかしたら俺たちのことが公になり、陽佳が誹謗中傷でも受けているのだろうか、と思ったからだ。
「どうして」
「──俺が聞いただけでも、3種類。寄って来た女食い捨ててるっていう話と、女妊娠させたって話と、中学のときの教師とヤりまくってたって話」
俺は、呆気に取られた。
──陽佳とそんな噂が、とても結びつかない、と思った。
見た目だけなら大人びて、あの長身と整った顔でやたらモテる陽佳だが、俺の知る限り誰かと付き合っていたことはない。それどころか、小さな頃から、好きな女の子の話ひとつ聞いたことがない。
第一、物心ついたときにはあいつは俺の顔を見るたびになっちゃん大好き、と口にする。実際、今朝だって、俺を迎えに来た陽佳は、おはようー、と俺に抱きついて、なっちゃん今日も大好きー、などと言っていたではないか。
あいつが俺以外の人間を好きになるなんて、考えられない。
「まさか、信じてるんじゃないだろうな」
俺が目を吊り上げると、小沢が呆れたようにばーか、と言った。
「んなわけないじゃん。付き合いは短いけど、あいつに裏あるなんて、信じられねーよ」
「あの馬鹿が、お前以外になびくはずがないな」
市谷も、当たり前のように答えた。
「──みんな女がらみの噂じゃん? だから、もしかしたらふられた女とか、昔の彼女とかが流したのかなって思ったんだけど」
「……昔の彼女も何も、あいつにそういう相手はいなかった」
「本当か? 幼馴染みだからって、全部話すってわけじゃないだろ?」
「──小沢」
俺はしゃがみ込んでいる小沢を見下ろした。
「何だよ?」
「あいつの恋人は、俺だ」
「……は?」
小沢がぽかんと口を開けて、俺を見上げている。
「生まれた時からずっと、俺はあいつしか見えない。──あいつも多分、同じだ、と、思う」
「──マジか」
小沢はがしがしと頭をかきむしり、それから」もう一度俺を見た。
「冗談じゃなく?」
「冗談は言わない」
「だな、お前はそういうやつだな」
はあ、と溜め息をついた。ちらりと市谷を見て、
「お前は知ってたんだろうな」
市谷がうなずく。
「俺だけのけ者?」
「そういうつもりだったわけじゃない。──言い出すタイミングがなかった」
「ていうか、気付くだろう、あれだけあからさまなら」
市谷は一言多い。小沢は眉をひそめ、口を尖らせた。
「どうせ気付きませんでしたよー。仲のいい幼馴染みなんだと思ってましたよー」
「悪い」
俺が謝ると、小沢が驚いたような顔をして俺を見た。
「うわ、謝った」
「──悪いと思えば謝る。俺は市谷じゃない」
「ああ、市谷は絶対謝りそうにないよな……」
「謝らなきゃいけないようなことはしないからな」
市谷はそう言って、それから隣にいた小沢の頭にぽんと手を置いた。何度か軽くたたいて、ふっと笑う。少しすねたような顔をしていた小沢が、仕方ないなとでも言うように溜め息をつき、立ち上がった。市谷の手を振り払う。
「分かった」
俺の正面に立った小沢が、言う。陽佳よりは数センチ低いが、長身のその姿を見上げた。
「──噂の出所が気になるよな」
小沢が考えるようにそう言ったので、俺は少し、驚いた。
「それだけ、か?」
「何が?」
「分かった、の一言だけか?」
「……は? だから、分かったって。付き合ってんだろ? 柴と陽佳」
俺は再び呆気にとられることになった。
「理解したってば。異常に仲良かった理由が判明して、すっきりしたぜ」
「小沢が単純でよかったな、夏基」
「驚愕だ」
俺は素直に答える。もっと突っ込まれたり、責められたり、もしかしたら軽蔑され、関係を見直されるかもしれないと思っていただけに、拍子抜けした。
「俺、そんな薄情に見えんの?」
俺の考えていることが分かったのか、小沢が苦笑した。
「驚いたは驚いたけど、言われてみれば、納得。だから、別に気になんないよ」
「そうか」
校内にチャイムが鳴り響いた。予鈴だ。次の授業は英語。市谷も小沢も教室に戻るそぶりはなかった。まだなり続くチャイムを尻目に、小沢が続けた。
「問題はさ、陽佳がこの噂をどう思っているか、だよな」
俺は、今朝の陽佳の様子を話すことにした。駅に向かっている頃までは、いつものようににこにこと嬉しそうに話していた。ホームにいたときも。電車に乗り込んだとき、それまで笑顔だった陽佳が、ふっと表情を消した。同じ制服を着ている生徒が数人、車内にいた。
そして、昇降口でのあの態度。
「知ってるんだな、あいつ」
「なるほど、お前に迷惑かけないように、距離置いたってことか」
そんな必要などない。その噂が嘘だということは俺が一番よく知っている。
食い捨ててる? 妊娠させた? ヤりまくっていた?
あの陽佳に、そんな器用な真似ができるはずがない。
第一、あいつの初めては、全部、俺がもらっている。
「生々しい話はすんなよ」
市谷が厳しい目をして言った。どうやら俺の思考を読み取る能力を兼ね備えているらしい。小沢がきょとんとしている。多分、俺たちの中では一番経験豊富だろうに、どこか鈍くてとぼけたとことのあるやつだ。
「あれだけいい男ならさ、多少の嫌がらせはあってもおかしくないと思うんだよ」
小沢が真剣な顔をしている。そういう小沢自身も、わりと敵は多い。そのルックスと性格から、やたら女に人気があるのを逆恨みする男から、謂れのない嫌がらせを受けていることも知っていた。小沢はそれを大して気にもしていないが、時々行き過ぎたその嫌がらせに、傍で見ていた俺と市谷が閉口したこともある。
「それにしたって、噂に悪意がありすぎると思うんだ」
「そうだな。全部女がらみってのも気になる」
「どう考えたって、女食って捨てていくタイプじゃないだろ」
陽佳は、基本的に優しすぎるくらいに優しい。昔から、告白してくれた女の子には必ず直接返事をする。もらった手紙には返事を書く。ありがとう、ごめんなさい。そんな風に、きちんと。
本鈴が鳴った。俺は空を仰ぐ。
「お前ならいざ知らず」
市谷がふざけたように言った。小沢は不機嫌そうな顔をした。
「してねーよ」
「そうだった。いつもふられるのはお前の方だったな」
「うるせー」
わざとそんなやり取りをしているのだと、気付いた。俺は見上げていた空から視線を2人に向けた。
「──あいつが卒業する前」
俺はつぶやく。2人はやり取りを止め、俺を見た。
「何か悩んでるみたいだった。──ずっと、何か、抱えてるみたいに見えた」
遠くを見つめる陽佳が、見たこともないくらい大人びていた。その表情は空虚なのに、どこか辛そうに、寂しそうに。
「俺は何も聞けなかった。──俺に話したくないことなら、聞かない方がいいと思ったからだ」
「そうか」
「──俺が知らないことも、あるんだ」
ようやく気付いた。
俺は、陽佳のことなら何でも知っていると思っていた。何でも分かっていると思っていた。陽佳が思い悩むことも、きっと、いつか話してくれる日が来るだろうと思っていた。
けれど、もしかしたら、陽佳は、一生俺にそれを言うつもりがないのかもしれない。
ようやく、俺はそれに気付いた。
なっちゃん。
人懐っこい笑みを浮かべ、俺を呼ぶ。
悩みなんてなさそうに、いつも能天気に明るく、俺に擦り寄ってくる。
なっちゃん、大好き。
そうやって呆れるくらいの言葉を投げかけ、無理矢理にでも押し付けてくるくせに、絶対に俺に弱音を吐かない。いざというときに俺を頼ったりしない。
全部1人で抱え込み、1人で解決しようとする。
なっちゃん。
あんなに甘えてばかりいるくせに。
俺が、そうさせているのか、と思った。
あんなに溺愛している陽佳のことを、俺が一番、分かってないんじゃないだろうか?
「陽佳」
思わずつぶやいた。市谷と小沢が俺を見つめていた。
こんな噂を、誰が信じる?
陽佳を知る人間ならば、きっとほんのわずかだって疑いはしない。
だって、あいつはいつもまっすぐに、俺を見る。
俺を、大好きだと言う。
嬉しそうに、幸せそうに、笑顔で。
あの馬鹿でかい身体でぎゅうぎゅうと抱き締めて、何度も何度も大好きだと繰り返す。
なっちゃん。
なっちゃん、大好き。
まるで子供みたいに、俺に笑う。
昔から、ずっと。
「夏基」
「柴」
2人が同時に俺を呼んだ。俺は顔を上げる。多分、俺は泣きそうな顔をしていたのだと思う。2人はその表情に何も言わず、そっと俺の肩に手を置いた。俺の両肩に、じんわりと体温が伝わった。
俺は、陽佳のためならこの2人を簡単に切って捨てる。
それを聞いたとき、陽佳は寂しそうな顔をした。そんなこと、させたくないよ、なっちゃん。そんな風に言って、笑った。その笑顔はやっぱり寂しそうで、どこか傷ついているように見えた。
俺にとって、何よりも優先するのはお前だから。
お前以外、何もいらないんだよ、陽佳。
俺は奥歯を噛みしめた。
「それでも──」
市谷が、言った。
「お前の傍にいるのは、俺たちの勝手だよな」
どうして市谷は、いつもいつも俺の考えを読むのだろう。
「この、人外」
「何とでも言え」
どこか楽しそうに、市谷は言った。
俺は再び空を見上げて、冷静さを取り戻そうとした。
陽佳。
浮かぶのは、いつだって俺に向けられる満面の笑みで──
ああ、今すぐに。
なっちゃん。
陽佳の声。
なっちゃん、大好き。
俺を、呼んで。
見上げた空はどこまでも晴れ渡り、俺は思いきり大きく息を吸い込んだ。それをゆっくりと吐き出して、俺は普段の自分に戻る。
市谷と小沢も、つられるように空を見た。
「いい天気だな」
小沢がそう言って、少し笑った。
空を仰いだまま、俺は、ひたすら、陽佳に会いたい、と思っていたのだった。
了
ざわざわ。
て、ことで、波紋です。
下世話な噂ですみません。
陽佳なんて、「待て」って言われたら、死ぬまで待てしてそうなのにね。
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