22 ambient


 その声を聴いたのは2年ぶりだった。

 玄関を開けて、陽佳(あきよし)が大声で俺を呼ぶ。

「なーっちゃーん、学校行こうー」

 ダイニングでコーヒーを飲んでいた俺は、ちらりと時計を見た。母親がフライパンを洗いながら、あきちゃんだ、とつぶやく。

「妙にしっくりくるわよねえ、あの声」

 母親はくすくすと笑い、俺はダイニングチェアから立ち上がった。

 小学生の頃からずっと、陽佳はこうして俺を迎えに来る。

 2年という年の差はどうしたって埋められない。小学5年になった陽佳は中学生になった俺を迎えに来れなくなったし、中学2年になった陽佳はやっぱり、高校生になった俺を迎えに来れない。でも、たった1年でも、同じ学校に通う、ということが陽佳にとっては大事だったらしい。

 2年ぶりの呼びかけを、俺は毎朝こうして聞いている。

「おはよー、なっちゃん」

 玄関に立っていた陽佳が、俺を見てにこりと笑った。ネクタイは首にだらりと引っ掛けたままだ。俺は靴を履いてからそのネクタイに手を伸ばす。しゅるりと手早く結んだそれを、だらしなくならない程度に緩めて形作る。

「ありがとう、なっちゃん」

「行くぞ」

 陽佳はうん、とうなずいて、いってらっしゃい、と声をかける母親に手を振った。駅まで約15分、今日も2人で並んで歩き出す。

 たったそれだけのことなのに、やけに幸せだな、と感じた。


 教室に入ると、市谷(いちがや)が大仰にふんぞり返っていた。前の席には小沢。必死でノートを写している。何してるんだ、と訊ねると、数学の宿題を忘れたとのこと。

 俺たちは3年になり、揃って特進クラスと相成った。俺と市谷はともかく、小沢までは特進に入ってくるとは思わなかった。1年のときは小沢と、2年になってからは3人同じクラスになったが、今年もまた1年、同じクラスである。

「お前って、頭いいんだか悪いんだか分からないな」

 見た目だけなちゃらちゃらと、この進学校の、しかも特進クラスにそぐわない小沢だが、成績は思ったより良いらしい。と、言っても2クラスある特進のメンバーの中では下位の成績ではあるが。

「見た目だけよくて中身空っぽじゃモテないだろ」

 どこまで本気なのか、そんな理由でその成績をキープしているなら、ただの馬鹿ではなさそうだが。

「今日も陽佳と同伴か」

 市谷の問いに俺はうなずく。

「ようやく朝、こっちに来なくなったな」

 入学したての頃は、登校して自分の教室に鞄を置いた陽佳が、すぐに俺のクラスにやってきていた。入口で「なっちゃーん」と大声を出し、ぱたぱた尻尾を振って俺がよし、と言うのを待っていた。

 教室に入ってきた陽佳がなっちゃんなっちゃん、と俺に擦り寄り、市谷が突っ込みを入れ、小沢が呆れたように笑う。そんな光景が繰り広げられたものだが、さすがに毎日3年の教室に1年がやってくるのはあまりよろしくない、という市谷の言葉に、渋々その回数を減らした。

 おまけにここは特進である。普段から勉強ばかりしているようなお堅いクラスだ。多分、たいして勉強に熱心でない俺たち3人はそうでなくてもこのクラスでは浮いている。そこにあの能天気な陽佳が加われば、反感を買うのは仕方がない。

 市谷は、それも加味した上で、陽佳をかばってくれたのだろうと気付いていた

 入学して一か月、陽佳は自分のクラスにもなじんで、時々、友人らしい数人と楽しそうにしゃべっている姿を見かけた。そこに女子生徒が何人か混じっているのを見るたび、俺の眉間にしわが寄る。そのたび、市谷がそこにぶすりと指を突き刺す。

 狭量、と短く突っ込まれ、言葉に詰まったことは数知れず。

 ノートを写し終えた小沢が、それを捧げ持って深々と頭を下げながら市谷に差し出した。

「ありがとうございました」

「フレッシュネスバーガーのベーコンオムレツバーガー、オニオンリングセット、オーガニックティー」

 それを受け取った市谷がまるで呪文のように紡ぐ言葉に、小沢が苦い顔をして渋々といった感じでうなずいている。今日の放課後はハンバーガーショップに寄り道らしい。なんだかんだでこの2人は気が合っているようだ。

「お前も来るか?」

 市谷が訊ねる。俺は少し考え、

「陽佳に聞いてみる」

「──柴ってさ、何でも陽佳だな」

 小沢が呆れたように言った。

「今までだって結構話は聞いていたけど、同じ学校になったら、今までがかわいく思えるぜ」

「昔からこうだ。──まあ、去年あたりから激化してるとは言えるが」

 俺と陽佳の関係を知っている市谷は、にやりと意味ありげに笑った。小沢は首をひねり、

「幼馴染みって、そんなにかわいいのか?」

「かわいい」

 即答した俺に、小沢がははは、と乾いた笑いを返す。

「まあ、かわいいっちゃかわいいけどさ。──犬みたいで」

 俺はうなずく。市谷もうんうんうなずいている。共通認識。

「つーかさ、すげーモテてるよな、お前の幼馴染み」

 俺はぴくりと眉を動かす。

「告白されてたぞ。裏庭んとこのイチョウの下」

 まあ、モテているだろうということは分かっていた。俺にすべてを報告する義務はないのだから、黙っていることを責めるつもりはない。けれど、やっぱり、面白くないものは仕方がない。

「──いつ」

「昨日」

 小沢が答えたのと同時にチャイムが鳴った。わらわらと自分の席に戻るクラスメイトたちに混ざって、俺もそうした。


 昨日、陽佳が俺の部屋にやってきたのは夕食のあとだった。数学が難しい、と勉強道具を持ってやってきたのは窓から。普段は、よほどのことがない限り玄関から出入りする。表向きは両家の親に窓の出入りは禁じられているので、気付かれないように。

 俺はそれを珍しいな、と思ったが、あまり気にすることなく勉強を教えてやった。1時間ほどみっちりと教え込んでやったら、くらくらとめまいのするらしい頭を押さえた陽佳が俺のベッドに横になった。

「頭割れるよー」

「テストで赤点はやめろよ」

「うん、頑張るー」

 俺は勉強道具を片付けて、ベッドに座った。仰向けになって目を閉じている陽佳の頭をそっと撫でてみる。陽佳はふにゃりと笑い、気持ちいいーと言った。

「なっちゃんの手、好き」

「そうか」

 柔らかくゆっくりとそのクセのある髪に指先を差し込んでかき混ぜていると、陽佳が目を開けた。むくりと起き上がり、俺の身体を抱き締める。

「陽佳?」

 俺の着ていたTシャツをめくりあげ、右手で肌をなぞる。

「なっちゃん」

「──何だ」

「ここと、ここ、どっちがいい?」

 差し込んだ右手の指で、俺の肩とわき腹を順番に撫でた。

「──何、が?」

 陽佳に触られているだけで、頭がぼうっとしてきた。俺がふわふわと揺れると、陽佳はにこりと笑って、俺の服をめくりあげたまま押し倒す。

「──こっちにするね」

 ぺろりと俺の左のわき腹を舐める。あばらの下、陽佳が甘噛みする。

「陽佳……」

「うん、何、なっちゃん」

「どうした──?」

「どうもしないよ、なっちゃん」

 何度か角度を変えて歯形をつけるように噛みついていた陽佳が、笑った。その笑いがどこが寂しげに見えたのは気のせいだろうか。

「あき──っ!」

 突然、ぴりっと痛みが走る。陽佳の歯が俺の皮膚を噛み切った。ぞくりと背中から後頭部にかけて震えが走り、毛が逆立つ。

「痛い?」

 俺は薄く目を開けて陽佳を見た。俺の血で汚れた唇を、舌で拭った。

「──痛い」

「そっか」

 陽佳は再び同じ場所に噛みつき、舌を這わせる。舌が触れるたび、その傷口はひりひりと痛み、どんどん熱を持っていく。息が乱れ、堪えられない。

「俺じゃなきゃ駄目なんだよね、なっちゃん」

「────?」

「俺が痛くしなくちゃ、駄目なんだよね?」

 いつの間にか俺に覆いかぶさるように見下ろして、陽佳が言った。

 ──どうして、泣きそうな顔をしているんだ?

 俺は右手を伸ばして、そっと陽佳の頬に触れた。

「そうだよ」

 陽佳の右手は俺のわき腹に添えられている。親指が傷口を触り、時々ぴりっと傷んだ。

「他のやつにされるのは、ごめんだ」

 ゆっくりと、傷口に爪先が入り込む。人差し指と中指の爪を立てるようにして、力がこもる。傷口をひっかかれて、俺はびくんと跳ねた。

 陽佳が俺に与える痛み。

 頭の中が真っ白になり、そこに真っ赤な血がまるでしぶきのように広がる。その世界にめまいを起こし、ゆっくりと目を開いた俺が目にするのは、いつも少し辛そうに俺を見る陽佳の顔だった。

 どうして。

 身体中が震える。

 痛い。

 陽佳の舌がその傷口を割るように差し込まれ、俺は歯を食いしばる。

「あき、よし」

 両手を伸ばしてつぶやいたら、きつく抱き締められて、キスされた。舌に絡まる血の味が、ゆっくりと浸透していく。

「俺は」

 陽佳がささやくように言った。

「なっちゃんから絶対離れないからね」

 その声は凄みがあって、いつもの陽佳らしくないと思った。まるで俺を縛るように、強く強く抱き締められ、息もできないくらいに舌が絡む。

 血の味がする。

 目を開けたら、陽佳が俺を見下ろしていた。

「大好きだよ、なっちゃん」

 身体中を支配する、小さな傷口をえぐる痛みに、俺はふっと意識が遠くなっていくのを感じた。

 薄くなるその意識の中で、陽佳が俺を呼んでいた。

 何度も。

 なっちゃん、なっちゃん、なっちゃん。

 泣くな、馬鹿。

 俺はゆるゆると持ち上げた手で陽佳の髪に触れた。

 もう一度、キスしたい、と思った。

 陽佳が俺の目を覗き込み、そっと唇を重ねた。血の味のしない、優しいキスだった。

 ──多分俺は、眠っていたのだろう。次に目を開けたとき、陽佳が俺を見下ろして、にこりと笑った。

「どのくらい、寝てた?」

「30分くらいだよ。──大丈夫?」

 俺はうなずく。身体はきれいに清められ、わき腹には手当のあと。いつものようにサージカルテープで止められたガーゼ。

「ねえ、なっちゃん」

「ん──?」

「ここで寝てもいい? 朝になる前にちゃんと帰るから」

 俺は陽佳を見上げる。陽佳が玄関ではなく、窓から入ってきた理由が分かった。

 初めから、そうするつもりだったのだ。

「いいよ」

 俺は体を起こし、伸びをした。

「歯、磨いてくる」

「うん」

 陽佳を部屋に残し、俺は1階に下りた。両親は眠っているのか、明かりは落ちていた。もう日が変わる時間だった。

 冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んで、それから洗面所に向かった。歯を磨きながら、着ているTシャツをめくってみた。出血していた傷はきれいに手当てされ、ガーゼに隠れている。その裾をもう少しだけ持ち上げて、俺は赤面した。あばらの上、胸の下辺り、いつの間にか小さなキスマークができていた。

 ──陽佳。

 俺は裾を下ろし、赤い顔で歯を磨いた。

 部屋に戻ると、俺のベッドで陽佳が眠っていた。俺のためにスペースを残すように、ベッドの端っこに丸くなっていた。

 俺は苦笑し、ベッドにもぐり込む。陽佳の頭を撫で、その寝顔を見つめた。眉間にしわが寄っていた。

 俺がねだったわけじゃない。

 陽佳が自ら、俺に痛みをくれた。

 ──なあ、陽佳、どうしたんだよ?

 陽佳の髪は俺の指に絡まり、ぱさりと落ちる。撫で続けていたら、その寝顔が少しずつほぐれていった。眉間のしわが消え、俺はほっとした。陽佳の目尻にキスをして、ベッドサイドのライトを消し、俺も眠った。

 朝、目を覚ますと隣に陽佳はいなかった。

 多分、朝早く、自分の部屋に戻ったのだろう、と思った。

 俺は登校の準備をし、部屋を出た。今日も、いつもの時間に、陽佳が俺を呼びに来るだろう。

 なーっちゃーん、学校行こうー。

 と、昔から変わらないその台詞を大声で言いながら。


 昼休み、弁当片手に俺の教室にやってきた陽佳が、入り口で俺を呼ぶ。俺は入って来い、というジェスチャーをして陽佳が来るの待った。

 昼休みは、一緒に弁当を食べる。市谷と小沢も面白がって混ざってくる。陽佳はおばさんの作った大きな弁当をぱくぱくと食べながら、教室であったことを楽しそうに話す。特進のクラスメイトは相変わらず俺たちをあまり好意的な目で見てはくれないが、そんなのは知ったことじゃない。

「そういえば、陽佳、昨日告白されてたの見たぜ」

 小沢まで、いつの間にか陽佳を呼び捨てにしている。まあ、白々しく沢村くん、などと呼ばれるよりずっといいが。陽佳も気にしていないようで、小沢からの呼び捨てを受け入れている。

「えー、小沢先輩、何であんなところにいたんですか?」

「サボり」

「……特進なのに?」

「こいつはこういうやつだ、陽佳」

 市谷が切り捨てる。

「かわいい子だったよな。付き合うの?」

 陽佳は今までにこにこと浮かべていた笑みを消し、いいえ、と答えた。

「もったいないな」

「もったいなくないですよ。──俺、あの子、嫌いです」

 陽佳の口から嫌いなどという言葉が出るのは珍しい。俺は驚いた。

「なっちゃんを悪く言った。だから、嫌い」

「──何言われたんだ?」

 購買のサンドイッチをかじりながら、市谷が訊ねる。

「幼馴染みだからってずっと一緒にいるのは変だって。なっちゃんが俺を自由にしないのはおかしいとか、そのうち絶対飽きるはずだとか、そんなことばっかり言うんです」

「ああ──それは禁句だな」

 市谷が苦笑する。

「俺には、なっちゃんじゃなくてもっといい人がいるって。──そんなの、あり得ないのに」

 かすかにとがった唇と、眉間に刻まれたしわ。普段あまり怒らない陽佳が、その怒りに戸惑うような表情だった。

 俺は、昨日の夜のことを思い出していた。

 ──俺じゃなきゃ駄目なんだよね、なっちゃん。

 まるで泣きそうな顔をしている、と思った。

 俺を見下ろす陽佳のその表情の原因が、分かった気がした。

 一緒に寝たいと窓からやってきた陽佳が、自発的に俺に痛みを与えてくれた、理由も。

 俺は胸の少し下、あばらの上に制服の上からそっと触れた。市谷が視線を向けたのが分かったけれど、何も言わなかった。

 陽佳がつけた小さな赤。

 俺の肌に、はっきりと浮き上がる。

 陽佳が俺を見た。目が合うと、にこりと笑った。

 陽佳も、葛藤することがあるのだ、と思った。

 だからこそ、陽佳は俺に傷をつけ、その血を流す。きつく抱き締め、苦しそうに俺を呼ぶ。

「──小沢先輩、サボりは駄目ですよー」

 陽佳は、何事もなかったかのようにまた楽しそうに喋りだしていた。小沢がそれに答える。

 俺はそんな光景を見て、少しだけ、胸が痛んだ。

 朝方、俺の隣で眠っていた陽佳が、俺を起こさないように部屋を出ていく。そんな姿を思い浮かべたら、やけに切なかった。

 目を覚まして、声をかけてやりたかった。

 その名前を呼んでやりたかった。

 陽佳。

 俺が溺愛している幼馴染みは、いつの間にか、知らないうちに、思っていたよりもずっと大人になっていた。

「なっちゃん」

 陽佳が、俺を呼んだ。

「俺、なっちゃんに捨てられないように頑張るね」

 にこりと、その笑顔に、俺はとくんと心臓が音を立てるのに気付いた。

 小沢はほのぼのしてるなーとつぶやき、市谷は多分、何かあったのだろうと気付いたらしく、黙って笑った。

「馬鹿」

 俺は、いつも通りを装って、言った。

「俺がお前を捨てるわけないだろ」

「なっちゃーん」

 陽佳が、嬉しそうに俺に抱きついて、クラスメイトたちがぎょっとしたように俺たちを見て、教室中がざわりと音を立てたのが分かった。


 了

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