21 Brand new day~different~


 初めて着たブレザーは、襟元が少し、物足りなく感じた。顎の下に当たる詰襟の硬さを感じないのは、不思議な気分だった。

 その身長のせいで、俺は列の一番後ろに並ばされた。講堂に入って、だらだらと続く祝辞にあくびをしながら、時々周りを見回してみる。新入生と、教師と、来賓、父兄、そして生徒会か何かなのだろう、数人の生徒。

 卒業式と違って、入学式は在校生の出席がない。

 俺はネクタイに指先を引っ掛け、少しだけ緩めた。慣れないその感覚に、息苦しさを覚える。

 夏基(なつき)はいつも、ネクタイを襟元まできちんと締め、けして着崩すことなく制服を着ている。すっと伸びた背筋。白いシャツ、濃紺のブレザー、細かいチェックの入ったグレーのズボン。細い首の襟元に同じく濃紺のネクタイ。シンプルなその制服を夏基が着ると、とても爽やかで似合っている。

 俺は、どうも、この窮屈さが苦手らしい。ネクタイは早々とだらしなくぶら下げるだけになりそうだな、と思った。

 教室に戻って、適当な席に座った。と、言っても185センチを超える俺は、自然と一番後ろの席をあてがわれる。俺みたいなでかい人間が前に座っていたらさぞかし邪魔になるのだろう。案外あっさりと、俺は窓際の一番後ろ、というベストポジションをゲットした。

 短いホームルームのあと、そわそわと周りと親交をはかろうとするクラスメイトたちを横目に、俺は席を立ち、鞄を抱えた。何人かがもう帰るのか、というような顔をしてこちらを見た。教室の隅や、真ん中に少人数ずつ固まっていた女子生徒や、前の席にいた男子生徒に、俺はにっと笑って手を振って、急いで教室を出た。

 教室を出ると、きゃー、と女の子の声が短く聞こえた。なんだろう、と思ったけれど、俺は振り返りもせずに足を速める。

 校舎を出て、校門の前で、その細い背中が目に入った。

「なっちゃん」

 俺が声をかけると、夏基が振り返った。授業は休みなのに、きちんと制服着用である。

「お待たせ」

「ん──ああ」

 夏基は振り向きざまに笑顔を作りかけたが、その表情を最後まで完成させることはなかった。俺の姿を見て、真面目な顔をしている。

「なっちゃん?」

「──似合うな、陽佳(あきよし)」

 俺の頭のてっぺんから足の先まで視線を移動し、夏基がようやく微笑んだ。

「本当?」

「ああ。学ランより、いい」

「やった」

 両手を握ってガッツポーズを作ると、ひょろんと伸びたネクタイが揺れた。夏基が手を伸ばし、それを首元まで締めた。それから一歩離れてもう一度俺を見つめ、首をひねってから再び俺の前に戻ってきてネクタイを元に戻した。結局、俺の首から伸びたネクタイは、少しだらしなく緩められたままだ。

「きちんと着てるよりも似合うって、不思議だな」

 夏基は眉をひそめて首を傾げる。

「小沢みたいだ」

 その名前は、何度か聞いたことがあった。高校に入ってからの夏基の友人で、俺も一度、自己紹介などはしていないが、冬に顔を合わせたことがある。俺より低いが背の高い、少し気障な顔をした二枚目だ。顔はアレだが、結構親しみやすい、とは夏基の弁。顔はアレって、どういうことなんだろう、と思う。

「結べるようになったのか?」

「うう、まだ……」

「おばさんに結んでもらったのか?」

「うん」

 式のあとは夏基と帰ると伝えてあるので、母親はきっとすでに帰宅しただろう。今朝、鏡の前でネクタイと格闘していた俺の首からそれを引っこ抜き、手早く結んでまた頭からかけてくれたのは母親である。あの目は、不器用な息子ね、とでも言いたげな冷めたものだった。

「明日から、俺がやってやるよ」

「うわ、何か、新婚さんみたいだね」

「…………」

 夏基は俺の返しによほど意表を衝かれたのか、きょとんとして俺を見上げた。

 俺はえへへ、と笑った。夏基が慌てて目をそらし、馬鹿言うな、とつぶやく、その頬が少し赤くなっているのに、俺は気付いていた。

「なっちゃん」

 俺は夏基の手を取って、両手で握りしめる。

「今日から1年、また、同じ学校だね」

「ああ」

 夏基が笑う。まだ赤みの残る頬と、すごく嬉しそうなその微笑に、俺はうわあ、と思う。

 ──なっちゃん、かわいい。

 このまま抱き締めてしまいたい、と思った瞬間、俺の手がぺちーん、と音を立てて叩かれた。

「そこまでだ、陽佳」

 俺と夏基の横、その声は聞こえた。俺は驚いて両手を開いて夏基の手を解放し、夏基はその手を浮かせたまま、同時にそちらを見た。

「──市谷(いちがや)」

 夏基がつぶやく。確かに、そこにいたのは市谷先輩だった。夏基同様、きちんと完璧に着こなした制服と、茶色い髪、いつも温和で優しい──優しい、先輩?

 市谷先輩の顔が、何だか、いつもより鋭い。

「校門でいちゃつくんじゃない」

「いちゃついてはいない」

「手を握ってる時点でアウトだ。──おい、陽佳、お前、今、夏基に手出そうとしたろ」

「???」

 俺は混乱する。

 目の前にいるのは間違いなく市谷先輩のはずだが、俺の知る市谷先輩とはまるで違う。

 陽佳くん、なんてにっこりと柔和な笑顔を見せ、いつも穏やかで優しく、頼りになる先輩だったはずなのに、この市谷先輩は、俺を呼び捨てにし、あまつさえやけに口が悪い。

「市谷……陽佳が困っている」

「あ? 何でだ」

「お前の変わりように驚いているんだろ」

「別に俺は変わってない。こっちが地だ」

 夏基の喋り方は常々ぞんざいだなあと思っていたけれど、この市谷先輩も似たり寄ったりの口調である。

「市谷先輩が……壊れた」

「失礼だな、陽佳。せっかくお前も認めてやったっていうのに」

「諦めろ、陽佳。市谷の本性はこんなだ。──まあ、いつまでも猫かぶられてるよりいいだろ」

 夏基がそんなことを言って、溜め息をついた。

「えええー」

「うるさい」

 ばっさりと切り捨てられた。俺はがくんと肩を落とす。

 優しいお兄ちゃんみたいだった市谷先輩の変貌に、とてもついていけない。

「……どうして市谷先輩がいるんですか?」

「生徒会執行部だからだ」 

 ああ、なるほど。俺は唇を尖らせて市谷先輩を見た。せっかく夏基と2人きりだと思ったのに、俺の憧れをがらがらと崩した挙句、邪魔されている。

「別にお前らのあとをついて行こうなんて考えちゃいない」

 まるで俺の考えを読んだかのように、市谷先輩がふふんと笑った。

「ちょっと挨拶しに来てやっただけだよ」

 そう言って、市谷先輩は、俺の知る先輩の笑顔を見せた。その表情がふわりと、少し大人びた優しい笑みに変わる。

「入学おめでとう、陽佳」

 俺はにっこり笑って、ありがとうございます、と言った。

 市谷先輩は、本当にそのまま学校へ戻って行った。まだ生徒会の仕事が残っているんだろう、と夏基が言う。

 夏基と2人で並んで歩きだす。

「び、びっくりした。別人みたいだった」

「昔からあんなだぞ、あいつ」

「えええー、信じられないよー」

「まあ、あの市谷は俺と小沢くらいしか知らないしな。──俺はこっちの市谷の方が好きなんだが」

「──なっちゃん、好きって言っちゃ駄目」

 夏基がきょとんとして俺を見る。

「それは、俺限定」

 俺がすねると、夏基がおかしそうに笑った。

「そうだな。悪い」

「好きって言ってくれたら許すよ」

「好きだよ、陽佳」

 俺は満足してにこりと笑う。

「俺も大好きだよ、なっちゃん」

「知ってる」

 ──市谷先輩が聞いていたら、後ろから頭を殴られてしまうかもしれない、と思った。

 同じ制服を着て、駅へ向かう。そんな些細なことがとてもうれしかった。駅までの約5分、俺はうきうきして思わず歩調が軽やかに早まってしまう。その度に夏基に笑われ、慌てて夏基のペースに合わせる。

 これから毎日、俺は夏基とこうして歩くことができるのだ。

 ホームで、俺の隣に並んだ夏基が、なぜか周りを警戒するように見ていた。何かあったのかな、と思っていると、多分俺と同じ新入生らしい、新しい制服を着た女子生徒が何人か、こちらを見ていた。

 確かに、夏基はきれいだ。そのシャープな顔は切れそうなほどに鋭いガラスのよう。繊細で、透明で、触れたら痛みも感じないままに傷ができそうなほどに。

 夏基を誰かに渡したりはしない。夏基は俺のものだから。

 色目なんて、使わないでよね。

 俺は夏基の肩をつかんで、自分の引き寄せた。

「陽佳?」

「混んできたから」

 そう言い訳してみたけれど、別にホームはぎゅうぎゅう詰めというわけではない。多少、人は増えてきたが、俺たち2人が並んでいても邪魔になることなどない。

 夏基は少し呆れたような顔をしてから、小さく溜め息をついた。

 俺は一応、周りの女子生徒をきゅっとにらんでみた。けれどあまり迫力がないのか、彼女らは顔を赤らめきゃらきゃら小さく盛り上がる。

 ホームに入ってきた電車に乗り込み、俺たちはその中を進んで反対側の扉の前に立った。比較的空いている車内に、俺たちと同じ制服を着た生徒たちががやがやと乗り込む。

「お前って──」

 電車が走り出すと、夏基が言った。

「俺の心配を、簡単に裏切るよな」

「え、何?」

 俺は慌てて夏基を見下ろした。夏基はなんだかおかしそうに顔をゆがめていた。

「お前を見て色めき立ってるやつら、けん制してるのは俺の方なのに」

 俺は首を傾げる。

「見られてるのは、なっちゃんでしょう?」

「お前だよ」

 夏基の手が俺の頬に伸び、ぴたぴたと叩いた。

「お前がかっこよすぎるのが理由」

「えー……?」

「自覚ないってのは、一番厄介だな。──お前、クラスの女にも簡単に笑顔振りまいてんじゃないだろうな」

 振りまいたつもりはないが、教室を出るときに笑顔を作った記憶はあった。俺が黙っていると、夏基が眉をひそめて少し不機嫌な顔になった。

「──とって食われるぞ」

「え? ──食われる、って、俺が?」

「当たり前だ」

「ええー、ないよー」

「油断すんな」

 夏基の目は本気だった。まるでにらまれるようになった俺は、思わずひるんだ。

 夏基はきっと、余計な心配をしている。こんなでっかい俺を、誰が食うっていうんだろう?

 俺はうーん、と首をひねって考えてから、まだ隣で眉間にしわを寄せている夏基を見下ろした。

 ──どうせ食べるなら、なっちゃんだよねえ。

 そんなことを考えながら、にへら、と笑った。夏基が視線を俺に向けた。上目遣いって、いいなあ、と思った。

「心配だな──」

 本当に、本気で心配しているらしい夏基が、ますます眉間のしわを深くした。

「心配しなくても、俺、なっちゃん以外目に入らないよ?」

「──そうか」

 そううなずいてはくれたが、不機嫌そうな顔はそのままだった。だから、こっそりつぶやいてみる。

「それに、俺が食べたいのはなっちゃんだけだよ」

 夏基はぱっと俺を見上げた。眉間のしわは消えていた。

「陽佳」

「何、なっちゃん」

 夏基は突然、俺のネクタイをつかんで、それを引っ張った。俺の身体ががくんと傾き、夏基に近付いた。

「好きなだけ、食わせてやるよ」

 近付いた俺の耳元で、小さくささやいた夏基が、にやりと笑ってネクタイから手を離した。ほんの一瞬の出来事だったので、他の乗客は何も気付かないかのように俺たちを気にしてはいなかった。

 俺はよろりとよろめき、扉にごつんと頭をぶつけ、そのまま背中をつけてずるずるとしゃがみ込んだ。

「なっちゃん、ずるい……」

 俺はささやかれた方の耳を押さえて、真っ赤になって夏基を見上げた。

 周りの乗客が、突然しゃがみ込んだ俺を、どうしたのかと振り返る。

 俺は真っ赤になったまま、その視線から逃げる方法が思いつかず、必死でその顔を隠してそっぽを向いていた。

 夏基が、俺を見て、楽しそうに笑った。


 了




 次回からは高校生活編。

 まあ、やってることは相も変わらずです。

 もう少しだけ、平和。……かな?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る