20 スローダウン


 はっきり言えば、少し拍子抜けしている。

 卒業式の日以来、陽佳(あきよし)が俺に触れてこない。

 陽佳のことだから、助長して、普段以上にべたべたとくっつき、なんちゃんなっちゃんとしつこくすり寄ってくるものだとばかり思っていた。

 それなのに、今日も陽佳は俺の部屋で床に座って携帯ゲームに夢中になっている。

 俺はシャープペンをノートの上に転がし、椅子から立ち上がった。床で胡坐をかいている陽佳の背中に抱きついて、陽佳の耳からイヤーフォンを引っこ抜き、ゲームを覗き込んだ。

「それ、面白いのか」

「うん。ハイスコア出す」

 夢中になっているから、てっきり新しいゲームなのかと思っていたら、だいぶ前に発売され、やり尽した感のあるシューティングゲームだった。慣れた手さばきで機体を操り、次々に敵を打ち落としていく。

「なっちゃん、勉強終わったの?」

「終わった」

 と、いうか、終わらせた。

 ゲーム機からもイヤーフォンを抜いたら、突然、音が響いた。ちゃらりらばしゅーん、ばしゅーん、ぼがあああん。そんな風に聞こえた。やかましい。

「なあ」

 俺は陽佳の背中に額を押し付け、言った。

「構え」

「うん、待って」

 陽佳はゲームをやめようとしない。俺はイラつき、顔を上げて手を伸ばし、陽佳の手からゲームを奪った。ベッドの上に投げ捨てると、自機が攻撃され、大破する音がした。

「あー、ひどいよ、なっちゃん」

「ひどいのはお前だ」

「えー、俺、ひどくないよ」

「…………」

 俺は陽佳をにらむ。陽佳はきょとんとして首をひねった。

 困ったように俺を見つめ、どうして俺が起こっているのか分からないようで、首を右に左にひねり続ける。

 お前の性欲は、たった一度のセックスで満たされて、枯れるのか?

 ──さすがに口にはしなかったが、おおむね、俺の怒りはそんな感じだ。

 ああ、そうだよ。

 どうせ俺が欲情してるだけだ。

 いいから早く、触れ。

 俺は陽佳の手をつかみ、自分に引き寄せる。陽佳が思わず、といった感じで手を引いた。まるで抵抗されたような気がして、俺は少し、ショックを受けた。

「なっちゃん?」

「陽佳の馬鹿」

「え?」

「馬鹿だ。馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿」

 陽佳はさらに混乱したように目を丸くし、俺を見ている。

 跳ねる毛先は奔放に、けれど計算されたように流れる。短くなり、今までのような野暮ったさが消え、ただただスタイリッシュなヘアースタイル。急激にそのカッコよさが顕著になってしまい、一緒に外を歩いていると、四方から熱っぽい視線を浴びる。

 しかも、陽佳は急に、大人びた。今までのただ無邪気なだけの笑顔だけでなく、いつの間にか余裕を覗かせ、ほんの少しの愁いを帯びる。

 もう、子供ではないんだな、と思った。

「なっちゃん……」

 陽佳が困ったように眉を寄せる。このヘタレた顔も、俺は結構気に入っている。

「──俺ばっかり、」

 俺は前髪に手を突っ込み、額を抱えるようにして言った。

「俺ばっかり、お前が欲しいみたいじゃないか」

 ぼそりとつぶやいたら、突然、目の前の陽佳がぶわっと真っ赤になった。

 俺はそれを見て、呆気にとられた。

 何だ、その反応。

「なっちゃん──」

 珍しく視線をそらしながら、陽佳がつぶやく。

「色々、いっぱいいっぱいなんだよ、俺」

 ぼそぼそと、恥ずかしそうに続ける。

「そうでなくても毎日なっちゃんのことばっかり考えて1人で──」

「1人で?」

「──うう」

 ゲームからはしつこく音楽が流れていた。オープニングの画面に戻り、デモ画面になり、再びオープニングの画面になるのを繰り返している。

「だって、なっちゃん、満足してないと思って──やっぱり、傷作った方がいいのかなとか、ただ気持ちいいだけじゃ駄目かなとか、痛い方がやっぱりいいのかなとか、すごく色々──」

「馬鹿か、お前」

 俺は陽佳の身体をどんと押した。床にごろんと倒れた陽佳が、びっくりしたように俺を見上げる。

「充分痛いから、いいんだよ」

 そう言って陽佳を見下ろしたら、両手で真っ赤な顔を隠して、陽佳がうにゃうにゃと何か、つぶやいた。聴きとれなくて顔を近付けたら、かすかに聞こえるような小さい声で、

「……やばいよなっちゃん男前すぎるし、かっこいいし、かわいいし、それに……ずるいよなっちゃん、それ反則……ていうかやっぱり痛いんだ……」

 俺はぶはっと吹き出して、両手の隙間からこっそり俺を見た陽佳に、乗りかかるようにキスしてやった。


 陽佳の無駄に強い自制心は、一体どこで培われたんだ、と俺は思う。

 10代なんて、性欲の塊みたいなもんじゃないのか?

 寝ても覚めてもヤることしか考えてないんじゃないのか?

 俺はずずずとストローでアイスカフェモカをすすった。正面でソイラテのカップを持ち上げた中学からの友人・市谷(いちがや)が、それはそれは深いため息をついた。

「夏基(なつき)……俺がお前の性欲の話を聞くことに、何メリットがあるのか」

「俺の性欲じゃない」

「同じだ」

 俺と似たような喋り方をするこの友人は、仲のいい人間以外の前では、驚くほど穏やかで優しく、人のいい笑みを武器にしている。見た目も穏やかで、誠実。ふわりと微笑むその顔は、癒しの塊である。が、本性は結構腹黒く、俺様である。

 しかし、俺は、この本性の方を、気に入っている。

 付き合いが続いているのも、お互いに一緒にいるのが楽だからだ。

「陽佳が何であんなに我慢できるのか不思議なだけだ」

「──俺にもたいして性欲はないな」

「お前は人外だ」

 市谷は眉をひそめた。心外だ、とでもいうように俺をにらむ。

「人を呼び出しておいて人外扱いかよ、お前。いい度胸だな」

「だから、そのソイラテはおごってやってる」

「対価が割に合わない」

 市谷はカップに口をつけて、静かに言った。

「こういうのは、小沢の得意分野だろう。あいつは、歩く性欲だ}

 思わず吹き出しそうになった。

「今からでも呼べ」

「今日はデートらしい」

「また、か」

 市谷がため息をつく。

「あいつもよくまあ次々に相手が見つかるものだ」

 確かに、小沢はしょっちゅう彼女が変わる。高校に入ってからの友人だが、この2年のうちに知っているだけでも10人近い。見た目もいいし、背も高く、性格も明るくていいやつだが、その軽薄さだけは相容れない。

「それで、お前はどうしたいんだ」

「どう?」

「陽佳が手を出してこないのが不満なんだろ」

 普段は、陽佳の前ではいい先輩の体でにっこり笑い、「陽佳くん」なんて呼んで優しい先輩を演じているくせに、俺の前では「陽佳」扱いだ。呼び捨てにしていいと言った覚えはないが、相手が市谷だと腹も立たないのはなぜなのだろう。

「──いや」

「今の話から判断すると、そう聞こえる」

「そういうことでもないんだ。──ただ」

 なっちゃん。

 そう言ってにっこり笑い、俺に擦り寄ってくる陽佳を思い出す。

 長い腕にぎゅうぎゅうと抱き締められて、なっちゃん大好き、と耳元でささやく。

 ああ、そうか。

 俺はストローでカップの中身をかき混ぜ、ようやく気付いた。

「あいつが、くっついてこない」

「──あ?」

 市谷が不機嫌そうな声を出す。

「普段は、鬱陶しいくらいにくっついてくるんだ。抱きついて、俺を離さない。近くにいれば、間違いなく触れてきた。それなのに、最近はちっとも──」

「惚気んな」

 丸めた紙ナプキンをぶつけられた。額に当たったそれは、そのまま床に落ちた。俺は身を屈めてそれを拾い上げる。

「馬鹿らしい。悩むほどじゃない」

 チョコレートチャンクスコーンをかじって、市谷はうんざりしたような顔をする。もちろん、このスコーンも俺のおごりだ。

「ようするに、近づくと手を出しそうになるから、セーブしてるんだろ」

「セーブ……」

「お前の妙な性癖無視したくないんだろ、あいつは。自分だけ満足したらなっちゃんに悪い、とか考えてんだよ」

 妙な性癖、とはずいぶんな言われようだが、事実なので仕方がない。俺が陽佳に傷つけられたいと願っていることを知っているのは、陽佳本人と、この市谷だけだった。別に告白したわけではない。去年の秋、ひょんなことからばれてしまった。それでも、市谷は責めるでも、軽蔑するでもなく俺との付き合いを続けている。

 この失礼な物言いも、普段通り。それが、こいつのいいところでもある。

「なっちゃん言うな」

「ああ、失礼」

 にやりと笑う市谷は、その穏やかそうな顔を皮肉っぽくゆがませる。

「あの犬っころが、待てをできるとは思わなかったな」

 市谷にも陽佳が犬に見えるらしい。

「結構賢い」

「お前が犬扱いは駄目だろ」

 はは、と市谷が笑った。今度は優しげな顔をさらに強調するかのように、目元が下がる。

 いつも少し、笑っているかのような口角の上がった口元と、わずかに下がった目尻。眉は緩やかに伸び、色素の薄い瞳と髪の毛は、一見日本人以外の血が入っているようにも見える。残念ながら純日本人のこいつの家は、おもいきり和風の大邸宅。つまり、結構いいところのお坊ちゃん。

 黒髪に黒い瞳、少しきつくもある切れ長の目元、薄い唇は冷たい印象を与える俺。

 見た目は正反対だが、小沢は俺たちを、よく似ている、と言う。雰囲気や、考え方や、口調、そんなものが同じなのらしい。

 市谷はカップを置いて、どうやら着信したらしいスマホをポケットから取り出した。

 目線を落としているその睫毛は長く、よく整った顔をしている、といつも思う。陽佳のようなワイルドさはないが、繊細で、柔らかく、淡い。

「小沢だ」

 市谷は返事を打ち込んでいる。

「彼女に振られたらしい。呼び出された」

「そうか」

 答えた瞬間、俺のスマホも音を立てた。確認すると、陽佳だった。

「犬か」

 失礼な物言いに、俺は苦笑した。

 届いたメールは、どこにいるのー、と陽佳の口調そのままの文字。俺は駅前のスタバ、とだけ打ち込んで返信した。

 また、着信。すぐいくー、とまたその口調が想像できる文字。

「陽佳が来る」

「ものすごいスピードで走って来そうだな」

「確かに」

 俺たちが笑い合っていると、本当にすぐに、陽佳が駆けてきた。返事をして、1分も経っていない。

「なっちゃーん」

 はあはあと息を切らして俺たちの席までやってくると、テーブルの隅を両手でつかんで、ちょこんとしゃがみ込んだ。そのまま大きく呼吸し、息を整える。

「早いな」

「うん。入口のとこにいた」

「こんにちは、陽佳くん」

 市谷がよそ行きの声と笑顔で挨拶した。陽佳はぴょこんと立ち上がって、ぺこりと頭を下げる。

「こんにちは、市谷先輩」

「髪、切った? さっぱりしたね」

「なっちゃんも、似合うって言ってくれました」

 にこにこと、陽佳が答える。市谷はちらりと俺を見た。にやにやと笑いながら、その目は何か言いたげだ。

「黙れ、市谷」

「何も言ってないよ、夏基」

 白々しく、そんなことを言った。

「陽佳、何か飲むか? おごってやる」

「え、やった」

 俺は財布を渡し、好きなものを買って来い、と陽佳をレジカウンターに押しやった。陽佳がうきうきしながら向かう。

「市谷……」

「想像以上のバカップル」

「…………」

 俺がぎろりと市谷をにらむ。

「まあ、幸せそうで何よりだけどな」

 ひょいと肩をすくめて言った市谷に、俺は少し驚いた。まさかそんなことを言われるとは思わなかった。

「いんじゃねーの、お前らは、そんな感じで」

「そうなの、か?」

「ようするに、お前も、あいつも、お互いベタ惚れってのはよく分かる」

 それは間違いない。俺も陽佳も、それだけはお互いに自覚している。

 市谷はカップを持ち上げ、残っていたソイラテを飲み干した。

「あいつが手出してこないなら、お前が襲え」

 がたんと席を立ち、市谷は言った。

「それで万事解決」

 スマホをポケットにしまい、トレイを持ち上げる。

「じゃ、ごちそうさん」

 どうやら、俺との約束を反故にして、小沢のところへ行ってやるらしい。まあ、陽佳が来てしまえば、俺は確実に市谷よりも陽佳を優先する。市谷もそれをよく分かっているから、この場を去ろうと思ったのだろう。

「今度はお前がおごれ」

「俺はお前に相談するようなことはない」

 そんな捨て台詞を残して、トレイを片付けている。途中で、陽佳が注文を終えてダストボックスの前にいる市谷に話しかけている。

「もう帰っちゃうんですか?」

「うん、このあと、予定があるんだ。──ああ、これから同じ学校だね。楽しみにしてるよ」

「はい」

 陽佳がその後ろ姿をしばらく見送って、それからおもむろに俺の方に向き直り、急いで俺の待つテーブルにやってきた。

「ありがとう、なっちゃん」

 財布を渡されて、俺はそれを受け取る。

「市谷先輩は、いつもいい人だねー」

「猫かぶり」

「え?」

「いや、なんでもない」

 陽佳はホイップクリームたっぷりのフラペチーノ。ざくざくとストローを差し込んで、そのホイップを混ぜ込んでいる。

 まあ、付き合いはいいやつだ。今頃、急いで小沢の元に向かっているであろう市谷を想像した。落ち込んだ小沢を、あの少し素っ気ない、冷たくも思える口調で、慰めになっているのかいないのかよく分からない言葉で、元気付けるに違いない。

「制服、できてたのか?」

 陽佳は今日、注文していた制服を取りに行っていた。付き合おうか、と言ったが、なっちゃんに制服姿を見せるのは入学式と決めてる、などと言われ、仕方なく我慢した。

 今まで学ランだったから、ブレザー姿の陽佳を、実は楽しみにしている。

「うん」

「早く見たい」

「入学式にね」

「──お前の制服姿なら、すごくかっこいいんだろうな」

 ストローをくわえた陽佳が、赤くなった。

「なっちゃん、そういうこと、言われると、恥ずかしい」

「本当のことだから」

「うう……」

 陽佳がでかい身体を少し縮めるようにして背中を丸めた。

 今も、店の女性客が何人か、陽佳を盗み見ている。俺はそいつらを1人ずつ、威嚇するようににらみつけた。俺と目が合うと、それぞれ慌てて目をそらしたり、うつむいたりした。

「なっちゃん」

 陽佳に呼ばれて、俺は視線を戻す。

「帰ったら、ぎゅってしていい?」

 にっこりと、無邪気な笑顔でそんなことを言われて、俺は毒気を抜かれた。

 そんなこと、いちいち断らなくてもいいのに、と思った。

 俺たち、もっとすごいこと、してるんだぞ。

「いいよ」

 少し呆れてそう答えると、陽佳はさらに笑みを深め、声を潜めて、俺にだけ聞こえるようにささやいた。

「大好きだよ、なっちゃん」

 いつも言われている台詞なのに、その響きは妙に生なましく感じた。だって、あの陽佳が、俺に好きだと言うために、声を潜めた。いつもなら、誰に聞こえても平気そうに、あっけらかんとしているのに。

 少しは自覚しているのだろうか。

 俺のカップはもう空だ。

 俺は椅子から立ち上がった。陽佳がきょとんとして俺を見上げた。

「なっちゃん?」

「──帰るぞ、陽佳」

「え? まだ飲んでるよ?」

「持ち帰る」

 陽佳を無理矢理のように立たせ、カップを持った腕をつかんで引っ張るようにして歩き出す。途中、俺は空になったプラスチックのカップをダストボックスに叩き込んだ。

「なっちゃん?」

「──ぎゅって、するんだろ」

 陽佳が赤くなって、うん、と笑った。

 ──あいつが手出してこないなら、お前が襲え。

 市谷の言葉を思い出す。

 別に、それだけじゃない。

 ようするに、俺は、陽佳と一緒にいたいんだ。

 それだけで、ただ、嬉しいと思えるくらい。

 いつの間にか、陽佳が俺の手を取って、先を歩いていた。まるで先導するように、少しだけ、先を行く。俺は陽佳の斜め後ろから見た横顔を見つめながら、そんなことを思っていた。

 ──それで万事解決。

 悪いな、市谷。

 俺は、きっと、陽佳のためなら自分の欲求ですら、抑え込めるような気がする。

 まあ、あまり待たされるのは辛いかもしれないが。

「なっちゃん」

 前を向いたまま、陽佳が俺を呼んだ。

「俺、なっちゃんと一緒にいられて、すごく嬉しい」

「陽佳──」

「大好きだよ、なっちゃん」

 陽佳の笑顔は、晴れやかで、とてもまぶしい。

「俺も──」

 ふわりと風が吹いて、陽佳の髪を揺らした。

「俺も好きだよ、陽佳」

 振り返った陽佳が、嬉しそうに、笑った。


 了



 鉄の自制心を持つ陽佳、ってことで。

 偉いなあ。

 夏基、デレまくりですけど、仕方ないです。溺愛なので。


 これから、市谷と小沢が出張ってくるので、よろしくお願いします。

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