19 卒業~different~

 ☆前出「tender」の、陽佳視点になります。


 髪を切った。今までもっさりと伸ばしていたそれを、ばっさりと。

 ただし、夏基(なつき)が俺の長い髪を結構気に入っているようだったので、ある程度の長さは残し、鬱陶しく見えないくらいに切ってもらった。スタイリングが楽なように、色んな角度から計算されたカッティング。クセのある髪が、それゆえに微妙な流れを作り出し、決まっている。鏡の中の俺は、突然さっぱりと垢抜けてしまった。

 美容師のお兄さんが満足そうにドヤ顔をし、ほかの美容師のお姉さん方がぱちぱちと拍手をした。よほど渾身の出来だったらしい。

 夏基の部屋に寄ったら、俺の姿を見て夏基が少しだけ頬を赤くし、口元に指先を当て、視線をそらした。そしてそのまま、いいんじゃないか、とつぶやいた。

 なっちゃん、照れてる?

 そう訊ねると、夏基はむっとして俺をにらみ、赤い顔のまま、うるさい、と言った。

 俺が髪を括ると、夏基がいつも嬉しそうな顔をしていた。多分、その髪型が好きだったんだろうな、と思った。だから、今も、ギリギリだけどサイドとトップをてっぺんで括れる長さ。

 明日でようやく終わりだからね。

 そう言った俺に、夏基は眉をひそめて、何かつぶやいた。

 その顔じゃ、明日が不安だ。

 そう聞こえたような気がした。

 そんな心配は必要ない。だって俺は、夏基以外、好きになったりしないんだから。

 明日、か、と夏基が言う。

 うん、そうだね、と俺がうなずく。

 明日は、俺の卒業式だった。


 長い祝辞や通り一遍の来賓挨拶、長かった式が終わる頃には、俺は周りの涙にあふれた感動の場面とは裏腹に、うとうとと眠りそうになるのを必死で堪えていた。

 あくびをしたら、涙が滲んだ。まあ、もちろん、その涙を誤解するような人間はいない。こんな寝とぼけた顔をしているのだから、当然だ。友人は呆れたように俺を何度も揺り起こし、せっかくの感動なのにちっとも味わえない、と文句を言った。

 俺にとって卒業は待ち焦がれたものだった。

 これでようやく、夏基と同じところへ行ける。

 教室で最後のホームルームのあと、俺たちは校舎を出た。友人と別れを惜しみながらも、春休みには遊ぶ約束を入れ、明るく別れた。そのあとは、驚くくらいの人数に周りを囲まれた。

 ボタンをねだる女子生徒に、仕方がないので袖のボタンも、裏ボタンも、みんな渡してあげた。それでも受け取れなかった子たちが、泣きながら俺を取り囲む。

 1人ずつと別れの時間を設け、告白は丁寧に頭を下げて断った。途中で母親が、先に帰るから、と声をかけてきた。俺はまだ続く列にうんざりしながらも、分かった、と答える。

 同級生も後輩も入り混じり、一緒に写真を写す。一体どのくらいの時間が経ったのか、ようやく俺は解放された。

 最後の1人に笑顔で手を振って、やれやれ、と息をついたら、名前を呼ばれた。その瞬間、俺の毛がざわっと逆立つ。

 担任が、俺を呼んでいた。

 校庭の隅で向かい合った。

「髪、切ったのね」

 嬉しそうに笑いながら、まず、そう言った。

「とっても似合ってる。ますますステキ」

「──どうも」

 お前のために切ったわけじゃない。

 お前から解放されるから、切ったのだ。

 俺は素っ気なく答えた。

 校庭の隅、それでも生徒や教師がちらほらとそこかしこにいる。けれど担任は何の自信なのか、胸を張るように俺の前に立っている。

「ようやく卒業ね」

 俺はかすかにうなずいた。

「──これで、もう、教師と生徒じゃないわ」

 いつもよりは濃い口紅。その口元が微笑む。俺に一歩近づき、見上げる。

「沢村くん」

 ああ、嫌になるくらい絡みつく媚びた声、仕草。そしてまとわりつくような甘い香水。

 ようやく。

 俺は口元が持ち上がるのが分かった。笑いだしそうになった。担任はそれを見て、自分も笑顔を作ろうとした。けれど俺はそれをさせなかった。

「そうですね。──もう、教師でも、生徒でもない」

「ええ」

「だったら──」

 俺は笑いだすのを必死で堪えて、言った。

「もうアンタとは、何の関係もない」

「──え?」

 ようやく俺は、解放される。

「我慢しなくていいんだ」

「沢村く──」

「その無駄に媚びた喋り方も、俺の身体を勝手に撫で回す手も、しつこいキスも──甘いだけで気分が悪くなるような香水も、みんな、反吐が出るくるらい大嫌いだったよ、先生」

 担任が目を見開き、呆然としたように俺を見ていた。

「俺はね、先生。夏基のために耐えたんだ。夏基と同じ高校に行くためには、問題を起こすわけにはいかなかったから」

 びゅう、と風が吹き、校庭の砂を舞い上がらせる。ぱらぱらと音を立てて落ちていくそれが、俺の耳にも届いた。

「──俺の心は、夏基のものだよ。他の誰にも、動かせない」

「──さわ……」

「アンタの声にも、手にも、香りにも」

 担任の顔が蒼白していく。

「夏基以外、俺は誰も愛さない」

 ふらりと、今にも倒れそうなほど、担任の足元には力がない。

 俺は身を屈めるようにして、少しだけ担任に近づいた。

「こんな香りで、俺の意志は揺るがない」

 甘い香り。鼻の奥にまとわりつき、身体中を縛る、その香り。

「吐き気がするくらい、大嫌いだ」

 俺は身体を起こした。

 担任は、まるで怖いものでもみるように、俺を見ていた。

 また、風が吹く。今度はびゅ、と短く。舞い上がる砂が目に入らないよう、俺は卒業証書の入った筒を持つ右手で軽く顔をガードした。そらした視線の先に映るその姿を、俺は見落とさなかった。

 あちこちで泣きながら別れを惜しむ生徒や教師。最後のチャンスとばかりに目当ての相手を囲み、写真をねだる後輩。

 制服やスーツに囲まれたその中で、春らしい色のカラーパンツにカットソー、パーカーを羽織って、ちょっとその辺まで散歩、という感じで夏基が立っていた。こちらを見ていたらしく、俺と目が合うと、かすかに笑う。

 俺は自然と顔がほころぶのを感じた。

 俺は向き直り、まだそこに立ち尽くしていた担任に、最後の挨拶を告げた。

「さよなら、先生。永遠に」

 俺は振り返り、足早に夏基の元へ向かった。後ろで、担任が何か言ったようだけでど、聞こえなかった。フリをした。

 夏基。夏基。夏基。

 それだけを、心の中で何度も繰り返す。

「なっちゃん」

 俺は校庭の真ん中で、夏基をぎゅうっと抱きしめた。

「来てくれたの?」

「ああ。──卒業おめでとう、陽佳」

 頭を撫でられた。俺は身体を離し、にこりと笑った。

「すごく囲まれてたな」

「──見てたの?」

「ん、ちょっとだけ」

「心配、ないからね?」

「分かってる」

 夏基がうなずいた。それから、ふと、その視線を俺がさっきまでいた場所へ向けた。

「お前の担任、だよな」

 俺は振り向かなかった。そうだよ、と何事もなかったかのように答えた。

「──何か、にらまれてるぞ」

「そう? いいんだ。もう、終わったことだし」

「お礼参りとかじゃないだろうな」

「ないよ。大丈夫」

「なら、いいけど──」

 夏基は少し考えるような表情をしていた。担任を見つめるその顔は、わずかに眉をひそめている。

 あんなやつのために、夏基がその顔を歪ませる必要などない。

 俺は夏基の手を引いて、学校を出た。敷地から一歩足を踏み出したら、俺はもう、ただの中学生ではないのだ、と思った。隣の夏基が俺を見上げ、俺は嬉しくて頬が緩むのを抑えられなかった。

「なっちゃん、卒業したよ」

「そうだな」

「ようやく、なっちゃんと同じ学校に行けるね」

「合格発表はまだだろう?」

「自己採点、9割正解だったもん」

「──お前、本当に成績上げたよな」

 感心するように言って、夏基が首を傾げた。何を考えているんだろう、と思ったら、夏基が足を止め、どことなく真面目な顔をして、言った。

「お祝い、やらなきゃな」

「お祝い?」

「ああ。欲しいものはあるか?」

 そう言われて思い浮かぶものは──

 俺は夏基を見下ろす。

「何でもいい?」

「ああ、何でも」

「──やっぱり駄目、って、聞いたあとに言わない?」

「よっぽど高いものなら、言うかもしれない」

 夏基が苦笑する。

「値段じゃないよ」

 俺の声に、夏基がまた、真剣な顔をした。じっと俺を見つめ、やるよ、とつぶやく。まるで言い聞かせるように。俺はその言葉を、信じよう、と思った。

 夏基が再び、今度は少しその表情を柔らかくし、俺を見つめて言った。

「卒業祝いに、何でも好きなものをやる」

 俺の欲しいものなんてひとつしかなかった。

 夏基が欲しい。

 夏基以外は、何もいらない。

 俺は夏基の手を取り、その願いを、初めて口にした。


 はっと目を覚ました。暗い部屋の天井に、ぼうっと鈍く窓からの光が映っていた。

 青いカーテン。それを通した、多分、月明かり。目を凝らさないと分からないくらい、ぼやけたそれを、俺は見つめた。

 ──夏基の部屋だ。

 俺はゆっくりと身体を起こし、自分がどこにいるのか理解した。

 肌寒さを感じて、俺は今までもぐりこんでいた布団を胸元まで引っ張り上げた。けれど外気にさらした背中から冷たい空気が伝わった。

 夏基?

 ベッドの中に、夏基がいない。

 俺は一人、そこにいた。

 俺は両手を持ち上げ、その手のひらを見つめた。暗闇慣れた目が、肌の色を浮かび上がらせる。

 ほんの数時間前、この手で夏基を抱いた。夏基の身体をたどるように撫でた感触が、まだ残っている。

 その肌の温かさすら。

 すべらかな肌が少しずつ汗ばむ。しっとりと、貼り付くように、俺は身体を重ねる。

 傷も、出血も生まないその行為を、夏基は受け入れてくれた。

 傷つけたくない。どんな痛みも与えたくない。それだけを考えた。

 念入りに、ひたすらに、ゆっくりと時間をかけてひとつになった。

 夏基の目に滲んだ涙が、後悔じゃなきゃいい。

 その瞳を見つめながら、何度も何度もキスをした。

 夏基が好きだ。

 大好きだ。

 たどたどしく、けれどもしっかりと、俺は夏基を抱き締め、捉える。

 ──愛してるよ、夏基。

 そうささやいたら、夏基が俺に向かって微笑んでくれた。

 俺はゆっくりと両手を下ろし、部屋の中を見回した。俺の脱いだ制服が床に落ちていたので、手を伸ばしてシャツを拾い、身に着けた。

 さっきまでの肌寒さが少し緩んだ。

 暗い部屋の中で、俺は突然自分の顔が赤くなっていくのに気付いた。大きく脈打ち、身体中が熱くなる。

 俺の腕の中で、途切れ途切れのかすれた声で、夏基が俺の名を呼んだ。

 その姿を、声を思い出すだけで、また昂る。

 尋常じゃないくらいの速さで心臓が音を立てて鳴る。

 俺は両手で頭を抱え込み、うわあああ、と叫びだしたくなるのを必死で堪えた。

 夏基、かわいすぎる。

 目を凝らすように、俺を見る。短く繰り返す呼吸と、時折意図せずして漏れる声。何もかもはっきりと思い出せる。

「あああ、なっちゃん、かわいい!」

 思わず、声に出た。その瞬間、がちゃりと部屋のドアが開いた。俺ははっとそちらを振り返った。

「何──叫んでんだ」

 電気がついて、その姿がはっきりと見えた。目を据わらせた夏基が、低い声で言った。

「あ、ご、ごめん、なっちゃん」

 夏基はばたんと部屋のドアを閉めた。パジャマ姿で肩からタオルをかけていた。シャワーを浴びてきたらしく、ほんのり赤く染まった頬をして、かすかにボディソープの香りを漂わせている。そのままこちらにやってきて、ベッドの端に腰を下ろした。

「目、覚めたのか」

「う、うん」

「よく寝てた」

「そ、そう」

「──お前、すごいな」

「え?!」

 俺が引きつったような顔をしているのを見て、夏基がぷっと笑った。

「別に悪い意味じゃないだろ。──そんなにびくびくするな」

「う、うん。──そう、だけど」

「本当、すごいよ。──お前に触られたとこ、全部、いつまでも熱い」

「うわあ」

 俺はうつむき、両手で顔を押さえた。

「触れられるたび、好きだ、好きだ、大事だ、大事だ、大好きだ、大好きだ、って、言われてるような気がした」

「う、うん、だって、そうだから」

「優しすぎるし、俺のことばっかり気遣うし、壊れ物みたいに触れるし」

 夏基はなぜか少し怒っているような口調で続ける。

「何だよ、あの余裕。何か腹立つ」

「よ、余裕なんてないよ!」

 俺は顔を上げ、身を乗り出した。

「めちゃくちゃ必死だよ。だって──」

「だって?」

「だって──なっちゃんのこと、ようやく、手に入れたんだよ」

「──俺は、ずっと、お前のものだと思ってたけど」

 さらりと言われて、俺は言葉に詰まった。

「いつ言われるか、ずっと待ってた。けど、ちっとも口にしないから──」

 夏基の手が俺のこめかみの辺りに伸び、髪に指先を差し込むようにして撫でる。

「少し、寂しかった」

「だ──って、なっちゃんは、こんなことを望んでないと思ってた」

「ああ、そうだな。そうだったかもしれない。でもな、陽佳」

 俺の頭を引き寄せるようにして、夏基が自分の顔を寄せる。

「お前が望むことを、俺だって、かなえてやりたかった」

 至近距離で見つめられ、俺はなぜか突然、涙腺が緩んだ。あっという間にぽたぽたと涙が零れ落ちる。

「なっちゃん……」

「愛してるよ、陽佳」

 そう言って笑った夏基が、唇を重ねる。俺は夏基を抱き締める。

 しばらく黙って抱き合っていた。俺は夏基の細い体を離したくないと思った。

「なあ」

 顔を上げた夏基が、俺を見ていたずらっぽく笑う。

「好きって言え」

 俺は鼻をすすりながら、にっこりと笑って、いつものように言った。

「大好きだよ、なっちゃん」

「ん」

 夏基は俺の背中に両腕を回し、抱き締めてくれた。俺も同じように、もっと力強く、抱き締めた。

 俺は夏基をベッドに引っ張り込み、布団の中で再びその身体を抱き締める。

 このまま眠りたい。

 きっと、今までで一番幸せな夢を見られる。

 夏基の身体に鼻先を押し付けるようにしていた俺は、はたと大事なことに気付いた。

「──なっちゃん」

「何だ」

「そういえば、おじさんと、おばさんは……?」

 学校から帰ってきたら、2人とも留守だった。おじさんは仕事かもしれないが、おばさんは多分、買い物か何かだったのだろう。俺は頭が真っ白になるくらい緊張して、テンパって、焦っていたのでよく覚えていないが、こんな時間まで留守ということもないだろう。

「ああ、お前の家」

「──はい?」

「だから、お前の家。お前の卒業を口実に、酒盛り」

 なんだか目に浮かぶような気がした。やたらと仲のいい互いの両親は、理由をつけては集まって飲み食いしている。

「ええと、俺の、卒業祝いだよね?」

「そう、お前の」

「俺、ここにいるんだけど」

「そうだな」

「本人抜きのお祝い?」

 夏基が布団の中で俺を見上げる。

「お前は、受験勉強の疲れと、卒業できた安心感で力が抜けて、俺の部屋で話している最中に爆睡し、そのまま目覚めない、ということになってる」

「…………」

「だから、ばれてない」

「なっちゃんてさあ」

 俺ははあ、と溜め息をつく。

「時々、ものすごい度胸だよね」

「褒め言葉か?」

「──うん、まあ、そうかも」

 俺は苦笑し、夏基をぎゅうと抱いた。

「陽佳」

「何、なっちゃん」

「下着くらい、履け」

 あ、と思った。そういえば、拾えたのは上着だけで、他は何も身に着けていない。俺は慌てて身体を起こし、部屋を見回す。

「あれ、なっちゃん、俺のパンツないっ」

「知るか」

 夏基はふわあ、とあくびをして、俺がめくりあげた布団を奪うように自分にかけた。

「え、なっちゃん、寝ちゃうの?」

「ん。疲れた」

「えええ」

 俺は狭いからとベッドから放り出された。

「なっちゃーん」

 ようやく見つけ出した下着を履いた俺は、夏基の身体を揺する。

「もっといちゃいちゃしようよー、なっちゃーん」

 初めての夜を──まあ、実際には昼下がりから夕方にかけて、というのが正しいのだが──迎えたそのあとって、もっと甘いんじゃないの?

 抱き合って眠ったりするんじゃないの?

 俺は、もはや寝息を立てている夏基の安らかな寝顔を見つめたまま、なっちゃーん、と、ひたすら嘆いていたのだった。


 了



 色々、卒業。本当に、色々。

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